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創作の協奏曲  作者: 久遠未季
第零章 創作の序曲――機兵少女フリージア・ザ・クロニクル(連作短編)
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4、だから――創作のダル・セーニョ

4、だから――創作のダル・セーニョ


※小学校時代の担任教諭の話


 マカベヒジリ? ――ああ、間壁聖のことですか。ええ、覚えていますよ。アレですよね、間壁三姉弟の末っ子の、女の子ですよね。

 一応、私は長女の間壁千尋の担任もやっていましたから、特に印象に残っているんですよ。溌剌として社交的だった姉に比べて、少々、人付き合いが苦手だったのかなっていう感じでした。

 いえ、別にそれが悪いと言っているわけではないですよ。彼女自体は、物事を冷静に見つめることができて、人の考えの裏を読むのも得意だったようですからね。国語の授業の時なんかは、私が考えてもいなかった筆者の思いを当然のごとく読み取って見せたりもしましたから。

 だから決して、他人の気持ちが分からない人間だとか、そういうものじゃないんです。

 ただ、彼女の場合、他人の気持ちを読み取るのにひと呼吸か、ふた呼吸分ぐらい時間がかかるものでしてね。だから文章から他人の気持ちを読み取ったりするのは良くても、他人と向かい合って会話している時なんかは、言葉を挟む機会を逸してしまったりして。それでうまくコミュニケーションが取れないなんていうことが、しばしばあったようです。

 どうやら、彼女もそんな自分の性質を自覚していた部分はあったようで、会話をする時には考え込みすぎず、直感で受け答えをしている時が多かったようですね。ただ、それは考えがまとまる前に声に出してしまうということですから、ついつい相手を傷つけるような言葉になってしまったりして――結局、上手くコミュニケーションが取れないのです。

 場合によっては、口よりも先に手が出てたこともありました。

 特に記憶に残っているのは、図工の時間、誰かがちょっとした戯れで、彼女が描いていた絵に鉛筆で落書きをしたときのことですね。

 落書きといっても、それは本当に隅っこの方に短く一本線を引いただけのようなことだったんですけれど、彼女はそれに激昂して――というか、今考えればあれは反射的な行動だったんでしょうね。彼女がそのとき持っていた鉛筆を、その児童の手の甲に突き立てたんですよね。幸い、鉛筆の先は丸くなっていて、大した怪我はなかったです。ただ、その時は刺された方よりも刺した間壁の方が動揺してしまいまして、むしろ彼女の方を保健室に連れて行くことになりましたよ。

 そう、だから誰かと喧嘩しただとか、そういうときにはちゃんと自分の非は理解していました。彼女は自分の言ってしまったことや、やってしまったことに関しては責任を持つような子供でしたからね。

 まあ、でも、子供心に理不尽だと思ったことに関しては、それを認めようとしませんでした。

 ほら、学校の先生とはいっても、どうしても人間ですからね。例えば喧嘩の仲裁を行なうときに思い違いをしてしまったり、もしくは双方の子供の心に傷がつかないよう、ちょっとした嘘や誤魔化しを織り交ぜてしまうことがあるじゃないですか。

 敏感な彼女は、そういう誤りが分かるんです――もちろん、彼女もまた人間ですから、彼女の方こそが思い違いをしているということもありますけれども。そうなると、彼女は絶対に自分の意見を曲げようとしません。そればっかりは、まあ、なかなか手を焼きましたよ。

 うーん、でも、そうですね。そういったことを除けば、彼女は手がかかりませんでしたし、彼女の姉ほど目立った存在でもなかったです。



1、ヒジリ


    *


 私の家の倍もあるだろうリビングが、血臭に満ちる。ついでに先ほどから、糞尿の臭いも混じり始めている。この手のものに慣れている人間でもなければ、まず確実に吐き気を催していただろう。

 ちなみに、私はこの手のものに慣れているというわけでもない。そもそも幸運な私は、生まれてこのかた、こんなものなど、一度も見たことがないほどである。

 親族親類が亡くなったことはあっても、両親の実家は火葬を先に済ませてしまうような地方である。だから、首都圏に住んでいる私が葬式に駆けつけたところで、なかなか死に顔を見ることはなかったのだった。

 そう、これは正真正銘、私が初めて目にする死体だ。ただ、それだというのに私は何の感情も抱かなければ、何の感慨にとらわれることもない。そしてもちろん、死臭を嗅いでも吐き気を催さないどころか、涙の一滴も流れ落ちない。

「人って案外、簡単に死ぬものなのね」

 返り血に濡れた前髪をかき分けながら、ようやくその一言が呟けたという程度だった。


    *


 運転免許を取得しておいてよかったと思ったのは、このときが初めてのことである。私が自動車免許を取るといった際、母などは「ヒジリちゃんは……やめておいたほうがいいんじゃないの?」と言っていたものだったが、それに対して私が返した言葉が「だって、お母さんにも取れるぐらいなんだから」というものだった。

 母は自分自身のひ弱な体質なり小心な部分なりをしっかりと自覚しているので、とりもなおさずそれよりは少々活発な私に対して、さすがにそれ以上の言葉を重ねることができなかった。

 実際、母のその思いは杞憂に終わる。私は二度ほど不合格を受けたものの、それでもそれなりにスムーズに免許を取得できたのだから。

 そして今、私は自動車に乗っている。ただし、それは私の車ではないし、家族で共用にしているワゴン車でもない。強いて言うのならば、人から借りた車だ。もちろんレンタカー屋で借りた車でもなければ、そもそも借りたは借りたでも、その言葉の頭に『勝手に』と付け足さなくてはならないだろうが。

 そう、私だって自覚ぐらいはある。これが、悪いことなのだという自覚ぐらいは。

 チラと、助手席の側を見る。

 そこには死体が座っている。義兄の死体だ。

 私が殺した。

 狂っているのだろうと、思わないこともない。突き飛ばして、頭をチェストの角にぶつけさせて、気絶したらしいところに包丁を突き立てた。それら一連の行為をして、どうして人殺しでないと言い張れるのだろう。

 ついでに、自分の右腕にも目をやる。下腕が、あきらかに折れている。ただ、我慢できないほどの痛みではないので、台所にあった麺棒を添え木に、ラップで包帯をして適当な応急手当としている。まあ、中学生のころに右ひじを骨折して以来、左手で字を書いたり箸を持ったりできるようになっているし、右腕も動かせないというほどでもないので、それほどの不便はないだろう。

「あっ……と、忘れてた。シートベルト、シートベルト……」

 エンジンを入れ、いざ出発しようというときに、そのことに気付く。最近の車は優秀で、シートベルトを締めていないと警告のためのランプが灯るようになっているのだ。

「いけない、いけない。検問していたら、切符を切られちゃうじゃない」

 私は慌てて、義兄のシートベルを締め、ついでに自分のシートベルトも締める。ボード上の警告灯は消え、これで忘れ物はないということは確認できた。

「さて、じゃあ、行きましょうか」

 サイドブレーキを上げ、アクセルを踏みしめる。

 父方の血なのか、やや走り屋の気性がある私は、この、アクセルを踏み込んだあと、やや遅れてくる加速感が好きだった。それこそ片思いのタッ君と正面向いて話すときに感じるドキドキと、全く同質のドキドキを感じる。

 姉の家の駐車スペースは、すぐ傍に交通量の多い交差点があるので、普段は左右確認を注意深く行わなければならない。けれどこのときは、そんなことなど全く気にせずに、勢いよく飛び出す。ついでに、その交差点をウインカーも出さずにドリフト気味で右折する。タイヤが摩擦ですぐにダメになるから普段は決してやらないことだけれど、この日だけは何となくやってみてもいいかなぁと思ったのである。

 アスファルトとタイヤがこすれあい、激しい摩擦熱を生み出す。さらには甲高い音をも奏で、ダメ押しとばかりに後方からクラクションの音が鳴り響く。

「ん、フフ……。爽快よね、これは」

 顔いっぱいに笑みが広がることを自覚しながら、私はカーオーディオの電源をオンにする。

 左手でカバンからMP3プレイヤーを取り出し、それをコネクションに接続すると、オーディオが自動再生を促す。すると車内にいくつか設置されたスピーカから、ロンドン交響楽団が演奏するアニメ音楽が、盛大なファンファーレとともに送りだされる。

「どうせだから……まっすぐアパートへは戻らずに、このまま少しドライブでもしましょうか、義兄さん?」

 ここにきてようやく、感情らしい感情を取り戻せた私は、こらえきれない笑いを上げながら、そんな提案をしてみるのだった。


 今までドライブスルーには入ったことがなかったものの、使ってみると案外便利なものである。注文してから、ぐるりと回ってくるだけで、早くも商品の準備が終わっており、お金を払えばすぐに受け取れる。

「四二〇円です」

 私は普段の倍以上も注文したハンバーガーを受け取り、料金を払う。シェイクは一人分しか頼まなかったのだが、店員の男の子は特に気にした様子もない。私はなんだか少しがっかりした。

(店員さん、私は人を殺したんですよ)

 心の中で、強く叫んでみる。けれど、それが伝わるなどということはない。つまらないことである。

 それでも気を取り直して車を再発進させる。

 ちなみに普段ならば、停車中にエンジンを切る――いわゆるアイドリングストップをするのが私の主義だけれど、今日ばかりはそれもしていなかったので、発車の感覚は微妙にずれてしまう。まあ、それはそれで普段よりも強い加速感を味わうこととなるから、別に気になることでもないけれど。

 私は二車線の道に出ると、左手で運転しながら、右手でハンバーガーの包み紙を開けようとする。けれど肘を曲げた拍子に鋭い痛みが走り、包みごと取り落してしまう。

「ああ、忘れてた。……骨折してたんだっけ?」

 添え木は麺棒だし包帯は透明なラップなので、怪我の具合がよく見える。右腕は一回りほど太くなり、重度の青痣みたいに青黒くなっていた。

「嫌だなぁ、また医者に行くのかぁ……。レントゲンとか、高いのよね」

 中学生の時には、都合一カ月も医者に通った。それも骨折自体は重症ではないものの、手術をしないとちゃんと治らないと言われて、数日間手術入院までしたのだ。

 そのときに利き腕を骨折しているというのに、よりにも寄ってカレイの素揚げみたいなものが病院食に出され、慣れない左手で食べるのに非常に難儀した覚えがある。そのほかにも手術中の肉を断つ音だとか、医者がメスを入れるのに力む音だとか、骨を固定するために電動ドライバーでネジを撃ち込まれる振動が響いてきたりとか――まあ、大概の人間がそうであるように、私は入院生活でとにかく嫌な思いをしたのだった。そんなこんながあれば、さすがの私も医者嫌いになったのである。

「医者、ねぇ……。そういえば、ギプスもしていたけれど……ああ、そうだ!」

 私はふと、思い出す。昔はギプスといえば石膏であるというのは常識だったものの、少なくとも私がその骨折をした時には、ガラスだか何だかが原料のファイバー製ギプスなるものを使っていた。

 それは患者の腕の形に合わせて成形されるのだけれど、単純に強度があるためなのか破砕する手間を省くためなのか、ともかく簡単に取り外しができるようにプロテクターのごとく腕の半分だけを覆うようにできているのだ。

 一応、それぞれの患者に合わせて作るため、病院としても再利用のしようもない。そのためか不必要となった後に「記念として持って帰っても結構ですよ」と言われ、馬鹿正直に私は持って帰ってきたものだった。まあ、さらに極めつけは、それを「記念品だから」という理由で現在のアパートにまで持ってきているということか。

「ギプスはあるんだから、それを使っていればいいか」

 そう、中学生の時のものとはいえ、今でもおそらく、問題なく使えるはずだ。背は伸びたけれども、何十センチも伸びたわけではない。

「うん、じゃあやっぱり、まずはアパートに戻らなくちゃ」

 そんな突発的な思いつきで、私はドライブの予定を切り上げ、再びアパートへと向かうことにする。

 ただ、この道はまるで逆方向だ。

「じゃあ、Uターンで」

 私は左右に眼を走らせると、急ブレーキを踏み、ハンドルを大きく切る。当然、車は横滑りをするが気にせず、そのまま中央分離帯の間にあるわずかな道に突っ込む。反対車線を走っていた白のバンが驚いて左にハンドルを切り、ついでにクラクションを鳴らしていたが、気にしない。

「……よし、Uターン完了」

 見事、横転することもなく華麗なターンを決めると、私は何食わぬ顔で車を走らせる。平日のこの時間帯、団地近くのこの道は案外、車通りは少ないのだ。


    *


 義兄さんにお茶ぐらい出してやってもいいかと思ったものの、車から運び出すのは案外重労働そうであったため、とりあえず車に置いてきた。どうせすぐに戻るのだから、そんなことをしても二度手間なのだ。

 私は開閉式本棚の中に飾っておいたギプスを取り出すと、すぐに腕にはめてみた。

 やはり中学生の時に作ったものとはいっても、それは私の腕にぴたりとおさまる。それまではめていた、動くたびに少しずつずれていた添え木(麺棒)よりも、なかなかよい塩梅である。

 かつて骨折した際にも経験したので覚えていたことだけれど、捻挫なり骨折なりというものは固定の仕方が上手いか下手かで痛みが全然違う。それこそ先ほどまでは下手に動かそうとすると、肉を内側からえぐられるような(というか実際、折れた骨によって内側からえぐられているのだろう)深い痛みを覚えたものだけれど、ギプスをはめてみると全然そんな感覚がない。

 ギプスをはめ終えると、次は「いざというときのために」とタンスの裏に張り付けておいたお金を取り出し、ついでにパソコンを立ち上げて料金の確認をする。それを手元のヘソクリの額と照らし合わせ、私はようやく「うん、大丈夫」と声を上げる。

「さて……。じゃあ、義兄さんのところに戻らなくちゃ」

 戸締りを確認し、アパートを出る。そして、アパート前の狭い路上に駐車していた車に戻る。

 エンジンをかけたままの車は、当然ながらカーナビの電源も入ったままである。私はこのナビを一度も使ったことがなかったものの、それでも姉たちが使っていたのを横から見ていたので操作方法は何となく分かる。そうして私は惑うことなく目的地の入力を終えると、サイドブレーキを上げる。

「さあ、次が最終目的地ですよ」

 助手席には、少しばかり尻がずり落ちた状態で、義理の兄が死んでいる。それに語りかけながら、私は再びアクセルを踏みしめた。

『実際の交通規制に従って、走行してください』

 やや遅れて、特徴がないという特徴といったところの女声が響き渡る。言わずと知れた、カーナビの声だ。

「そう言われると、破りたくなるのが、人情っていうものじゃない?」

 そう言いながらチラとルームミラーを見ると、生意気そうな顔をした小娘が小さな鼻の穴をふくらましながら、嗜虐的な笑みを浮かべているのが見える。でも、それは何故だか私の神経を逆なでして、ちょっとだけ不愉快な気持ちになった。


 運転を始めて、やはり失敗だったと思ったのは、ギプスをはめたことである。

 痛みは全くと言ってよいほどなくなったのだけれど、先ほどよりも強く固定されているためか、腕の自由がほとんど効かないのだ。

「これじゃ、意味ないじゃん」

 運転席と助手席の間にあるスペースに、先ほど買ったハンバーガーを置いているのだけれど、それを取り出そうというときになって、私は初めてそのことに気付いた。

 そう、左腕で持っていたハンドルを右手に持ち替えようとしたところで、しかし右腕が固定されているという状況になったのだ。それはそうだろう。なにせ右腕はギプスをはめたその後に、包帯で巻いて固定し、さらには三角巾というかバンダナで吊っているのだから。どう考えても、ハンドルを握ることは無理である。

 少し考えれば、分かることだったのだろう。そもそも私が持っていたこのファイバー製ギプスは、私が肘の骨を砕いたときに作られたものだ。腕を固定するようにできているのは確かだけれど、それはあくまでも副次的なものにしか過ぎない。あくまでも肘が動かないように形作られているのが、このギプスなのだ。だから機動面でいえば、すこぶる調子が悪い。そもそも、関節が動かないように作られているのだから。

 私には、どうにもこういう部分がある。それこそ姉の言葉を借りれば「ヒジリは手段のために、目的を忘れてしまうのよ」といったところだろうか。いや、父や兄の言う「お前は考えなしなんだ」という方が、正確だろうか。

「あーあー、じゃあ、分かったわよ。次こそは寄り道せずに、まっすぐ目的地に行くわよ」

 手にしようとしていたハンバーガーをあきらめ、私はとにかく運転に集中することにした。

 東京に向かうのとは逆の道であるためか、私が走っている側の車線は車の数もまばらで、これならば目的地までそう苦労する事なくたどり着けそうである。

『五〇〇メートル先を左折、そのあと二〇〇メートル先で右折です』

 電子音とともに発せられた女性の声に、注意を傾ける。そう、あとはこの声に導かれて、目的地へ行けばよいだけなのだ。

 そう思うと気が楽で、私はアクセルを、心持ち深く踏み込んだ。



※中学校時代の同級生の話


 ヒジリ? ああ、アイツって、なんだか怖かったですね。

 いや、別にグレてたとか、そういう意味じゃないですよ。むしろアイツは当初、そういったヤツらにイジメられる側だったんですからね。

 なんていうか友達も少なくて、いっつも隅っこの方でウジウジしているように見えましたから。あのぐらいの時期によくある、ちょっと不良染みたことをしている連中には、良い的だったんです。

 えっ? いや、アタシは別に、その中には加わっていなかったですよ。うん、誓って! 絶対っ!

 まあ、そもそもヒジリへのイジメっていうのは、二年生の二学期の頃までのことなんですよ、正直な話。それ以降は、ピタリとなくなりましたね。

 その理由? ええと、その、今思い出してもぞっとする事なんですけれどもね。要点だけを言うとすれば、それまでは一方的にイジメられているかのように見えていたヒジリが、反撃したんですよ。それがあまりにすごかったもんだから、イジメていたヤツらがビビったんです。

 えっ? 「例えば、殴られた時に、殴り返したりしたとか」ですって? いいえ、別に、彼女は結局ヤツらに殴られたりするところまではいかなかったですよ。それよりも前の段階です。

 うーん、「具体的に」って言われても、アタシも正直トラウマっていうか……あ、いえ! ですから、アタシはアイツのことイジメてませんってば! ……って、ああ、「調べは付いている」っていうんですか? ……はあ、じゃあ、しょうがないなぁ。ええ、アタシはヒジリのことをイジメてましたよ、少なくともアタシ自身はそのつもりでいたんです。でもね、ヒジリはあんまりそんなつもりはなかったみたいです。まあ、その二年の二学期になるまでは。

 それまでは例えば、クラスのグループ決めの時にちょっと意地悪してですね。傍目から分かりにくい程度に彼女をのけものにしたり、体育の授業の時にちょっとラフプレイしてみたり、まあ、その程度のことだったんです。けれど特に動じた様子もないヒジリのことを見て、その頃からちょっと、アタシたちもやることがエスカレートしたんですよね。

 初めは確か、彼女の靴を隠したっていうことだったかしら。これはまあ、古典的なことだったけれど、さすがに彼女も慌てて「ねえ、私の靴、見なかった?」って、当の隠した本人にまで聞いていたりしました。

 普段はぼんやりしていたり、気の抜けたような笑みばっかり浮かべているヒジリだったから、アタシたちはそんな風に慌てふためく彼女を見たのは初めてで――それが思いのほか、楽しかったんですよね。そしてそれからはもう、とんとん拍子です。

 アタシたちは使い古されたあらゆるイジメ――それもイジメをしかけたのが誰か、なんとなく分かるけれど、はっきりと断言できるわけではないっていう方法で――をしていたんですけれど、次第にもっと刺激が強いイジメをしたくなってきたんです。

 そしてアタシたちは初めて、彼女の目の前で、アタシたちがイジメているんだってことをさらしたんです――それまでの『靴隠し』だとか『黒板消し落とし』だとか、そういうやり方でないイジメを。

 まずは王道っていうことで、昼休みの時間、アタシたちは彼女の弁当箱をひっくり返したんです。「あら、ゴメンなさい」なんて、白々しく言いながら。そのときは、彼女は「あっ……」っていう顔をしてはいましたけれど、それ以上は何も言いませんでした。しばらく呆然として見た後、その弁当箱をひっくり返したアタシたちの顔を確かめるように見て――それで終わりでした。それ以上は何を言うでもなかったですし、ヒジリは顔をうつむけてしまいましたから。

 でも、気のせいか、アタシは彼女が顔をうつむける中で、満面の笑みを浮かべていたのを見た――ような気がしたんです。ええ、ちゃんと確かめなかったから、断言することはできませんけれど、とにかく笑っていた気がするんです。まあ、とにかくその時はそれで終ったんですよ、実際。

 ただ、あれはそう、それから何日か後のことです。

 その日は昼休みの前の時間が、体育だったんですよね。そのときはもう、アタシたちは堂々と――ただ、先生には気づかれないように、ヒジリのことをイジメていましたから。ヒジリが見ている前で体操着を窓の外に投げ捨てて、彼女が授業に遅れてくるように図ったんですよ。

 ただ――うん、それは彼女も多分、見通してたことなんですよね。アタシたちは図った通り、彼女が体育の授業に遅れてきたから、何にも疑わなかったのだけれど、彼女としてみればむしろ、それこそが狙いだったんです。そのことに気付いたのは、体育が終わった後、お昼休みが過ぎて、午後の授業の時です。

 アタシたち――ヒジリのことをイジメていた仲間たちは、みんなそろって、午後の授業中に腹痛を訴えたんです。ええ、本当に、ヒジリのことをイジメていたグループの全員がです。腹痛を訴えたとき、先生は訝ったし、クラスのみんなも、どうしたんだろうかって顔をしていましたね。ヒジリも、一応は他のみんなと同じような顔をしていたけれど、でも、アタシと目が合った時には――彼女、笑っていたんです。

 そのときは、まだ、ヒジリのことが恐ろしいというよりも「よくもやりやがったな!」っていう気持ちの方が強かったんです。だからそのあと、最後の授業が終わるころには腹痛も収まっていたので、放課後に彼女のことを吊し上げようってことになったんです――それこそ、校舎の裏に彼女のことを呼びだして。

 けれど、アタシたちが外に出るために玄関へ向かい、それで靴を履こうとしたら、アタシたちの中の一人が突然、「ひゃぅっ!」って感じの叫び声を上げたんです。何だろうかと思ってソイツのところへ駆け寄ると、「靴の中に変なものが入っている」って言うんです。それで、ソイツの靴を脱がしてみると、中にはなんだかドロドロのネチャネチャしたものが入っているんです。

 確認してみると、他の全員の靴の中にも、同じようなものが入っていて――それで、まさかと思ってヒジリの方を見ると、今度は全然隠すようなこともなく、アイツはニヤニヤ笑っていたんです。「何なのよ、コレは!」って聞くと、彼女は「煮凝り」って、ただそのひとことだけを言って。

 アタシたちはちょっとだけ、怖くなったんです。その日は結局、それ以上はヒジリに何もできなくて――でも、本当に恐ろしかったのは、そのあとですよ。だって、アイツはその次の日から、今までアタシたちが彼女にしてきたのと同じこと――というかもっぱら、それ以上のことをやり返してきたんですから。それも、ヒジリたった一人で。

 あれは「仕返しが出来てうれしい」っていうのではなく、単純に「これで諸手を振って、人をイジメることが出来るぞ」っていう感じでしたね。でも、アタシたちは本当に、そのことに対して何も文句を言えなくて――結局、それは彼女が飽きるまで、続いていたと思います。

 そしてその後は、それ以上のことはなかったんですけれど、みんな、ヒジリには絶対関わり合いになろうとしませんでしたね。まあ、無視すると無視したで、またなんらかの仕返しが来るのではないかと思って、仲間はずれにするとかいうことはしないようにしていましたけれど。



2、マサル


    *


 夜の八時。外出先からアパートに帰ってくると、俺の部屋の前には何やら『見慣れた』生き物が、膝を抱えて鼻歌などを歌っていた。

 性別は女で、やせ形。背は低くないが、それほど高くもない。染めるでもなく栗色をした髪はポニーテイルに結われ、色白で大きな目が特徴的。手入れさえ間違えなければ、それなりの美人で通るのかもしれない。だが、その気がないのが文字通り、玉にきずだ。

 認めたくないものだが、それは遠く東京の方で暮らしているはずの、俺の妹だった。

「岩手山の噴火口って、簡単に行ける所じゃないのね」

 愚妹がそういうことを口走るのには、慣れているつもりだった。なにせ彼女ときたらトルコの首都がアンカラ(イスタンブールは間違いである)だということは知っているのに、ロシアの首都を「ウランバートル……じゃなくて、スターリングラードだっけ?」などと言うのだ(ちなみにウランバートルはモンゴルの首都で、ロシアの首都はモスクワである)。

 ただ、冗談も時と場所をわきまえてほしいものである。

「ねえ、マサル。この娘、誰……?」

 俺の右腕にしなだれかかるようにつかまり、妹に疑わしげな目を向けるのは、まあ、ガールフレンドのようなものである。静かにしていれば庇護欲をそそる小動物のような愛らしい女性だというのに、ことこういう場面に関しては、怯えというよりも半ば殺意さえもにじませながら相手を睨みつけるのが、少々悪い癖である。

 黒目がちな目が細められると野生動物のような眼力があるし、普段ならばチャームポイントと言える八重歯も、こういう時ばかりはケダモノの鋭い牙のように見えてしまう。具体的に言うとすれば、オーストラリアだかニュージーランドだかに棲息するという有袋肉食動物タスマニアデビルといったところだろうか。

 まあ、しかし彼女がそういう反応をすることは、仕方がないことかもしれない。遠距離恋愛を押してはるばる東京からやってきて、およそ三カ月ぶりにボーイフレンド(=俺)と顔を合わせたと思った途端、その彼氏のアパートの前に、膝を折って座り込んでいる見知らぬ女(=実は俺の妹)に出くわしたのだから。むしろ、何の反応もない方がどうかしているだろう。

「っん? ねえ、お兄ちゃん……その女の人って、誰?」

「『お兄ちゃん』? ……ああ、なんだ。……っていうことは、マサルの妹さんなのね。じゃあ、アタシの未来の義妹ってことかしら?」

「でも、お兄ちゃんはよく『お前なんか妹じゃない!』っていうから、もしかしたら血が繋がっていないのかなぁとか、そんなことを思ったり思わなかったり? ……っていうか、私としてはむしろ、血が繋がっていない方が萌えっぽくていいかもしれないなんて思っていたり?」

「えっ……? 本当の、妹じゃないの……? ……っていうことは、もしかして! マサルってそういう趣味の人だっていうの!」

「俺は、そういう趣味じゃない。この馬鹿が、そういう趣味なだけだ」

「そんなバカな趣味に付き合ってくれる兄上が、私はこの上もなく好きだったりするわけです、お姉さま」

 なんだか埒が明かないなぁと思い、まあ、俺はいつもどおりに、妹の腹に爪先を突き入れる。「ふにゃぁっ」という、まあ、なんだか心なしか喜んでいるように聞こえなくもない声は無視する。

「……って、ちょっと、マサル! この子、怪我してるじゃない!」

「えっ……?」

 その時、先程までは悋気の虫をあらわにしていたはずの女が、唐突にそんなことを言い出す。

 俺が愚妹を蹴り飛ばした後にそんなことを言うものだから、このときばかりは俺も色々な意味で驚いた。

 そう、この「自分が一番かわいい」と思っている女友達が、自分以外の女に気遣うような言葉を口にしたということもある。

 そしてまた、その台詞が俺が妹を蹴り飛ばした後に発せられたものだから、もしかしたら俺の蹴り方がまずくて怪我をさせてしまったのではないかと思ったからだった。

「ほら、右腕! ギプスはめてるでしょ」

「ああ、本当だ。……って、ヒジリ、お前また、右腕折ったのかよ!」

 俺は一応、姉や妹と違って冷静な人間であるつもりだ。

 まあ、世間的に言って、出会い頭に妹を蹴り飛ばす兄が冷静かどうかはまた別の議論が必要だろうが。少なくともこの骨を折った愚妹と比較すれば、ずっと冷静だといえる。そんな冷静すぎるほどに冷静な俺が、しかしこの時ばかりは少々焦っていた。なぜならば俺の妹である間壁聖は、もう二度と右腕を骨折してはならないはずのだから。

 ヒジリは以前骨折した時、砕けた骨を結合させるために、骨の中心軸に金属を埋め込んでいる。だからもう一度、それと同じ個所を骨折してしまった場合、骨の軸に埋め込まれている金属が歪んでしまう危険性があるのだ。もしもそのような事態になれば、最悪、二度と元の通りには治らないと言われている。

 俺は医者ではないので、それ以上のことは分からない。だが、分からないからこそ、俺は妹が再び右腕を骨折したことに焦っているのだった。

「ギプスしている……ってことは、病院には行ったんだよな? ……それで、どうなんだ? ちゃんと治るものなのか? それとも……やっぱり、何か障害が残るのか?」

 言いながら、俺は最悪の事態をこそ、想像していた。

 だって、普通はそうだろう。

 親と共に、たった一度しかやってきたことがないはずの俺のアパートに、彼女は一人で現われた。

 それがせめて家から近いところにあるならまだしも、ここはひとつふたつと県をまたがなければたどり着けないところなのだ。これが異常な事態でないと思うなんて、冷静というよりも楽観的すぎる。

「……さあ、どうなんだろう? 私も、分かんないや」

 だが、愚妹の口から洩れたのは、そんな曖昧な答えだけであった。

 その無頓着すぎる反応に、俺は思わず怒鳴り返してやりたかったのだが、その思いはグッと堪える。

 怒鳴るなどというのは、冷静な人間のすることではない。そもそも妹とて、もしかしたら錯乱して、そんな妙なことを口走っているだけなのかもしれないのだから。

「まあ……立ち話というのもなんだから、とにかく俺の家の中、入るか?」

「ええ? でも、そこのガールフレンドさんに悪いし……」

「状況が全く分からなかったさっきまでならともかく、こういうときに遠慮するな、馬鹿!」

 まったくもって常人と感覚がずれまくっている妹に苛立ちながらも、しかし今は、その苛立ちのすべてを彼女にぶつけるわけにもいかない。だから俺は極力冷静に努めながら、ともかく妹とガールフレンド共々を家の中に押し込めるのだった。


    *


「ええと、間壁聖です。兄がお世話になっています」

「うん、こちらこそ。……山村佳弥よ」

 あれだけ言い合いながら、いまさらな自己紹介である。

 頭の上の馬の尾をピコピコ揺らしてお辞儀をするヒジリと、それに答える小動物染みた容貌のカヤを見ていると、それこそ動物園の中にでもいるような気分になる。

 肯定的に言えば、二人とも癒し系ということなのだろう。だが、否定的に言うとすれば、共に行動が読めないハタ迷惑な存在だということだ。

「……で、ヒジリ。お前、一体どうしたんだよ。……ええと、まずは、骨折した理由だけでいいからさ」

 初めの言葉だけだと、この要領の悪い妹は、訳もなく長々と話しこんでしまうだろう。

 そう思ったので、とりあえず当面の問題――骨折の原因についてだけ、尋ねることにした。

「んーっと、まず、今日は朝四時に目を覚ましてからね……」

「いや、だから、骨折した理由だけでいいからさ」

「……んみゅ?」

「そんな、言葉がおぼつかない子供みたいな声は出さないで、とにかくどうして骨折したかを言えって! ……例えば自分の不注意で折ったのか、それとも交通事故とかも含めて、誰かに折られたのか!」

「うーん、自分の不注意といえば不注意だし、折られたといえば折られたんだし……」

 ただ、やはりこの妹とまともな会話を行おうとした俺が、間違っていたのかもしれない。どれほど要領よく情報を引き出そうとしても、結局、余計にイライラが募るばかりだ。

 大学四年生にもなったというのに、この妹はまったく、そういうところが変わらない。俺は俺で、高校の頃まで続いていたような正体不明の苛立ちから解放され、じっと耐え忍んで彼女の話を聞けるようになっていたが、それでもなお、妹の愚鈍さには耐えがたいものがある。

「それじゃあ、ヒジリちゃん。その、折れたときに一緒にいた相手っていうのは誰なのかしら?」

 だが、そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたのは、他でもない、ガールフレンドの山村佳弥だった。

 そう、すっかり忘れていたが、彼女はこういった人間関係の対処には定評のある人間だったのである。彼女の言によれば、高校時代に所属していた、非公認の学校組織で身につけた技能だという。俺は彼女の出身高校については詳しく知らないが、近隣では名物高校だったらしい。

「うーんとね……一応、一緒にいたのはニイさんだけだったかな?」

「お兄さん? マサル……の他に、お兄さんがいるの?」

「んっ? ニイさんはニイさんだよ。お兄ちゃんじゃなくて、ニイさん」

「義理の兄……姉さんのダンナだよ」

 まだ、俺の家族、親族構成にそれほど詳しくないカヤに、俺は補足する。

 基本的に、ヒジリは『自分が知っていることは誰もが知っているはずだ』という思い込みで、会話を進めることが多い。そのため、彼女のことを全く知らない相手には、こういう通訳がしばしば必要になるのだった。

「あと、先に言っておくが、ヒジリの方がカヤよりもひとつ年上のはずだからな」

「えっ、ウソ! じゃあ、『ヒジリちゃん』じゃなくて『ヒジリさん』って呼んだ方がいいのかしら?」

「うーん、私はどっちでもいいかなぁ? ……ああ、でも、もしもカヤさんに子供ができたりしたときには、その子に若く見られたいから『ヒジリちゃん』の方がいいかも」

「……って、ああ、ちょっと脱線したな。……とりあえず、骨折った時に一緒にいたのは、義兄さんだったってことだな」

「うん、そういうことになる」

 そこまで勢い込んでいう必要はないだろうに、妹は頭の尾がパタパタと揺れるほどに首を振る。

「それで、義兄さんと一緒にいるときに、何があったんだ?」

「…………うん」

 しかし俺がことの核心に触れようとした途端、妹は口をつぐみ、動きをピタリと止めてしまった。それこそ電池の切れたおもちゃのロボットのように、彼女はじっと黙したまま身じろぎひとつもしない。

 ヒジリのこの反応に、全く思い当たる節がないわけではない。そう、ここ数年ではこのような反応を取るようなこともほとんどなくなっていたものの、それでも妹は昔から時々、このような反応をすることがあった。

 例えば、一人で留守番をしている時に花瓶を割ってしまったとき、ヒジリは親に問い詰められても肯定も否定もせず、ただじっと黙りこんでいた。そして彼女の友人が本屋で万引きしているのを目撃してしまったときも、彼女は家に帰ってきてからしばらく、誰が何を問いかけても押し黙り続けていた。

 そして今、彼女はそれらの時と、全く同じ表情と反応を示している。

「……何か、とんでもなくまずいことがあるのか?」

 俺の言葉に、しかし妹は反応を示さない。

 それまでは百面相のように、くるくると表情を変えていたのが嘘のようだ。今では感情の欠片もうかがえないような、恐ろしいほどの無表情になっている。

 そう、そこからは笑みはもちろん、怒りや悲しみといったものさえも含めたありとあらゆる種類の感情が一片たりとも感じられない。

 しかしそれは、この状態になったヒジリのことを知っている身としては、ある程度予期していたことだ。

「自分のことをかばっているのか、相手のことをかばっているのか……いや、違うな。その両方だ。……そうだろう?」

「…………」

 何も答えないところを見ると、どうやら俺の意見は大筋では正しいらしい。事実と大きく外れたことを言えば、この時の彼女はすかさず「違う」という反応は返してくれるはずなのだから。

 しかし問題はやはり、それで何故、わざわざこんな遠くに住む俺のところに来たのかだ。住んでいるところは少し遠いとはいえ、問題の大小にかかわらず、親身になって相談に乗ってくれるはずの両親がいる。それだというのに俺のところに来たのは、単純に、親に相談できない事態だからだろう。

 そう、だから軽い問題でないのだろうことは、容易に想像がつく。

 だが、そこまで推測できても、妹がこの調子で何も言わないのではそれ以上の追及は困難だった。

「……あれ、ヒジリちゃん! あなた、骨折の他にもいっぱい、アザができてるじゃない!」

「あっ……うん……」

 しかしそこで、それまで何も言わずにいたカヤが、不意に妹の手を取って、そこにある多数のアザを俺にも見えるように示して見せたのだ。

「これは……特に腕にあるこれは、どこかで打ったとか、そんなんじゃないわね。誰かに強く握られたみたいに、はっきりと手形が付いているもの」

 カヤは言いながらバッグの中をまさぐり、手の平サイズのデジタルカメラを取り出すと、誰の了承を得たわけでもないのに素早く妹のアザを写真に撮る。

「ちょ、ちょっと、カヤ。何をしているんだよ」

「何って、こういうのは物的証拠が大事なのよ。なくなる前にせめて写真に撮っておこう……ってね。できれば早々に医者にかかって、ちゃんとした診断書を書いてもらった方がいいんだけれど、その前にやるべきことはやっておくのよ」

 説明するのももどかしいとばかりに、彼女は次の時には立ち上がり、腕まくりを始める。

「いや、だから、何の話だよ」

「マサル、あんたはバカなの? こういうとき、可能性はひとつしかないでしょうに。……ああ、あと、服を脱がせるからマサルはどっか行っててね」

「……って、だから、本当に何なんだよ! 分かるかよ、そんなこと!」

 こちらも負けじと腰を浮かし、声をあげる。

 そう、カヤが何を言っているのか、俺には分からない。

「……分からないんじゃなくて、分かりたくないだけでしょ、それは」

 だが、そんな俺を見るカヤは、彼女の言葉が分からない俺を蔑んでいるというよりも、むしろ憐れんでいるかのような目である。

「まあ、それは別にいいわよ。……だってマサルは元々、そういうことをする人間が信じられないし、信じたくもないっていう純粋な人なんだから。悪いことじゃないわ」

「うっ……」

 こういうとき、女というものの怖さが分かるような気がする。普段は馬鹿のように振る舞っているとしても、ここ一番の大切なときには何もかも見透かして、それでこちらの言い分をすべて封じ込めてしまう。

「まあ、とにかくここにアタシがいたということは幸いね。……さあ、とにかく本当に、ヒジリちゃんの服とか脱がすから、男は出てって」

「いや、でも出ていくったって……どこに?」

 俺は、俺の部屋を見渡す。

 一応、一人暮らし用の安アパートである以上、リビングだ寝室だという区切りは一切ない。この部屋以外にあるのは台所とトイレ、あとはバスルームぐらいだ。そもそも台所にいたっては、この部屋との区切りはない。

「ああ、もう! だったらトイレにでも入っててよ! 十分も二十分もかかるわけじゃないんだから!」

 さすがにこれ以上、彼女のことを刺激してはいけないと思い至った俺は仕方がなく、言われるとおりにトイレにこもることにしたのだった。



※高校時代の先輩の話


 彼女は真面目な子でしたよ。午後練習の時には、他の子なんかは友達とおしゃべりしたりなんだりで、来るのが三十分以上遅れたりするんです。けれども、ヒジリちゃんはホームルームが終わったらすぐに飛んできて、練習を始めていましたからね。

 まあ、たしかにそういう部分があれば、多少は人付き合いの下手な部分もありましたよ。けれど、それはそれで彼女の可愛いところでしたしね。だから私たちなんかは結構、彼女のことを可愛がっていたものですよ。

 そう、だから何か悪いことができるような子じゃないんですよね、彼女は。だって、あれほど純真な子なんて珍しいものなんですからね。

 えっ? 何部だったのか、ですか? あら、ごめんなさい、そこまではご存じでなかったのですね。私たち、吹奏楽部だったんですよ。

 私はトランペットで、ヒジリちゃんはバスクラリネットでした。ええと、バスクラリネットっていうのは名前の通り、低音のパートを担当する楽器で、子供の背丈ぐらいの大きさがあるクラリネットなんです。

 ベース音だから、素人にもやりやすい、ですか? いえ、そんなことはありませんよ。

 たしかに、トランペットみたいに主旋律を担当する楽器は目立ちますし、それなりのテクニックも必要かもしれないですよ。けれども、結構、誤魔化しがきく面もあるんです。実際、ある程度以上の楽団だと高音楽器の演者の実力なんかは拮抗してきますしね。

 逆にバスクラみたいな楽器は地味ですけれど、深い音を出しながら、正確にリズムを刻まないといけませんからね。上手い楽団のどこが違うかといえば、この低音というベース部分がいかにしっかりしているかなんですよ。だから案外、彼女のやっていたのは重要なパートなんです。

 そう、だから努力家で、しっかりもののヒジリちゃんには向いていましたね。



3、カヤ


    *


 そうしてまざまざと目の前に突きつけられると、むごいものだと思う。

 彼女の腹部にはふと見てすぐに足型だと分かるほど、面積の広いアザができていて、骨折していない左の二の腕にも打撲の跡がある。背中や腰は棚か机の角に打ち付けたのか、いくらか赤くなっている部分があって、多少出血をしている個所もあった。

 そう、服を着て普通にしていれば、傍目にはほとんど気づかれないような箇所の怪我ばかりだ。それこそ、あまりに不自然すぎるほどに、そういう個所にだけ傷がある。これはまるで、どういう殴り方をすればそうなるか分かって殴ったかのようだ。そう、つまりこの手のことに手慣れているものが暴力を振るったような印象を受ける。

 その証拠というわけでもないが、彼女は首から上にかけてはほとんど怪我らしい怪我を負っていない。親が子供を叱る時に殴るのは頭だし、男女のいさかいを含めたケンカの時は顔面に平手打ちかゲンコツだ。そう、何らかの弾みで誰かに暴力を受けた場合、顔に怪我を負っていることが多いはずなのだ。だから全身くまなく怪我を負っているというのに、こうまで顔がきれいなのは異常だといえる。

 加えて言うとすれば、彼女は比較的肌が白い。そのため、こうして裸体をさらしてみると、それらの傷が余計に痛々しく感じる。

「何があったか……は、言い辛いかしらね」

「…………」

 アタシと初めて顔を合わせたときにこそ、天真爛漫というか、むしろ頭のネジが足りないバカな娘を演じていた彼女だ。だが、今ではそれから一転して、無表情で無反応だった。

 一応、こちらの言葉は音としてとらえられていて、そしてどういう意味を持っているのか頭では理解しているのだろう。けれど、彼女はそれに対する反応の仕方を忘れてしまっている。いや、意図的に忘れてしまおうとしているだけなのだろうか。

「まあ、今はとりあえず、これでいいわよ」

 詳しい事情を聴くことはとりあえず、後でもできる。必要だろうという程度の写真は私のデジカメで写したのであるし、あとは彼女をもう少し落ち着かせた後、医者に連れていくだけだ。

 デジカメをバッグに戻すと、アタシは彼女の肩にそっと、タオルをかけてやる。

 彼女が着ていた服は、もう使い物にならない。それというのも骨折の程度が相当ひどく、彼女が着ていたTシャツを普通に脱がすことは無理だったので、仕方なくハサミで切ってしまったのだ。そもそもいくらか血が付着していて、使い物にならないとまでは言わないにしても、それを着て街を歩くことは女として抵抗があるだろうという程度にまで汚れていたのは確かだ。

「でも、このままじゃさすがにいけないから……そうね、マサルの服を幾らか借りましょうか。できれば、袖口が大きい服か、さもなくば前開きの服がいいんだけど……」

 狭い部屋であるため、部屋の隅にあるチェストはすぐに見つけられた。プラスチック製の、いかにも安物といった三段チェストだ。

 アタシは引き出しに手をかけると、誰の許可を得るでもなく勝手に開ける。

「……なに、これ?」

 しかし、私はチェストの中身をのぞいて、絶句した。

 チェストの一段目にぎっしりと詰まっていたのが、何の変わり映えもしない、真っ白のワイシャツだけだったからだ。

 それも安物の三段チェストとはいえ、それなりに大きさがある。だからざっと見ただけでも、その一段に収まっているワイシャツの量は十着はくだらないだろう。

「ま、まあ、量はともかく、マサルは仕事で忙し人だから……」

 そう、三段チェストの一段をすべてワイシャツに費やしているとなれば、自然と私服のスペースは少なくなるはずだ。ただ、それを私は『仕事が忙しい人だから』の一言で片づける。そう、今はそんな細かいことなど、どうでもよいのだ。

 気を取り直して二段目を引き出すと、そこにあるのは薄い桃色のワイシャツと、薄い青色のワイシャツ。そして三段目を引き出すと、そこには下着と靴下が詰め込まれている。

「……私服はどこなのよ!」

 どこかに私服専用のチェストがあるのではないかと周囲を見渡すものの、このほかに家具らしいものといえばテレビとテレビ台、冷蔵庫、電子レンジ、そしてちゃぶ台代わりの小型のテーブルのみ。クローゼットはなく、辛うじて設置されている押し入れもこの家に入ってきた時から開け放たれたままで、中には幾らか本が積まれているだけだ。

 ちなみにズボンは三足ばかりが、部屋に張られたワイヤーにかかっている。

「ああ、もう……!」

 仕方がないので、アタシはチェストの二段目にあった薄桃色のワイシャツを掴み出すと、先ほどからほとんど動いた気配のないヒジリちゃんに羽織らせる。

 ただ、そうしてみると彼女の格好は何ともキワドイものである。

 狭い部屋の中、まるきり表情をなくした少女がいて、半裸にワイシャツを羽織っただけの姿でいるのだから。

 この情景をも写真に収めれば、あるいは副業の素材になり得るのだが――さすがにそこまでするのは躊躇われた。一応、彼女は、アタシの恋人であるマサルの妹なのだから。


    *


「これは、お兄ちゃんには内緒のことだったんだけど……」

 一度口を閉じたときからそれまで、何も音を発していなかったはずの彼女が口を開いたのは、一通りの撮影を終えた後。トイレにこもっていたマサルを呼び戻してすぐのことだった。

「ああ、これは、私の決めたことだとか家族で決めたことだとかそういうんじゃなくて、ほとんど暗黙の了解みたいなことで、そうするべきなんだろうって解釈してそうなっていたっていうだけで……」

 まるで今、この瞬間を逃せば二度とその台詞を口にすることができないとでもいうような切羽詰まった調子で言う彼女は、しかしその言葉の途中で息を詰まらせて、激しくせき込む。

 そんな彼女にマサルは、何か言葉をかけるではなく、ただ背中をさすってやるだけだ。

 別に、言葉をかけないマサルが、非情だといういうわけではない。むしろ口先だけの安直な慰めをしないのが、マサルなりの優しさなのだろう。その程度のことは、さすがにアタシでも分かる。

「……お姉ちゃんは、暴力を受けていたみたいなの」

 そしてヒジリちゃんがまず口にしたのは、彼女自身のことではなく、彼女から見れば四歳違いの――マサルから見れば二歳違いの姉に関する話だった。

 アタシは彼女に確認の言葉を返そうとしたのだが、それは寸前で思いとどまる。

 そう、ここでアタシは口を挟みこむべきではないと悟ったからだ。

 マサルはヒジリちゃんの言葉に相槌を打つでもなく、異議を挟み込むでもなく、ただ黙して聞いているだけである。アタシがちらと顔を見ると、彼はヒジリちゃんと同じように、今ではその顔面から感情が読み取れないぐらいに完璧な無表情をしていた。

 人間というものはこういう局面に立たされると、感情が喪失してしまうものなのか。それとも単純に、この二人が兄弟として似た性質を持っているだけなのか。そのことは、はっきりとは断言できない。

 ただ言えることは、この二人が常ならぬ感情を抱いているということだけだ。そして、ともすれば弾けてしまいそうな感情を、二人してギリギリのところで押しとどめている――そこに私が言葉を挟んで下手な刺激をすれば、多分、彼らは感情を爆発させてしまうに違いない。

「私は一応、成人もしていれば、お姉ちゃんの家の近く住んでいるわけだから。だから、二人ともできるだけ耳に入りにくいようにはしていたけれど、無理に隠そうとはしていなかった。私がそれを解決するための話し合いなりに参加したいとかいえば、多分、否定はしなかったと思うの」

 そして無理に感情を押しとどめた妹が、無理に感情を表そうとしていない兄に、とつとつと経緯を語り始める。

「ただ、私はその中に入るのが嫌だったし。……ほら、私って人を疑わないどころか、むしろ誰もがみんないい人だと思って接しているようなところがあるから。だから義兄さんとは、それまでは調子をあわせていた部分もあって、それで……それなのにそんなことがあるって知らされれば、どういうふうにいればいいから分からなかったから」

 感情をひとつひとつ整理していこうとしても、それは叶わないことだ。

 そもそも、整理しようとする行為自体が感情となってしまうのであれば、感情を整理するという行為には、どうしても論理的な矛盾が生じてしまう。

 整理がつかないからこそ、感情なのだ。

 彼女の言葉には、どこかそれに似た危うさが含まれている。

「でも、そうしている中で、事態はどんどん悪くなっていくみたいなの。……ううん、違う。悪くなっているんじゃなくて、それは元々破綻していて、その事実が徐々に私たちの目に見えるようになっていったっていうだけなの。大体、兆候はあったわけで、でも、それを手繰り寄せるための重要な糸が隠蔽されていて、どうしてもはっきりとそれが分からなかったの」

 抽象的な話ばかりで要領を得ないのだが、多分、これはそうして語るしかない話なのかもしれない。

 事実のエッセンスを取り出して、座りよく並べると、事実とは全く違ったものが出来上がってしまうというのはよくあることだ。彼女はそうしたくないからこそ、こうして漠然とした話を連ねているのだろう。

 こういったケースは初めてであるものの、昔から人の厄介事に首を突っ込んできていた私としては、そのことをよく承知していた。論理というのは結局、誰にでも確実に共有できる最小公倍数をより集めたものでしかなく、本当の意味での真実というものは絶対に共有できないのだと。

「直接、目で見たり聞いたりしなければ、それが事実だっていう決定はされない。……そんなつもりでいて、けれど、それで抑えきれないぐらいになってきたの。だからいっそのこと、はっきりとそれを確かめて、笑えるのなら笑えばいいのだし、そうじゃなければ怒ればいいって」

 それで、被害にあったというのだろうか。


「だから、殺したの」


「……えっ?」

 しかし、続く彼女の言葉は何の脈絡もなく、あまりに唐突であった。

 そう、主語も何もかもを欠いていて――だからそれが何を示すのか、アタシはすぐに判断できなかった。



※大学の知人の話


 友人? ……違いますよ、僕は彼女と知り合いであっても、決してそういう仲ではありません。間違っても『大学の友人』なんて書かれたら、僕は認めませんからね。

 まあ、このことはそれでいいとして……。話題は、間壁さんのことについてですよね?

 基本的に無計画な人間なんですよ、間壁さんは。だって、そうでもなければ今みたいな立場にあるはずがないじゃないですか。

 そう、なんだって留年したっていうのに、留年していない僕らと同じ研究室で、同じように研究に励んでいるんですか。どう考えたって、これっておかしいですよ。

 本人は「他にやることがないし」とか言っていて、まあ、実際、必修以外の単位は足りていたようですけれど。でも、普通、そういう場合は半年間停学してアルバイトに励むなり、なんかの資格試験に挑んでみたりするわけですよ。それをなんだって、金になるわけでもない、こんな場末の研究室で研究に励むっていうんですか。

 本人の前では言えないですけれど、異常ですよね、彼女は。

 大体、去年の四年生があれほどひどい状況だったのは、間壁聖という変な奴がいたことが原因のひとつだと思うんですよ。

 だって、あんなのがいたら、誰だって嫌になりますよ。……いや、彼女という人格が、ではなくてですね。これはもっと単純な話で……そう、どうにも彼女が研究室の誰よりも、この研究分野に精通していたんですよ。少なくとも形式上は、僕たちの一学年下になっているはずの彼女が、ですよ。

 まあ、それでかえって奮闘してくれるほど根性のある奴らだったなら、話はまた違ってくるんですがね。でも、少なくともボクを含めた去年の奴らは、そんなタマじゃなかった。

 だからまあ、間壁聖をひとことで表すのは難しいようでいて、実は簡単でして。つまり彼女はいわゆるトリックスターってやつですよ。そう、自覚の有無、事の善悪にかかわらず、とにかくその存在があるだけで周囲の安定が乱れるっていう意味で。



4、チヒロ


    *


 まず、確認したかったことは、頭の中に何が詰まっているかということだった。

 それは多分私だけではなく、父も母も、そして姉も興味を持っていたに違いない。

 ただ、苦労して頭をかち割っても、私にはその頭の中身が正常なのか異常なのか、その判別を下すための知識など何ひとつ持っていなかった。

 何ひとつとして、分からなかった。


――だったら、正常な人間の頭をたたき割って、比較してみればいい。


 不意に、そんな発想が頭をよぎったけれど、それを実行に移すわけにはいかなかった。正常な人間であれば、私に殺される理由がないのだから。

 だからそれは――そう、私が殺さなければならなかった彼という人間が、異常であるということの証明でもあった。

 思考を進めるとそのことに突き当たったので、私はそこで満足する事にしたのである。


    *


 長子の常で、姉は私たちの誰よりも、よくお金をかけて育ててもらい、そして同時に誰よりも我慢をし続けてこなければならなかった。彼女は「最初の子供だから」ということで得られる多くの慢心と、「お姉ちゃんなんだから」と言われて被る多くの理不尽を受けてきた。かくして彼女は長子としての尊大な部分と繊細な部分――そして姉としての幾らか以上の責任感を持ったのである。

 そんな姉も二十歳を過ぎると結婚し、すぐに子供をもうけた。ややもすれば唐突で性急に過ぎる結婚であったのだけれど、これで姉が落ち着いてくれるのであればと、最終的には両親も素直に祝福した。

 けれど、それから幾許もしないうちに、彼女の周囲では不可解なことが起こり始めた。

 例えば、冬の入り口にさしかかったある日のことである。唐突に実家へ帰ってきては「美容院へ行く」と言い、母に生まれたばかりの娘を預けていったのである。そしてその実、彼女は新幹線に乗って、誰にも何の連絡もせずに母の実家がある北国へ向かっていた。無論、そのことが分かるまでは単純に行方不明だと思って私たち家族は散々探し回ったのだし、ようやくその足取りを突き止めたときには、父と母は車を飛ばして追いかけた。

 その時の私は彼女よりも四つ年下の、分かったようなつもりでいて、やはり本当の意味で世間のことなんて何も分かっていない思春期真っ只中の少女であった。だから、単純に「また、姉が癇癪を起した」としか考えつくことができなかったのだ。実際、日記にもそのように書き記している。そしてそれと同時に、私は姉の夫が、そんな姉のことを優しく労わってくれるのだろうと確信してもいた――何せ彼は姉よりも一回り近く歳が離れているのだから。その思いも私は日記に書き綴っていて、心の内では「結婚っていいな」と思っていたりしたはずなのだ。だからもちろん、このときは私のその思いが完全に裏切られていただなんて、思ってもいなかった。

 二度目の時は、その半年後だっただろうか。

 私は詳細を知らない。けれど、ともかく姉がまた行方をくらませたという。見つかったのは、私たちの家族が十年前まで住んでいた町であった。いい加減、振り回されるのにもうんざりしていたのか、その時の私の日記の記述はぞんざいで、その程度の情報しか記されていなかった。そもそも私自身、別の困難なことに直面していた時期でもあったので、そこまで気が回らなかったのだろう――いや、今思えば姉にまつわるいろいろなことが作用して、私がその時抱えていた問題が、必要以上に混迷に突き込んでいたといえるのかもしれないけれど。

 その後、二年間ほどだったか。たしかその間は「流産した」とかしないとか「子供がもう産めるかどうか分からない」だか「やっぱり妊娠する事が出来た」だとか、そういうことが続いていた。もはや感覚がマヒしてしまって、私は日記にそれらのことをほとんど書き残すこともなく、どうしても書きたいときは「姉が来た、以下省略」とでも書いていた。

 しかし、こうして思い返してみると、あの流産ということも、本当にただの流産であったのかは疑わしいことだ。けれど、当人たちに確認していないので、よく分からない。いや、むしろ聞きたくもなかった。その答えを聞いて、もしもそうだと言われれば――許せなくなっていただろうから。

「それで、結局、許せなかった……っていうの?」

 問いかけるカヤさんに、しかし私は首を横に振って答えとする。

 それは、人を殺す理由にならない。

「力いっぱい、殴られたから……」

「殴り返していいと、思ったの?」

 いや、そんな程度のことではない。

 間違いではないけれど、ここは補足して、訂正しなければならない部分だろう。


「これで、殴り返して殺してやることができるって。……ただ、その思いで嬉しかっただけなのよ」


 殺した理由は、ただそれだけのことだった。

 そして、それが私にとって、はじめての殺人となったのである。

 ただし、これは殺人事件ではない。

 何故なら結局、これは事件とはならなかったのだから。



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