23-1.決意は闇夜に燃える
――王都サフィーア南側住宅街『自宅』
真っ暗で鎮まり返った家の中。湿気のドブのような匂いが鼻につき、冷たい空気が、細い針のように肌を刺す。
玄関から伸びる水の足跡。辿った先でペしゃり――落とされたマントが音を立て、雨水を散らした。
靴を乱雑に脱ぎ捨て、裸足でぺたぺたと足音を鳴らし、螺旋階段を登る。開け放たれていた扉に吸い込まれ、自室の椅子に深く腰掛ける。短く息を吐き、そして部屋の隅に立てかけられた長剣を見つめた。
『人を簡単に信じるな』
「…………僕は」
脳裏に響いたあの声に、一度誓った覚悟が揺れる。
カーラの性格はよく知っている。きっと、僕を否定したわけではなかった。と、冷静になればわかる。
窓に打ち付ける雨音だけが響く部屋で、ハルトはゆっくりと目を伏せた。
モンスターテイマーは忌み嫌われる存在。僕がソレになったことを、きっとカーラは憂いてくれたのだ。分かっている。……分かっているけど――
『モンスターテイマーになっちゃったの?』
グラ、アン、それにステラ、オリバー――この力で絆を結んだ仲間たち。クレア、ダグラス――この力で救った人々。
僕はこのジョブになったことを恨みながら、どこかで誇りを感じていたんだ。モンスターテイマーである誇り。それを否定された気がして、悲しかったんだ。
今更気づいた自分の気持ちの変化。カーラに酷い態度をとってしまったことを後悔した。怒りに癇癪をおこして飛び出すなんて……。十五歳にもなって、あまりにも愚かだ。
「……やっぱり僕は信じなきゃ。そうですよね?――オリバーさん」
脳裏に浮かんだ無口な彼は、ホッとしたように口角を上げた。その瞬間、心の奥に刺さった氷が溶けていく。
雨音が柔らかくなると、奥から僅かに陽が射して、彼の剣の鍔を煌めかせた。
柔らかな表情を取り戻し、彼の面影に微笑んだハルト。少しだけ陽だまりに手を伸ばすと、温もりを掴んで立ち上がった。
階段を下り、脱ぎ捨てたマントを拾いあげた。ぴちゃりと滴るたび、胸の奥で罪悪感が静かな波紋を描いた。
悔しい――悲しい――申し訳ない――。
気付かぬうちに強く握られた拳から、布に染み込んだ水がじわりと溢れて床にまた落ちる。
「ちゃんと謝らないと」
そう自分を叱りつけ、マントを静かに拾い上げる。濡れた廊下を辿り玄関の扉を開くと、陽に触れた生暖かい湿気が流れ込んだ。
通り雨が過ぎ去った。だが、雲はまだすぐそこで、景色を遠くまで薄白く霞ませている。
それでも、すぐ隣では青空が広がり、色濃い虹が彩りを与えていた。
明るい空を見つめ、罪悪感に決意を上書きする。腕に力を込めて、濡れたマントを絞り上げると、ため込んだ思いごと水が流れ落ちた。その時――
「――ハルくん!!」
綺麗な黄色いドレスに、美しく長い栗色の巻き髪。水滴を全身に纏い、光の粒を無数に散らす彼女は、肩で荒く呼吸しながらそこに立っていた。
「――カーラ!」
彼女の腫れた目と視線を交わし、まだ雨水を含んだマントをそこに落とす。こちらに近づく一歩に焦らされるように駆け寄り、濡れたその小柄な少女を抱きしめた。
「カーラ!ごめん、ごめん!!」
「私も……ごめんなさい、ごぇんなざいぃーー!!」
胸の中で叫ぶ少女の肩を強く包み込む。抑えきれない嗚咽を零しながら、大粒の涙を頬に伝わせた。
カーラの温もりを誓いと共に胸に刻み込む。
一度目の前から消えてしまった僕を、また見つけてくれた彼女を……僕はもう悲しませてはいけない。
ちゃんと全てを話そう。そして――一緒に旅をするんだ。
息を切らし、ようやく追いついてきたクレアとダグラス。二人の姿を視界に収めると歩速を緩め、口角を上げ安堵の息を漏らした。
――少し時間が経ち、『クレアの家』
カーラの濡れたドレスとハルトのマントを、魔道具で乾燥してもらい、着替えが済んだ頃にクレアの家に集合した。
テーブルを囲み紅茶を口にする。まだ残る罪悪感と、僅かな恥ずかしさが混ざり合い、静まり返った部屋の空気は、湿気以上の重さを感じた。
「……それでハルト。カーラに話すことがあるんじゃないか?」
まだ言葉を探しているうちに、ダグラスの真っ直ぐな声が飛んだ。クレアが彼を睨みつけた直後、足元でガツッと音がなり、ダグラスが僅かに眉を寄せた。
「……うん。カーラ、さっきはその……ごめん。ちゃんと伝える前に飛び出して」
「ううん!私がいけないのよ!もっと言葉を選ぶべきだったのに……ごめんなさい」
彼女の深々とした謝罪にまた罪悪感を抱きながら、それをしっかり受け止める。
頭を上げた彼女の目を見つめ、微笑みを返してから言葉を続けた。
「さっきの質問――うん、僕はモンスターテイマーだよ。忌み物で、嫌われ者の魔物使い」
「そんな――」
「でもね」
庇おうとする言葉を遮り、ハルトは優しく続けた。
「仲間たちと一緒に前を見て、苦難を乗り越えて、人を信じて、人の為に力を使ってきた」
柔らかな声に思いを乗せて、カーラの前に積み上げる。真剣な表情でそれを受け取る彼女に、ようやく心が覚悟を決めた。
床に右手を差し出し、深く息を吐き出す。
「出てきて――『グラ』『アン』」
手のひらが示す先に、闇の渦が二つ現れる。内の一つからは浮かんで来るのを待たず、白骨の犬が飛び出した。
「ワン!」
「グラ、元気だね」
ハルトの足に擦り寄り、毛のない尾をブンブンと振る。それからカーラに気づいたグラは、カラッと音を立てて首を傾げた。
そうしているうちに、もう一つの渦から浮かんできた青い翼の少女。ペタンと可愛らしく座ったまま顔を上げ、閉じていた瞼を気だるげに持ち上げる。
「ン、ダグラス、クレア、と……だレ?」
「カーラだよ。僕の幼なじみ」
ほんの少し、カーラの目が見開き、表情は強ばったように見えた。……無理もない。魔物と人魔をこの距離で見れば、当然の反応だ。
「カーラ、大丈夫?」
「……う、うん。ごめんなさい、少し驚いてしまって」
「……こっちはボーンハウンドのグラ、この子はハーピィのアン。少しづつでいいから、理解していってほしい。大切な僕の仲間なんだ」
グラと目があった彼女は、僅かに恐怖が滲んだ瞳を、目の前の紅茶に落とした。
やはり難しいのだろうか……。悔しそうに唇を噛み締める表情が、白い陶器のカップに浮かんでいる。
刹那――ガバッと顔を持ち上げたカーラ。目に強い意志を込めて、眉間に深く皺を作る。
「グググググラさん!アンさん!カーラ・トワイライトと申します!!ふ、不束者ですが、よろしくお願いしましゅ!!!」
長い、長い静寂の時間が流れた。その場にいた全員の思考が止まった。……本人も含めて。
人ではない存在を受け入れようとしてくれた。それは素直に嬉しい。だが――何もかもが空回りだ。
時が止まったような空間で一人アンが立ち上がり、座るカーラの横へ歩いていく。
「……ン、カーラ、よろしク」
そう声をかけ、肩にポンッと翼が置かれた瞬間、頬がみるみる赤みを増した。そして頭から湯気をたてたカーラは、背をもたれるように天井を仰ぎ、そのまま気を失った――。
こうして、カーラの率直な気持ちを知り、ほんの少しの不安は残れど、旅は予定通りの決行となった。
この日の彼女の選択は、ハルトだけでなく――その場にいたもう一人の心も、静かに動かしていた。




