第35話 対決、伝承の魔物 その6
無地の『万象の証』から放出された光が加速し、視界がその先を垣間見る。
そこは戦場だった。
数多の死体がそこにあった。
ある者は引き裂かれ、またある者は炭化し。
命あるものはただひとりとしていない。
生々しい死の臭いと、荒れ果て焼き尽くされた荒野。
嘆きの咆哮は、背後の歓声にかき消される。
そこは戦場ではなかった。
戦う術を持たない数多の人間を背に、たった一人の女が立ちはだかっている。
飾り気のない白衣を身にまとった、桃色の髪をした女。
両手を大きく広げ、何かを叫んでいる。
その声は怒号にかき消され、
身を灼く光とともに脳裏に流し込まれるどす黒い意思に、
抗う心は飲み込まれ、視界は赤と黒に染まった。
嘆くことすら許されない、絶望に墜ちる。
――何だ、これは……
激しい頭痛とともに正気に返る。
「クソッ、何だってんだ……」
胸糞悪い映像が頭に流れ込んでくる。
胸に抱いた深い悲嘆や憤怒とともに。
「……あれはひょっとしてアイツの?」
土煙の彼方に立ち尽くす翠緑の巨体を想う。
言葉にならない思いは、しかし一瞬。
……今は、それどころではないのだから。
広場にいた誰もが見守る中、
翠竜エオルディアを覆っていた禍々しい赤の光が集束し、そしてはじけ飛ぶ。
「やったかッ!?」
誰かの期待混じりの叫びが耳朶を打つ。
しかし――理解した。理解してしまった。
手ごたえが、ない。
「逃げろォ!」
グリフォンの首筋を叩き、距離を空けるよう指示しながら、
あらんばかりの声を張り上げる。
「へ?」
「早く!」
再び叫ぶ声より早く、誰とも知れぬ声の主が炎に包まれる。
赤い光の爆発から再びその身を現した翠の竜。
その口から放たれた火球による爆発だ。
――失敗した、失敗した、失敗したッ!
爆煙の狭間でドラゴンと、目が合った。
あの日、あのアールス南の森の再現。
竜の威容に飲み込まれて、身体が、動かない。
まるで時間が止まったかのようにゆっくりと開かれる竜の口。
その奥にチリチリと輝く炎が、次第に大きくなって、こちらに――
「くぇえええ―――!」
急に全身に押しつぶされそうな力がかかり、
次の瞬間、先ほどまでオレ達がいた空間の背後の屋根が紅蓮に染まる。
まさしく間一髪。
召喚者であるオレがドラゴンの圧力に飲まれているさなか、
グリフォンがいち早く正気を取り戻して急上昇。
「ぐえぇえええっぇぇえ―――」
しかしその対価はあまりに大きくて。
連戦に次ぐ連戦の上、さらに無理な機動がたたって、鷲獅子は力尽きて落下。
背中に乗せていたオレとクロも一緒に、
土がむき出しになったアールスの大地にたたきつけられる。
「かはっ」
「にゃっ」
肺から無理やり空気が吐き出される。
全身が、痛い。
そしてどこにも力が入らない。
魔力ももはやスッカラカン。
まさしく満身創痍という他ない。
ボロボロになった身体が投げ出された地面が揺れている。
緑の巨体がその身を揺らすたびに、
繰り返される振動に臓腑を揺さぶられ、吐き気が催してくる。
なんとか残された力を振り絞って上半身を微かに持ち上げると、
伝説に謳われた魔物は、鎌首をもたげたままこちらに近づいてくる。
まるで、勝利を確信したかのように。
――この野郎……
一歩も動くことができないまま距離を詰められ、
もう逃げられないと歯ぎしりしたその時、
『愚かなり召喚術士。身の程をわきまえることなく我を従えようとは』
――しゃべった!?
人間の言語ではないが、頭の中に直接意味が伝わってくる。
咄嗟に横に倒れていたクロに視線をやると、理解できたという風に頷く。
『その愚劣な咎の対価、滅びの瞬間をその目に焼き付けるがよい』
嗤った。
耳の近くまで引き裂かれた口、その端を吊り上げて。
最後通牒のつもりか、そう告げるや否や左右の翼を大きく開き飛翔の構えを取る。
――空から火炎をぶちまける気か!
奴の狙いがわかったときには、すでに体が勝手に動いていた。
最後の力を振り絞って、
地上に残されていた翠の後ろ脚にしがみつき、ともに空に舞い上がる。
「ぐ、うぉおおおおおおっ!」
脚を抱き込み両手に力を籠める。
その長い爪に足を乗せて翠に輝く背中へ手を伸ばす。
『な、何をする、小人?』
「そう簡単に勝てると思わない方がいいニャ!」
「く、クロ!?」
自分一人で飛びかかったと思ったら、クロも一緒に付いてきてしまった。
「バカ! お前、何でこんな無茶を!」
「ご主人ひとりに任せては、ケットシーの名が廃るのニャ!」
「だからと言って、こんなとこまで付き合う必要はないだろ!」
「それを決めるのは吾輩ニャ!」
オレより軽快にエオルディアの背中によじ登り、こちらに手を差し出してくるクロ。
そのふさふさ黒毛の手を取ると、見た目からは想像もつかないほど強い力で引き上げられる。
「吾輩の相棒は、只者では勤まらんのニャ」
ニャハハと笑うクロ。
その笑顔に全身をこわばらせていた余計な力が抜ける。
同時に、身体の奥から力が湧いてくる。
「よ~し、とことん付き合ってもらうからな」
覚悟しろよ。
空の上、竜の背中に跨って、
相棒に向かって拳を突き出す。
「応ニャ」
互いの拳をこつんと突き合わせて、握手。
チラリと下を見ると、もう大地はかなり遠く。
落下したら死亡確定の状態で、
ようやくオレ達は本当の相棒になれた。
そんな気がする。
「で、これからどうするのニャ?」
その質問は予想できていたけれど、
「どうするっつってもなぁ」
武器も魔術も召喚術もな~んにも効かないし。
「お前の爪でバッサリ切れたりしない?」
オレの言葉に、クロはエメラルドに輝く鱗を爪でコツコツ叩いていたが、
残念そうに首を横に振る。
「無理か~」
「無理にゃ~」
『おのれ小人ども、我が背に乗るとは不届き千万!』
首を曲げてこちらを睨み付けるエオルディア。
その瞬間、ガタンと奴の体のバランスが崩れ、奴はあわてて前を向き体勢を戻す。
――ほほう。
今の慌てよう、脳裏に雷鳴が走る。
「いいこと思いついたぜ」
「にゃ?」
身につけていたマントを掴み竜の頭部を指さす。
「このマントで奴の視界を塞いでやる」
「ほほう、それはまた」
いやらしい笑いを浮かべるクロ。
そのまま身軽にエオルディアの背中を進みこちらに手を差し伸べてくる。
『な、止めぬか、愚か者ども』
もうどうにもならんとなぜ気づかん。
エオルディアが叫ぶ口調には若干の焦りが含まれて。
「やっかましー! どうにもならないからって、何にもしないで大人しく死んでたまるかってんだよ!」
「そうにゃ、そうにゃ」
先導してオレを引き上げながら、クロが相づちを打つ。
「剣も魔術も効かねーってんなら、てめーの重みで潰れて死ね!」
『やめろ、この、貴様らっ!』
「街は絶対に焼かせねェ――――!」
グネグネと身体を捩じらせながら器用に飛行を続けるエオルディアだが、
この背面には何をどうやっても奴の手も炎も届かない。
ついに首筋を手が捕え、あとは頭部に接近するだけ。
その時、はるか遠くに地面が見えた。
エオルディアが巨体だったお蔭で気にしていなかったが、
細い首筋の下、その光景に思わず唾を飲み込む。
今までの背中と比べてずいぶんな道のりだが、やってやれないことはない、はず。
――心を燃やせ、今ここで!
「止めてほしけりゃさっさと降りろ、このくそトカゲ!」
『おのれ、おのれおのれオノレオノレェッ!』
目に見えて奴の焦燥が伝わってくる。
やはり、視界を塞ぐ作戦は有効なようだ。
「さあ、このマントの力を――」
思い知れ。
そう笑おうとした瞬間、風が吹いた。
ばさりと広がったマントは、猛烈な浮力を孕みオレの身体を高く持ち上げる。
「あっ」
ごしゅじ~~~~ん。
叫ぶクロの声がどんどん遠くなり、
エオルディアの巨体が視界から遠ざかっていく。
空に投げ出された。
気づいたときにはすでに遅く。
☆
両手に掴んだマントが受けた風によって、空にふわふわ浮いているのか。
あるいは重力に引かれて落ちているのか。
我が身のことながら、上下すら定まらぬ状態ではあるけれども、
――オレは、この感覚を知っている。
浮かんでいるのではない。
沈んでいるのだ。
生の光が輝く大地から足を踏み外し、死が支配する深い深い闇へと。
生きながら、死んでゆく。
虚無が支配する底なし沼に飲み込まれて。
身体に力が入らない。
言葉が口から漏れることもない。
轟々と渦巻く風に遮られて何も聞こえない。
ただ思考だけが加速する。
死に向かうその瞬間まで。
☆
『万象の書』を胸に抱いたまま帝国最大の貴族家に生れ落ち、
何ひとつ不自由なく暮らしてきた。
そんな小娘が齢十にして突然家を飛び出した。
無茶をした理由はいろいろあったけれども、、
『万象の書』を持つ自分なら、一人でも生きていけるだろうという過信があった。
それがどれほど甘い妄想に過ぎなかったか、散々に思い知らされた。
仕事を貰えない。
お金が稼げない。
食事ができない。
木の皮や草の根を食んで、泥水を啜る日々。
暖かい家の明かりを羨みつつ、軒下で寒さを凌ぐ日々。
何度となく死にかけて、そのたびに歯をくいしばって耐えた。
自業自得という現実を理解したくはなかった。
自分自身を恨みたくはなかった。
傍から見れば気狂いと思われても仕方がない有様で、
足を棒にして歩き、薄汚れた襤褸をまとい、放浪すること二年と少し。
ついに身体が動かず道端に斃れる日がやってきた。
『死』が近い。
想像していたものとは違う、しかし実感としての『死』が自分の肢体を撫でまわしている。
意識が朦朧とし、死神の手の感触を皮膚で感じる日が増えた。
思い上がりという罪に対して、あまりに重い罰に絶望したある日。
オレは『緑の小鹿亭』のおやっさんに命を拾われた。
――オレは、何を見ているんだ?
それからの三年間は充実していた。
寡黙で優しいおやっさんとおかみさん。
姉貴分のリデルに妹分のパメラ。
家族同然の宿の常客たちに囲まれて、久しぶりに人間に戻れた気がした。
暖かい食事に整えられた寝床。
服を手に入れて身ぎれいになった。
おやっさんの紹介で働いて、少しずつお金も稼げるようになった。
「みんな、大丈夫かな?」
『緑の小鹿亭』を襲ったゴブリンたちは排除したけれども、
街を焼こうとするドラゴンを押しとどめることは叶わなかった。
一人ぼっちだったころには何もなかった『大切なもの』がたくさん詰まったアールスの街。
「ごめん、守れなかった」
オレ達を裏切って行方をくらましたリデル。
何故あんなことをしたのか。
何か悩みを抱えているのなら、話してほしかった。
剣を交えるのではなく、酒と言葉を交えて。
――そうか、これが……
走馬灯か。
その一言は声にならず。
意識は途切れ途切れに明滅している。
微かに残った視界に広がる、腹立たしいほどに青い空。
風に揺れる桃色の髪。
最期の一瞬に見たその空は、翠色に輝いていた。
次回「契約」です。
活動報告に新年のあいさつと、今後の執筆について記載しました。
今後ともよろしくお願いいたします。




