第百四十四話 夜を越えた感情
本当に怖いのは、“傷つくこと”じゃない。
自分で選んだ人生を、自分で引き受けることなのかもしれない。
その夜。
透明都市には、冷たい雨が降っていた。
昼間の雪を、静かに溶かしていく雨。
美月は、一人で街を歩いていた。
傘を差しながら。
行き先も決めないまま。
頭の中では、いろんな言葉が何度も繰り返されている。
レンの声。
旦那の表情。
“どうしたい?”
その問いが、ずっと胸へ残っていた。
その時。
ふと、小さな公園の前で足が止まる。
夜のブランコ。
濡れた滑り台。
誰もいない。
でも。
そこには昔、自分が確かにいた気がした。
高校生だった頃。
感情を隠すのが下手だった頃。
泣いて。
笑って。
恋をして。
未来が、今よりもっと単純だと思っていた頃。
美月は、静かにベンチへ座る。
雨音だけが響く。
そして。
ゆっくり目を閉じた。
レンといる時の感情を思い出す。
胸が動く。
苦しいくらい、生きている感じがする。
でも同時に。
旦那と過ごした日々も浮かぶ。
朝ごはん。
眠そうな「おはよう」。
コンビニのプリン。
疲れて寝落ちした夜。
そういう小さな時間たち。
それも全部、本物だった。
その時。
美月は、ようやく気づく。
自分は今まで、
“どっちが本物の愛か”
を考えていた。
でも違った。
どっちも本物だったのだ。
だから苦しかった。
その瞬間。
涙が、静かに頬を流れる。
雨なのか涙なのか、もう分からなかった。
その時。
スマホが震える。
旦那からだった。
【遅いけど大丈夫?】
短いメッセージ。
責める言葉は、一つもない。
美月の胸が、静かに痛む。
続けて。
もう一件。
【風邪ひくから、帰っておいで】
その瞬間。
美月は、声を押し殺して泣いた。
優しさだった。
ちゃんと。
愛情だった。
その時。
美月は、ようやく分かった。
自分が今、本当に怖いもの。
それは。
“誰かを傷つけること”じゃない。
“自分で人生を選ぶこと”だった。
選んだ瞬間。
もう、“仕方なかった”では済まなくなる。
誰かのせいにもできない。
全部、自分の人生になる。
だから怖かった。
でも。
もう逃げたくなかった。
美月は、ゆっくり立ち上がる。
雨はまだ降っている。
でも。
その足取りは、少しだけ昨日より前を向いていた。
透明都市。
感情を閉じ込めていた街。
でも今は。
人々が、“自分の感情を、自分の人生として引き受ける”世界へ変わり始めていた。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“夜を越えた感情”を描いてみました。
感情を取り戻した人間たちは今、“誰の人生でもない、自分自身の人生”へ向き合い始めています。




