第7話 竜と秘密の花園と
降り注ぐ柔らかい日差しに全身を優しく撫でられ、
もう朝が来たのかと目を開ける。
「……うん?」
目蓋を擦りながら身体を起こして辺りを見回すと、
まるで覚えのない森の中にひとり。
身体を見下ろしてみると、眠った時の下着のまま。
――攫われた……んなわけないか。
もしあの部屋に誰かが無断で入ってきたなら、
いくら泥酔していてもクロが気づくだろうし。多分。
「てことは、これは夢か」
立ち上がっても背中に土がついていない。
裸足なのに地面の感触もなければ土の冷たさもない。
今ここにオレは居るけれど現実味がまるでない。
目に見える何もかもが、ふわふわと存在感がない。
ないない尽くしのこのシチュエーション。
でも――
「あだだだだ」
頬をひねると痛みが走る。理不尽だ。
欠伸を噛み殺し、首を左右にコキコキと鳴らす。
長い船内生活ですっかり全身が凝り固まっている。
……まあ、ここは夢の中だけど。
明日起きたらストレッチが必要そうだ。
「……森を出るか」
ボサボサの頭を掻きながら、誰にともなく呟いてみる。
いつまでもここにいても仕方がないし、動けば何かわかるかもしれない。
どうしようもなければ、どうにかするしかないだろう。
さて、動くと決めたはいいものの、
どこに向かって歩けばいいかさっぱり不明なので、とりあえず明るい方を目指す。
途中の木々に手を触れてみても硬さはなく、しかしふわふわとした柔らかさもない。
そういえば、足元も硬くはないが綿のような感触でもない。不思議だ。
必要ない感覚は認識しない、ということだろうか。
「まぁいいか、どうせ夢だし」
勝手に結論付けて先に進む。
おかしな話かもしれないが、恐怖や不安といった感情は湧いてこない。
歩みを進めると、木々に遮られていた視界がパッと開き陽光が差し込んでくる。
その先は――
「ヒューッ」
眼前の光景に思わず口笛を吹く。
森を抜けた先は、一面の花畑だった。
見覚えのある花も、あるいは見たことのない花も、
多種多様に入り混じった色とりどりの平原。
その彼方に、見覚えのある翠の山が横たわっている。
――あれは……
目的地が定まった。
あの山のふもとに行ってみよう。
そのままさらに進んでみると互いの距離は意外と遠く。
しかし目にも鮮やかな景色のおかげで飽きることもなく、疲れることもない。
「静かだな」
木々はあるのに動物の気配がなく、
花を行きかう蝶をはじめ虫の類も一切おらず、
空を見上げても鳥の影すら見当たらない。
美しくはあるが、どこまでも静謐な世界。
しばらく歩いて到達した翠の山。
恐らくこの世界唯一の生命、その名は翠竜エオルディア。
巨大な体躯をだらしなく大地に投げ出した様は、ベッドに横たわるクロのようで。
陽光を照り返す翠の鱗は傷一つなく輝いて。
その閉じられた瞳のさらに先、顔の先端部には大きな大きな鼻風船。
――コイツ、寝てやがる。
風船は膨らんで縮んで、また膨らむ。
そのうちプツッと切れてふわふわと空に浮かんでいくのではないかという、
なんとも微笑ましくものどかな光景。
アールスの街で相対した時のような殺気や威圧感の類は全く感じられない。
パチンッ!
いきなり鼻風船が割れた。
『ん……んお?』
風船が割れた音で目を覚ましたか、ゆるゆると瞼を開くエオルディア。
……って、目を閉じるな!
しばしの間無言で当たりをじろじろと見まわし、こちらの姿を確認する。
――ここは我慢だ、我慢。
『うん……うむ、よく来たな我が契約者よ』
低くて渋い男性を思わせる声が、頭の中に直接語り掛けてくる。
刺々しい牙の生えた咢を開き、大きく息を吐く。あくびか。
竜ってあくびするんだ。
そういえば呼吸してるんだし、別におかしくはない。きっと。
「おう、お休みのところ邪魔しちまったな」
『……別に構わぬ』
我が呼んだのだから。
いささかの間をおいて、オレの魂に封印されているエオルディアはそう続けた。
「呼んだ?」
オレの問いに『いかにも』と答える翠竜。
『なんで?』と続けたオレはどこもおかしくはないはずだが、
エオルディアは先を語らず、
『汝の魂は心地よいな』
穏やかで優しい世界だ、と。
目を細めてそんなことを言う。
面と向かって褒められると何だかむず痒い。
『特にあの花が良い』
長きにわたってこの世にあれど、一度たりとも見た覚えがない。
巨大な頭を巡らせたその先には、緩やかな風に流される薄紅色の花吹雪。
――あの花は……
「そりゃどうも。って、オレも自分の魂の領域に来たのは初めてだけど」
素直にそう答えると、何やら鋭い視線を貰う。
『自分の魂に足を踏み入れずして、我を迎え入れようとしたのか?』
声に若干の苛立ちが混じる。
「そ、そりゃ悪かったとは思うけどさ」
人間の魂の中身なんて似たようなもんだろ。
そう答えれば、盛大に呆れ返った声で。
『汝はまるで人間を分かっておらぬ』
などと言われるではないか。竜に。
挙句『怒る気も失せた』などと付け加えてくる。
「はぁ、何なんだよ、もう」
それよりアンタが呼んだのならさっさと用件を早く言ってくれ。
このまま問答を続けていても不毛なだけだ。
こちらの催促に、再び言い淀むエオルディア。
「……用がないなら帰るぞ」
帰り方は分からんが、魂の領域にいるのなら眠ればいいのだろう。
『否、待つがよい契約者よ』
慌てるエオルディア。
そのまま待つこと暫し。
『汝に頼みたいことがある』
☆
『頼み?』
その言葉を聞いたとき、少し意外な気がした。
人間よりもはるかに強大な力を持つドラゴンが、
どうして非力な人間ごときに頼みごとなどするのだろう。
とはいえ、コイツに大恩ある身として、
余程おかしなことを口走らない限りは、言うことを聞くつもりではあるけれど。
うむ、と大仰しく答えたエオルディアは、
『汝に……我を故郷に導いてもらいたい』
と続けた。
「故郷?」
鱗にうつり込んだ自分の顔、その眉が奇妙に歪んでいる。
おかしなことを、と言いかけて口をつぐむ。
『然り』
「なんでまた、そんなことを?」
こちらの問いに翠竜は少しの間黙し、
『ことは我が身体を覆う殻を破り、陽光のもとに現れ出でたときより始まる』
話が長くなりそうだったので、花園に腰を下ろす。
土の感触はないが、鼻の感触と香りはある。夢ってつくづく不可思議。
エオルディアがこの世に生れ落ちたのは、いまから数千年前。
人間の感覚で言えば『古王朝』と呼ばれる、魔術が極端に発達した古代の統一国家の時代。
この翠竜は、古王朝のとある大都市で目覚めたという。
「ってことは、その街を探すのか?」
『否』
故郷と生まれた街は違うらしい。
話の先を聞くことにする。
『我が生まれたとき、そこにあるべき姿を見出すことができなかった』
すなわち父と母。
竜の生態については詳しく知らなかったが、
いざ聞いてみればおおむね他の生物と同じで、
オスとメスが巣でアレコレして卵を産むとのこと。
要するに、エオルディアの卵はどこかほかの場所で産み落とされたが、
古王朝の人間がそこから卵を盗み出して自分たちの都市に持ち込んだのだという。
言われてみれば道理にかなってはいる。
いくら古王朝の技術がとんでもレベルだったとしても、
何もないところからいきなりドラゴンの卵を生み出せるはずはなく(もしできたのならビックリ!)
卵には親となるオスとメスがいると考えるのが常識。
そして、ごく一般的な動物を基準に考えれば、
卵が孵化するその時には、親がその場にいるのが当たり前。
「つまり、アンタの両親がいた……もとい、いる場所を探せってこと?」
『いた場所、だろう』
エオルディアは気遣い無用と付け加える。
ドラゴンの寿命がどれほどかは不明だが、
さすがに数千年の月日が流れていては生存を期待するのは難しいか。
「それで故郷か」
『うむ』
仰々しく頷くエオルディア。
ふ~む……
「正直なところ家出中の身なんで、アンタの気持ちはいまいちよくわからんけど」
長い間戦いに縛られていた身が開放された今、
望郷の念に駆られるというのはごく自然な心の動きなのだろう。
感情はともかく理屈の上では理解できる。
「それくらいならお安い御用……とは言えないが、協力させてもらうぜ」
『迷惑をかける』
「いいってことよ。水臭い」
どうせこの身は特に目的もなくさすらう旅の上。
街ひとつ見逃してもらった恩に比べれば、どうということもない。
「で、何か思い当たる節はねぇのか?」
さすがに数千年前と今では何もかもが違っているだろうから、
当事者からの情報は喉から手が出るほど欲しい。が――
エオルディアは首を横に振った。
ノーヒントで探せと言うことらしい。
……難易度高いな。
『期限は問わぬ。そこまで連れて行けとも言わぬ』
ただ、故郷に連なる何かを手に入れてほしい。
巨大な竜は、その身に似合わぬ神妙な声で、そう話を締めくくった。
次回より『そうだ、買い物に行こう(南海編)』になります。




