第九十七話 最後まで残った感情
人間の感情は、弱くて壊れやすい。
でも、“愛した記憶”だけは、最後まで残り続ける。
向こう側の透明都市は、静かだった。
さっきまで荒れていた感情の海は。
少しずつ、その黒さを失い始めている。
怒り。
悲しみ。
孤独。
愛情。
捨てられていた感情たちが、持ち主の元へ返っていく。
レンは、その光景を見つめていた。
胸が痛い。
でも。
どこか、温かさもあった。
街が、やっと“感じ始めた”気がした。
その時。
感情回収者の女が、ふらりと揺れる。
レンは目を見開く。
「……っ!」
紗凪が駆け寄る。
「母さん!!」
女は小さく笑った。
でも。
その身体は、少しずつ透け始めていた。
レンの背筋へ寒気が走る。
紗凪は震える声で言う。
「なんで……!」
女は娘の頬へ触れる。
その指先は、ひどく冷たそうだった。
「感情を返したから」
静かな声。
「この街を支えてたものが、なくなっていくの」
レンは息を呑む。
向こう側の透明都市。
ここは、“捨てられた感情”でできた場所。
なら。
感情が全部返れば。
この街そのものも消える。
女は空を見上げる。
薄暗かった空が、少しずつ崩れ始めていた。
ネオンも。
建物も。
静かに輪郭を失っていく。
紗凪は涙を堪えながら言う。
「嫌だよ……」
女は少しだけ困ったように笑った。
その顔は、初めて“普通の母親”みたいだった。
「ごめんね」
紗凪の涙が零れる。
女は静かに続けた。
「ほんとは、こんなことしたくなかった」
レンと紗凪が顔を上げる。
女は苦しそうに目を伏せた。
「でも」
少し声が震える。
「最初に感情を回収した子がね」
感情の海を見る。
「“苦しいなら、全部消してほしい”って泣いたの」
レンの胸が痛む。
女は続けた。
「私は、その子を助けたかった」
「ただ、それだけだった」
その瞬間。
レンは理解する。
この人は。
最初から“世界を壊そう”としたわけじゃない。
ただ。
一人を救いたかった。
その優しさが。
少しずつ歪みながら、街全体へ広がってしまった。
女は小さく笑う。
「でも、人の感情って」
空を見上げる。
「やっぱり、その人の中にあるべきだったのね」
その声は。
長い長い後悔みたいだった。
その時。
レンが静かに聞く。
「……最後まで残った感情って、なんだったんだ」
女は少し驚いた顔をする。
やがて。
小さく笑った。
そして。
静かに答える。
「愛情よ」
レンの呼吸が止まる。
女は続けた。
「怒りも」
「悲しみも」
「孤独も」
「みんな、最後には消えていった」
でも。
少しだけ涙ぐみながら笑う。
「愛情だけ、最後まで消えなかった」
その瞬間。
向こう側の街へ、静かな光が広がり始めた。
読んでいただきありがとうございます!
感情回収者の“始まり”と“最後まで残った感情”が明かされました。
次回、向こう側の透明都市が終わりを迎えます!




