16-1.別れは希望
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陽気な日差しが山肌を照らし、頬を撫でる風にはわずかな柔らかさが戻っていた。二台連なる馬車の車輪が土を擦り、蹄の乾いた響きが山道に反響する。
ハルトは御者台で手綱を握りながら、馬の呼吸と背後から聞こえる仲間たちの談笑に耳を傾け、アメントリへの道を順調に進んでいた。
「ダグラス、そろそろ山頂だけど、このまま進んで大丈夫?」
「あぁ。麓まで来たら右に逸れるが、それまでは問題ない。……疲れてないか?」
「わかった。大丈夫だよ。ありがとう」
気遣う声に小さく笑みを返し、ハルトは手綱をわずかに引いて馬を急かす。この調子なら、三十分もしないうちに到着できるはずだ。
風に揺れる草の匂い、荷台の屋根をかすめる枝葉のざわめき――その音に耳を澄ませるたび、胸の奥に残っていたざらつきがふと顔を覗かせる。昨日の夜から抱え込んだ重みが、まだ完全には晴れていないのだ。ハルトはその感覚を、走り抜けていく風音に紛らせるように静かに吐き出していった。
アンと出会う前までの自分――顔を見られれば距離を置かれ、いつしか自ら人との距離をとっていた。常にフードで顔を隠し、人気の少ない裏路地を使い、小汚い貧民街で暮らす。それが当たり前になっていたのだ。
しかし、ここ一週間は違った。誰かの為に立ち上がり、他人と自ら関わり、信じ、素顔を晒した。
今、その結果が裏切りに罵声で返ってきた――。苦しい、辛い、また裏路地に逃げ込みたい……。でも、それではアン、ステラ、クレアさん、ダグラスを救えない。
そう必死に言い聞かせても、胸の奥で何かが音を立てて軋んでいく。
ひとつ強く揺さぶられれば、すぐにでも崩れてしまいそうだった。
「……ハルトさん、私たちはそろそろアビスに戻りましょうか?」
「そうね、人通りも増えるかも。ハルトくん、そうしましょう」
「わかりました。みんな、少し止まるね」
駆ける足音を徐々減らしていく。後ろに続くオリバーに、ハンドサインで止まると伝え、道端にゆっくりとつけた。
荷台に振り返ると珍しく起きているグラが、クレアに尻尾を振って挨拶をしている。
「そうだね。多分、クレアさんとダグラスにはしばらく会えなくなるかも」
「ん、ダグラス、ハルトのこと、よろしク」
「あぁ、まかせろ」
ダグラスとアンは堅い握手を交わして頷いた。先日の戦いで芽吹いた絆を確かめ合うように。
「ステラ、必ず無事で。必ず一緒にペールドットを登りましょう」
「クレア……貴方こそ、絶対無茶はしないで」
二人は半歩だけ歩み寄り、静かに抱きしめ合った。閉じた瞼の縁に、別れの不安と惜しみの涙が薄くにじんでいた。
長い抱擁の後、お互いに目を見て頷くと、ステラがハルトに向き直り、穏やかな視線を向けた。
ハルトは御者台から立ち上がり荷台に上がる。
「ハルトさん」
「……何?」
「……辛くても、苦しくても、貴方は独りじゃないわ。だから忘れないで――貴方が信じて繋がった絆を」
「ステラ……ありがとう」
青い瞳を潤ませたまま頷くステラの視線が、ハルトの心を見透かしていた。その励ましの言葉がゆっくりと染み込み、留まる霧を僅かに晴らしてくれる。外の光が幕の隙間から漏れ入り、胸をそっと温めた。
「ハルト、いつでも呼んでネ」
「ワン!」
アンとグラの何気ない一言も、今は心に染み渡る。二人に歩み寄ってしゃがんだハルトは、二つの頭を優しく撫でた。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
「ン」
カランと頭を揺らして骨を鳴らすグラに微笑み、ハルトは立ち上がって右手を差し出した。それぞれの足元に闇の渦が現れ、飲まれるように沈んでゆく。ステラは最後に首を傾け、にこりと口角を上げた。その姿を見つめるクレアは眉を下げたが、口元は微笑み無言で手を振った。
――ステラたちが別れを惜しんでいる声を、オリバーは荷台の外で腕を組んで聞いていた。
この旅はまもなく終わりを迎える。
ハルトだけでなく、ダグラスとクレアからの信頼も得た。時間はかかったが、次のプランへの準備も整う。
あとは仲間を連れて潜伏先を襲撃するだけ。難しいことは何も無い。
……だが何だ、この思考を止めようとする違和感は。
作戦に穴があるのか?どこかを間違えたのか?それともまさか……執行人であるこの俺が、感情に流されている?
脳裏は霧に覆われ、不鮮明な中で彼は答えを探していた。
「――あっ、オリバーさん、お待たせしました」
「……あぁ」
オリバーは眉間に皺をよせ、拳を握りしめながら馬車に戻る。ハルトに武器を渡した理由を、自分でも未だにわからないまま。
――時が過ぎ、織り手の町アメントリ郊外『糸の森』
黄色く色付いた葉の隙間から、木漏れ日が優しく降り注ぐ。踏みつける落ち葉が乾いた音を鳴らし、近くの木では巨大な幼虫が木の葉を一生懸命に食べており、森の奥から僅かな羽音が響いてくる。
「グリーンワーム……ここはギガントモスの生息地なんだね」
「あぁ、とはいえ、蛹はほとんど糸にされるから、成虫はそれほど多くない」
「ギガントモスもあまり攻撃性はないし、近づかなければ大丈夫よ。この魔物がいるから、他の凶暴な子は入ってこないし」
「……なるほど」
自然と人の営みがひとつに溶け合っている。ここが『糸の森』と言われるのも納得だ。アメントリの布が特別とされる理由が、少しわかった気がした。
アメントリの近くで、オリバーは馬車を返却するために別れた。食料の買い出しも請け負ってくれたので、後ほど迎えに行くことになっている。
ハルトたちが乗っていた馬と馬車は、森に入ってすぐのところに繋いできた。不用心だとは思ったが、街に入れない以上こうする他ない。ハルトが王都に戻る為の足は必要だ。
冷たさの残る風を受けながら進んでいく。
やがて、奥にポッカリと木がなくなった場所が見えてくると、奥に木柵とログハウスが現れた。
「あそこだ。……畑はもう草だらけだな」
「道は固めておいて良かったわ。小屋も無事ね」
「……魔物は入ってこないんですか?」
「ワーム種は周りに植えた木が苦手だから近寄らないのよ」
「へぇ……すごいですね」
「うん。結構お金かけたんだけどなぁ」
そうボヤきながら、クレアはダグラスの背負う荷物からポーチを取り出し、そこから鍵の束を持ち上げた。
「ちょっと待っててねー」と言いながら、小屋の扉に何回もねじ込んいでいる。もしかして……と嫌な予感は過ぎったが、一分ほど格闘してようやく、ガチャッと音を立ててドアノブが回された。
「よかったー!無くしたかと思った」
「勘弁してくれ。肝を冷やしたぞ」
呆れるダグラスを見て苦笑いしつつ、三人で小屋の中を確認した。
明かりに照らされた室内はお世辞にも綺麗とは言えなかった。
ザバールの空き家ほどではないが、歩くと僅かに埃が舞う。ドアから差し込む陽光に照らされ、視界がキラキラと揺らめいた。僅かに感じるカビの匂いが、壁の木材の匂いと混ざり合う。
「……掃除は必要だな」
「掃除道具もオリバーさんに頼んでおいてよかったね」
クレアはカーテンをまとめて結び、窓を全開にした。冷たい風が一気に流れ込み、籠もっていた空気を押し出していく。
ダグラスは隅に置かれたバケツと布を手に取り埃を払い、床を磨く準備を整える。
「ハルト、そっち頼む」
「わかった」
ハルトは壁際に立てかけてあったホウキを手に取り、溜まった埃を掻き出していく。舞い上がった灰色の粒子が陽光を受けてきらめき、カーテンの隙間から風に流されて消えていった。
「思ったよりは使えそうだな」
「職人の腕が良かったのね……ただ、オリバーが戻ってきたらもっと本格的に整えたいわ」
「さすがにカビは磨くだけじゃ取れないしね」
隅で黒く塗りつぶされた床板を見ながら、隙間に入り込んだ埃を掃きだした。
――しばらくホウキを手に格闘を続けたハルト。ふと外を見ると、一瞬強く吹いた風が木々を撫でて落ち葉を舞わせた。そろそろオリバーが町で買い物を終えた頃だろうか。
「……オリバーさんを迎えに行ってくる」
「お願いするわ。こっちは片付けておくから」
クレアの声に頷き、ハルトはホウキを壁に立て掛けて外に出た。秋らしい風が頬を撫で、森の奥から小鳥の鳴き声が響いていた。
――織り手の町アメントリ『入口付近』
陽光が乾いた土道を照らし、行き交う人々のざわめきが響く。活気に満ちた街を出入りする人々を視界の端に見ながら、ハルトはフードを深く被り、集合場所へたどり着いた。
オリバーの黒い外套は、地味に見えて人混みではよく目立つ。少し大きめの荷車を傍らに置き、背の高い黒髪の男は静かに佇んでいた。
「オリバーさん、お待たせしました」
「あぁ。問題ない」
「じゃあ、行きましょうか」
オリバーの横に立って荷車を引く。乗せられた品は綺麗に並べられており、振動にも負けないように積まれていた。
「……オリバーさんって几帳面なんですね」
「そうなのか」
「言われませんか?」
「人とはあまり関わらない」
「あ……」
「……」
やはり続かない会話、変わらない表情。無口で壁のような人なのに、なぜかそばにいると落ち着く。――不思議な感覚だ。
「……オリバーさんは、これからどうするんですか?」
「少しアメントリに滞在する」
「そうですか。じゃあ旅はここまでですね」
「……あぁ」
「また会えますか?」
「…………どうだろうな」
彼の言葉に僅かな含みを感じる。惜しんでいるのか、嫌がっているのか、真意はやはり読み取れない。
「……ラプトル、美味かった」
「え?」
「前にもらった肉だ」
「……あぁ!」
それは出会った日に渡したお礼の品。ハルト自身もすっかり忘れてしまっていたが、覚えていてくれてたのは少し驚いた。
「……喜んでもらえて良かったです」
前を見ながら呟いたハルト。隣にいる彼がどんな顔をしてるのか、今は見ないことにした。感じる空気、足音、息遣いだけで、十分に伝わったから。
「そろそろつきます」
「わかった」
並んで歩く二人の後ろで、風に靡いた木の葉が一枚落ちた。地面に触れて囁くような音を鳴らしたが、それはオリバーの心の声のように、二人の耳には届かなかった。




