1話
会場に、龍の咆哮が響き渡った。
翼を広げただけで空気を震わせるその巨躯は、
わたくしが召喚した大蛇を
ヴィスコンティ辺境伯家、
代々の家紋たるあの誇り高き蛇を
一瞬にして光の粒子へと変えてしまった。
しん、と静まり返った会場。
それから、割れるような歓声。
わたくしにではない。
杖を肩に担いだまま、
興味なさそうに欠伸をしている、
あの新入生に向けての歓声だ。
ーーーモカ。
庶民の生まれでありながら、
その才を見込まれて特別に入学を許されたという、
噂の一年生。
わたくしはしばらく、その場から動けなかった。
悔しさより別の感情が胸を占めていたからだ。
「これが本物の天才......」
呟きが、誰に届くでもなく零れる。
生まれた時から魔法と共にあった。
ヴィスコンティ辺境伯家は、
代々この国の国境を護ってきた一族。
国境の護りに空白があってはならない
それが家訓であり、わたくしが
物心つく前から叩き込まれてきた大義だ。
だからこそ、召喚術も、付与術も、
寸分の狂いもなく完璧に扱えるよう育てられた。
型を外れたことは、一度もない。
その「型」を、この庶民の少女は、事もなげに凌駕してみせた。
私の、召喚した大蛇は、それをまるで小さなミミズか何か程度に見下ろした巨大な龍により
消しされた。
「よくってよ」
気づけば、口からそんな言葉が漏れていた。
「あなたに興味が湧きましたわ!」
「はあ?」
心底どうでもよさそうな声で、モカが振り返る。
品定めするような視線を寄越すこともなく、
興味の欠片も感じさせない目で、
こちらをちらりと見ただけだった。
その無関心さすら、なぜか強く印象に残った。
会場を出ると、取り巻きたちが待ち構えていた。
「ベアトリス様! 惜しかったですわ、次こそ絶対に!」
「あの子、庶民のくせに生意気ですわよね。品もありませんし」
黄色い声援と、それに混じる棘のある言葉。
慰めのつもりなのだろうが、正直、耳障りでしかなかった。
そもそも、この手の騒ぎ自体が煩わしい。
わたくしは、彼女たちの名前すら、正確に覚えていない。取り巻きのAだのBだの、その程度の認識で構わないと、いつからか思うようになっていた。
名前を覚えたところで、何が変わるわけでもない。
「それより聞いてくださいまし、隣のクラスの......」
誰かが、恋バナを始めた。誰それが誰それに片想いをしているだの、視線が合っただけで舞い上がっているだの。
「くだらない」
思わず、口をついて出た。
「そのような時間があるならば、魔法陣の一つでも研究なさった方がよろしいですわ。恋などというものは、人を狂わせるだけの、不確かなもの」
取り巻きたちは、気まずそうに顔を見合わせて、それきり口を噤んだ。
我ながら、正しいことを言ったはずだった。
恋は理性を失わせる。
父を見ていれば分かることだ。
母が留守がちになってから、
父とヒルダが二人きりで何やら親密そうにしている姿を、幾度となく見かけている。
母がいないのを良いことにーーーそこまで考えて、わたくしは頭を振った。今、考えることではない。
廊下の向こうから、生徒会長ーーー兄のガイウスが歩いてきた。相変わらず、眉間に皺を寄せた顔をしている。
「負けたそうだな」
短く、それだけ。
労いの言葉など、期待するだけ無駄だ。
「次は、必ず」
「ヴィスコンティの名を汚すなよ?
貴族が平民に負けるなど
個人の問題だけでは済まないのだ」
それだけ言って、兄は生徒会室の方へと消えていった。副会長であるわたくしも、本来なら後に続くべきなのだろうが、今日はどうにも、その気になれなかった。
生徒会など、正直なところ、家格を保つための義務のようなものだ。噂では、わたくしにも兄にも、勝手にファンクラブなるものが存在しているらしいが、興味を持ったことは一度もない。くだらない。
ヒルダ――いや、ヒルデガルド・ヴィスコンティ。わたくしの世話係にして、家庭教師でもある人だ。
物心ついた時には、既にそこにいた。まるで空気のように当たり前に、わたくしの傍らに。
聞けば、元は田舎貴族の生まれだったという。家は早くに没落し、冒険者として生きる道を選んだのだと、いつだったか一度だけ聞いたことがある。
冒険者としてパーティを組んでいた仲間こそが、今の父と母だったらしい。父がヴィスコンティ家を継ぐことになった際、母と共にそのままヒルダもーーー当時何があったのかは知らないがーーー客分としてこの家に迎え入れられ、ヴィスコンティの姓を許された。
剣も魔法も、達人の域にあると聞く。それでいて、決して驕らず、表舞台に立とうとはしない。わたくしの教育係という立場に徹し、剣の型も、魔法の理論も、幼い頃から根気強く仕込んでくれた。今のわたくしがあるのは、間違いなくヒルダのおかげだ。
もっとも、当のヒルダは、それを誇るでもなく、ただ静かに微笑むだけだった。
その日から、わたくしはモカを観察することにした。
無論、次の対決に備えた、ただの敵情視察だ。
それ以外の意味などない。
授業の合間、モカはよく中庭で絵を描いていた。
魔法学園だというのに、キャンバスを広げて、飽きもせず筆を動かしている。
「魔法の課題は、もうよろしいんですの?」
声をかけても、返事はない。
聞こえているのかどうかも怪しい。
ただ、筆先だけが迷いなく動いている。
覗き込んだ絵は、お世辞にも上手いとは言えなかった。それなのに、なぜか目を離せなかった。下手なはずなのに、そこには確かに、何か閉じ込められたような熱があった。
結局、モカは一度もこちらを見なかった。
――何も、揺らいでいない。
揺らいでいるのは、わたくしの方だけだった気がして、無性に落ち着かなかった。
夜、いつものようにヒルダが部屋を訪れた。
「今日、負けてしまいましたわ」
「さようでございますか」
「でも、あれは、本物でしたの。才能というものを、あそこまで見せつけられたのは、初めてで」
ヒルダは、静かに相槌を打つだけだった。助言もせず、慰めもせず。ただ、優しく聞いているだけ。
それでも、なぜか少しだけ、心が軽くなる気がした。
「決めましたわ」
わたくしは窓の外を見据えた。
「次は、エンチャントで勝負ですの。あれほどの才能を持つ相手だからこそ――正々堂々、リベンジしてみせますわ」
ヒルダは、いつものように静かに微笑んだだけだった。
その微笑みの意味に、このときのわたくしは、まだ気づいていなかった。




