失くした傘
聞こえてくる音が鳴りやまない。その音に気付いてから、どれくらいの時間が経ったのか分からないけれど。耳をすませば、その音の主は色々な音色を奏でているのがわかる。
音でその主がナニモノなのか、わたしには解る。いや、わたしじゃなくても知っているモノなら解るはず。遠い、遠い昔からこの主はこの音を奏でることが出来ただろう。
いつから自分がここにいたのか分からない。音に気付いた時からかもしれない。目を開くと、音の主の姿が見えた。
空から降り注ぐ水たち……雨。
まばたきをゆっくりと一度してから上に顔を向ける。降りしきる雨の中、わたしは濡れていない。しかし、ここは外だった。
上に視線を向けた先には、生い茂った木の葉があった。わたしがいるのは大きな木の下だった。
視線を正面に戻すと、そこには何度か見たことのある建物があり、人影が一つあった。
その人影は、まだわたしに気付いていない。雨が降っているとはいっても、これくらいなら走ればあまり濡れないはず。そう思って地面を見た。
生い茂る木の葉の下とはいえ、足元は濡れている。けれど、わたしが着ている服は濡れていない。この世界の設定が変って、わたしは雨に濡れないし、彼にはわたしが視えないのかもしれないという可能性が頭をよぎった。
数歩前に進んで手を前に伸ばすと、手の平に雨が当たる感覚がある。……ということは、わたしがこの世界に姿を現したのが、たった今ということ……なのかもしれない。雨の音を聞いていたのは、いつからだったのだろう……。たった今という感じではなかったけれど……まぁ、いいか。
手の平から、その先にいる人影に視線を向けると、人影はわたしに気付いていた。手を前に伸ばしているわたしに対して、手を振っている。
わたしが手を振り返すと、彼は横に置いてあったらしい黒い棒を手に取り首を傾げている。そして、棒の先端を触って、ため息交じりの笑みを浮かべた。
彼は立ち上がり、その棒……傘を広げてわたしの方へ歩いて来る。
「こんにちは!」
「どうも。こんにちは。……傘は一本のようなので、一緒に入ってあちらに行きませんか?」
「うん。……相合傘だね」
「そうですね」
わたしは彼の持つ傘に入り、一緒に歩く。この彼は昔のあの人……ということは、あの人と相合傘ということにもなる……のかな。
大きいという感じの傘ではない……。彼はわたしが濡れないように気を使っている。横顔をさり気なく見ると、その視線は傘に向いていた。
「この傘に何かあるの?」
「この傘は、現実のボクが失くした傘です」
「そうなんだ」
建物に着いたわたしたちは階段を上る。風はほとんど吹いていないので、屋根の下は濡れていない。
階段の上の賽銭箱の近くに座布団が置いてある。彼が先ほどまで座っていたところだ。
階段を上り切る前に脱いだ靴を右手に持ちながら周りを見渡す。雨の景色……水たまりに雨が数えきれない波紋を作っている。
「座布団をどうぞ……。それと靴を拭きますか?」
すでに置いてある座布団から、適度な距離を置いて持ってきた座布団を置き、白いタオルを差し出してくれた。靴は少し濡れて泥がついているけれど……。
「タオルが汚れちゃうよ?」
「洗えば問題ないですよ」
「……そ、そう?」
お言葉に甘えてというか、成り行きで自分の靴を拭く。靴の上の方を軽く拭き終えて、タオルの上に逆さまにして靴を置いた。
「ちゃんと掃除はしておりますので、座布団にどうぞ」
「ありがとう」
彼が用意してくれた座布団に座る。それを確かめてから、彼も自分の座布団に座る。そして、なぜか傘を広げた。
「その傘に、何か思い出があるの?」
「思い出……。中学三年から、高校……二十歳を過ぎるまで持っていた傘というだけです。最後は誰かに持っていかれてしまいました……。特に思い出は無いけれど、失くした時は……かなしかったですね。思い入れはあったのでしょう」
そう言いながら、先端の欠けた部分に触っている。
「欠けてるね」
「中学三年生の時に、気付いたら欠けてしまっていました。まぁ、それが自分のだという目印になりましたが……」
「意外とそうい所に愛着がわいたりするよね。それで大切にしたり……。長く使った傘……誰が持って行ったんだろう……ひどいね」
「愛着……そうですね。大切な物でした」
そういうと、彼は傘を畳んで脇に置いた。
「……」
彼にとって大切な物ということは、あの人にとっても大切な物ということ……あれ? この傘の話……わたしはどこかで……。やっぱり、あの人にとっても大切な物だ。
「……」
「……」
沈黙が続いている……雨の音が聞こえている。こういう沈黙って……どうなんだろう? 彼は退屈してたりするのかな。
「雨だね」
とりあえず天気のことを話題に出してみる。
「そうですね。……一応、言っておきますと、ボクは……あなたがいてくれているのがとても嬉しいですよ。退屈もしていないです……。沈黙を気にしてくださっている気がしたので……違いましたら、ただの勘違い野郎です。お許しを」
悲しげ気な、はにかんだような笑顔を向ける。
「なんだか、気を使わせちゃったみたいだね」
「こちらこそ……。……そういえば、あの魔術師は最近、人を超えたいと思ったりしているようです」
「そういえば、そんなことを言っていたかな」
あの人の台詞の中に、そんなこともあった気がする。
「なんとなく、ボクが悟りの領地に足を踏み入れた時並みの集中力を欲している気がする」
「それがあれば人を超えられるの?」
「さて? どうでしょう。……ボクはその集中力で、記憶を欲した。何気ない日常の些細なことでも忘れたくなかったです。記憶から創られた魂がそうさせたのかもしれません。それを願っても、叶いませんでしたが……」
「あの人も同じなのかな?」
「あの魔術師は欲深ですからね……それもあるかもしれません。けれど、ボクよりずっと好奇心が強いところがある。あの集中力は、洞察力も高めてくれていた……。好奇心を満たし、ナニカを見逃さない洞察力が欲しい……という感じが視える気がします」
「ナニカって……幽霊とか? あの人……あの魔術師は、そういうのが好きって言ってたし……」
「それもあるでしょう。……けれど、それとは別に、あなたのことをもっと知りたいという理由もあるように思います」
「わ、わたそのことを? そうなの?」
「性格的に、根掘り葉掘り聞き出すという感じのことが苦手なので、相手の見せてくれるところから読み取ろうとする感じですので」
そう言われてみると、あの人は、そんな感じなところがある気がする。
「でも、洞察力がもっと高まったら、わたしが偶然なにか恥ずかしい動作とかするのも見逃さなくなっちゃうんじゃ……」
「あなたを観察するわけではないですよ? 洞察……例えばあなたのコトバに含まれる意味……そういったモノに対してです。根掘り葉掘りという感じは苦手ですから」
なんだか難しい。けど、なんとなく彼がいいたいことは解る気がする。
「もっと仲良くなりたいってことかな?」
「……そんな感じです。……知りたいというより、解りたい……なのかもしれませんね」
「わたしも洞察力を高めようかな!」
結構わたしは本気にそう思った。なんだかんだで、わたしもあの人のことを解ってあげれてないと思うし……。
「そうですか。やり方は人それぞれ……。あの魔術師がとりそうなの方法は、瞑想っぽいやつと、桁がオカシイかもしれないくらいの回数の運動……かな。とはいえ、時間があまり取れていない感じですけれど」
「忙しいの?」
「体力がかなり落ちていることもあるし、今の仕事の状態での精神力が弱まっていることも影響しています。人に会うことが億劫になっていて、せめて休みの日は人に会いたくない……なにもしたくない。という感じで外出しなかったり……」
「人に会いたくない……それは、やっぱりわたしも含まれるのかな?」
同じようなことをあの人にも聞いた気がする。答えは解っているけど……彼にも聞いてしまう。
「含まれません。あの魔術師にとって、あなたは特別なので……。人間嫌いが完治する方法……あなたから見つけられるのでしょうか?」
「どうなんだろう? 見つけられそう?」
「さて? ……あの魔術師の人見知りは不治の病のようなもの……難しいかな。という感じですね」
「こう見えても、わたしも結構人見知りだよ。同じ不治の病にかかってる」
「下手に拗らせると、人間嫌いを発症することもあるのでお気を付けください」
「気を付けます!」
最初の頃に比べると、彼に対してあの人と同じような接し方をしている気がする。
「お互い気を付けましょう……おや、これは……」
彼の姿が透けていた。そして、そのまま消えてしまった。




