第18話 南部戦線異状アリ その4
起きてほしくない物事は大抵発生するものだし、
状況を鑑みれば、それは時間の問題だったのかもしれない。
兎にも角にも『そのとき』が来てしまったのだ。
誰が一番最初に気付いたのかは不明。
当直として矢倉の上から南を睨んでいた兵士かもしれないし、
ここに来てからずっと様子がおかしかったクロかもしれない。
陣地の南に広がる黒いスライムモドキが、
大きくうねりを上げて北上を開始した。
これまでの交戦記録から奴が炎を恐れることに気付いていた南方伯たちは、
ここに来た初日に見られたようにやや過剰というほどの篝火を絶やすことなく、
その熱気にあてられた黒い奴らの動きを抑えることができていた。
とはいえ、この防衛策にはいくつもの欠点がある。
日々大量の燃料が消費されてしまうこと。
スライムモドキが被害を恐れずに動き始める可能性があること。
そして――雨が降ると篝火の効果が大きく削がれてしまうこと。
南海諸島の『海神』のような特殊機構が存在しないというのであれば、
賢人の言葉を拝聴する間でもなく、いつかは必ず雨が降ることは自明の理。
ちょうど、今日はそんな日だったというワケだ。
☆
「スライム、北上を開始します!」
悲鳴と怒号に塗れた陣内の中枢、諸侯軍の陣幕に兵士が急報を携えてくる。
その顔は雨と泥に汚れ、息を切らせて紅潮している。
「ぬぅ……とうとうこの日が来たか」
苦り切った顔を浮かべる南方伯。
いつ、どこから現れたかもしれない化け物に、
瞬く間に領土を蝕まれ撤退を余儀なくされてきた。
その過去の記憶が頭をよぎっているのかもしれない。
「決して火を絶やすな!」
「兵士たちには剣ではなく松明を配れ!」
「壁を作れ。絶対に孤立するな!」
鈍重な進行を始めた黒スライムに対し、
南方伯から迅速に支持が飛び、慌ただしく兵士たちが動き出す。
「ルドルフ将軍からは何かないのですか?」
陣幕内の下級貴族が南方伯に問う。
帝国の宿将たるルドルフならば、
いずれ訪れるであろう雨天時の対策を、
あらかじめ齎してくれているのではないかという希望を添えて。
しかし――
「……将軍からも、特に有効な策は授かっていない」
南方伯の言葉は苦く重い。
そもそも、オレが来るまでは後手に回り続けていた帝国が、
ようやく反撃の用意を整えようとしていた矢先のこと。
ルドルフにしたってろくに情報もないのに対策の立てようはなかろう。
「とにかく、ここは堅守だ!」
「了解!」
勝利の見えない状況でも、戦わずに諦める選択肢はない。
相手が人間ならともかく、おおよそ知能もなさそうなスライムの親戚筋では、
降伏したらそのまま溶かされてお陀仏な未来しか見えないのだから。
「南方伯、オレ達は?」
「う、うむ……そうですな……」
白髪交じりの頭を掻きむしりながらこちらに振り向いた南方伯の目に困惑の色が浮かぶ。
無理もない。
オレ達帝都から派遣されてきた三人の編成といえば、
召喚術士兼魔術士(すなわちこの戦いでは何の役にも立たない)のオレ、
ケットシーの格闘家(触れたら溶かされる相手に素手で立ち向かうのはどうか)のクロ、
正体不明の女斥候(どんなことができるのかよく分かっていない)のテニア。
――凄く扱いに困るだろうな。
「……とりあえず、松明を持って後方に構えていただいてもよろしいか?」
「役立たずで申し訳ない……」
「なんて言うか、相性ってあるよね」
「ぐぬぬぬぬ……」
呆れ声のテニア、唸り声のクロ。
テニアの言は最もなのだが、そうなるとあの黒い奴と相性の良い存在がいることになる。
本当に? どんな奴?
「万が一の時にですが、ステラ殿には頼みがあるのです」
それはここに集う帝国軍の敗北を意味する。
自然と南方伯の声が小さくなり、周囲に聞こえないよう配慮される。
こちらも近くによって耳をそばだて、返事も小声で行うことに。
「頼み?」
ええ、と頷くレンダ南方伯。
「ここから北西の森に住まうエルフたちに、状況をお伝えいただきたい」
「……そう言えばエルフの集落はこの辺だったか」
エルフの里といえば、帝都からグリューネルトが向かっていたはず。
あちらの問題は、もう片付いたのだろうか?
エルフといえば、ケットシーと同じく妖精族の一員。
人間に酷似したシルエットと、人間よりもはるかに繊細な容貌を併せ持つ種族で、
かつてはその美貌と魔力に目がくらんだ者たちによって乱獲され、種族存続の危機に陥ったという。
その有様に心を痛めた何代か前の皇帝陛下が、エルフたちを保護し自治を認めた集落がここから北西にある。
確か森の中に人避けの結界を張って、その中で暮らしているという話だったが……
「これまでエルフたちとは接触していないのか?」
「申し訳ございません、こちらの対応にかかりきりでして」
かいてもいない汗を拭く仕草は、
南方伯の焦りの顕れだろうか。
「それはそうだな。おかしなことを口にした」
「いえ、それよりも気がかりなことがありまして」
エルフの集落は人避けの結界の中にあるわけだが、
万が一この陣地を黒スライムに抜かれて北上された場合、
魔力が効かない性質を持つ黒スライムが結界にどう影響を及ぼすのかがわからない。
お互いに反発しあってくれればまだいいものの、
もしも一方的に魔力を吸収するようなことになれば、
何も知らないエルフたちもまた、あっという間に闇に飲まれてしまう。
初めて奴に魔術を叩き込んだ時のことを思い出す。
エオルディアから教わった、オレの最大火力魔術である『紫電槌』の雷を受けて、
爆発も帯電もせず、かすかに揺れただけの黒い海。
――魔力を吸収する体質を持っているのなら、結界やエルフなんてただの餌だな……
「分かった。そちらに向かわせてもらう」
ハッキリ言って、ここにいても何の役にも立ちそうにないし、
もしものことがあればエルフやグリューネルトだけでなく皇帝陛下の命も危うい。
その先にあるのは帝都の動乱、果ては帝国の崩壊まで……は考えすぎか。
――あっちの話とこっちの話が奇妙に絡んできやがるな……
皇帝陛下の状況はただの病、こちらは正体不明の化け物。
およそ関連性があるとは思えないが、エルフの里という一点でおかしな結びつきを見せてくる。
――何事も陰謀と考えるのはよくないとは言え……これは、どうなんだろう?
「ご主人!」
「ステラ?」
「いかがなさいましたか?」
「お、おう……何でもない」
益体もない思索はとりあえず脇に置き、目の前の問題から対処する。
「すまん、ちょっと別のことを考えてた」
ただでさえ緊迫しているこの状況を、
これ以上混乱に陥れるような言動は慎むべきだろう。
南方伯を前に気をそぞろにするというのも失礼だが、
止むをえまい。
「大丈夫かニャ?」
「ああ」
ふさふさの黒猫頭を撫でながら心を落ち着かせる。
「もちろん、我々もここで食い止めるために全力を尽くします」
この話は、万が一の時の場合ですので。
そう言いおいて南方伯もまたほかの貴族を伴って陣幕の外に向かう。
「ステラ、どうするの?」
「少し……様子を見よう」
エルフの里に向かうにしても、ここの状況を見極めてからだ。
レンダ南方伯たちの奮戦によってこの窮地を切り抜けられたら、
あえてエルフたちを不安にさせるような情報を持ち込む必要もない。
「そりゃそうか。でも」
引き際を誤らないようにしないとね。
そう呟くテニアは、この戦いが非常に厳しくなると予想している模様。
「ああ」
こちらも視界のいいところに移動しよう。
陣地の後方の矢倉かどこかを借りたい。
できれば、戦場を一望できるところがいい。
その旨を兵士に告げて、案内されながら雨の中を駆け抜けた。
★
雨の音、何かが溶かされる異臭。
悲鳴と怒号、もうもうと膨れ上がる黒煙。
分厚い雲に覆われた空、黒い波――もはや津波に近い――が押し寄せる大地。
逃げ惑う人、抗う人。斬りかかる人、溶かされる人。
矢倉の上から見た南方諸侯軍の陣地は、
時を置くごとに地獄めいた様相を呈してきて、
これと同じことが今まで帝国南部で起きてきたと言われると、
ここを訪れた日の兵士たちに漂っていた諦念に近い感情も理解できる。
だが――
「ステラ、これは――」
もうダメだね。
テニアは最後の言葉を飲み込んで撤退を促してくる。
「……クソッ」
理性では理解できていても、眼前の光景を目の当たりにして平静ではいられない。
「ステラ、エルフたちを護らないと」
エルフの集落を護ることは、皇帝陛下の命を救うことに繋がる。
皇帝陛下が一命をとりとめれば、帝国の全軍をもってあの黒スライムに復讐戦が挑める。
だから、ここは撤退――
「わかってるよ、わかってるっつーの!」
でもよ、たとえ短い間とはいえ手を取り合った連中が、
こんな戦ともいえないような無残な有様で食われていくのを放っておいて、
自分たちだけ逃げるってのは、どうなんだ!?
「クソッ……オレ達、役に立ってねーなぁ」
「それは言わない約束でしょ」
アタシらにはアタシらの戦いがあるとテニアが諭してくれる。
「さっきも言ったけど、退き時を誤っちゃダメだよ」
「ああ、そうだな」
空を見上げれば、灰色の雲は分厚く天を覆いつくしており、
当面の間は雨が止む気配はない。
――ここまでか……
深呼吸して、心を定める。
「撤退だ」
傍に控えていた兵士に撤退する旨を告げると、
南方伯があらかじめ用意してくれていた馬が連れてこられる。
「テニア、馬は?」
「乗れる。先輩は?」
「ご主人に乗せてもらうニャ!」
「あいよ。こっちこい」
時間が惜しい。
己の命も惜しい。
戦わずに退くこの有様では、
誇りを惜しむ心もあるが――
『これは……やむなしか』
エオルディアもまた苦々しい唸り声で撤退を受け入れる。
戦う術も定かでないまま死地に留まるわけにもいかない。
「ご武運をお祈りします」
名前も知らない帝国兵の激励を背に、
北西、エルフたちが住まう森に馬首を巡らせて鞭を打つ。
降りしきる雨が衣服を濡らし、道はぬかるむ泥沼と化す。
――死ぬなよ、と言ってやりたかった。
南方伯を始め貴族諸兄に。
陣地を駆け回っていた兵士たちに。
こんな戦いとも呼べない一方的な殺戮に命を捨てるのは間違っていると。
しかし、それを口にするわけにはいかなかった。
オレ達は、彼らの献身によりこの地を脱するのだから。
ここで散らされる彼らの命は、決して無駄ではないと誇らねばならない。
それが、生き残るものの務め。
二頭の馬はひたすらに走り征く。
遥か背後に押し寄せる気配を感じながら。
次回『襲撃』となります。




