第55話:『1ミリの貸借対照表・写真判定の審判』
「……差した! 佐伯健太! しかし、内から霧島麗華も猛烈に伸び返している! 並んだ、完全に並んだ! どっちだ、どっちが先だーッ!!」
実況・古閑まきこの絶叫が枯れ果てるほどに、住之江競艇場の水面は熱狂で沸騰していた。
最終第ニマークをトップで旋回した健太の三号艇『ハヤブサ』。勝利は確定したかに見えた。しかし、最終直線で女王・麗華の二号機が、執念の「マブイ・スリップストリーム(真空地帯)」を形成。健太の背後から、物理法則を無視したような猛追を見せたのだ。
「……ゴール!!」
二台のボートが、一筋の閃光となって同時にゴールラインを駆け抜けた。
肉眼では判別不能。電光掲示板には、勝利の確定ではなく、非情にも**『写真判定』**の文字が赤く点滅し、場内に異様な緊張感をもたらした。
「……ハァ、ハァ……。佐伯さん、凄まじい決算だったわね。私の人生の帳簿に、これほど鮮烈な一行が加わるとは思わなかったわ」
ピットに戻り、ヘルメットを脱いだ麗華の顔には、大粒の汗と、持てるすべての資産を投げ打った者だけが到達できる清々しい笑みがあった。
「……霧島さん。あなたの最後の伸び……あれは、俺のシミュレーションにはない『想定外利益』でした。危うく破産(敗北)させられるところだった」
健太もまた、激しい操縦で悲鳴を上げる右腕を左手で静かに押さえながら、コクピットからスエを抱き上げた。
スエは、極限の重心移動でエネルギーを使い果たしたのか、健太の胸の中で「フゴー、フゴー」と、まるで壊れたコンプレッサーのような音を立てて鼻を鳴らしている。その小さな体温が、勝利への確信を健太に与えていた。
審判室では、ゴールラインを捉えた超高速スリットカメラの映像が、一〇〇〇分の一秒単位で解析されていた。
麗華の二号機:カウルが力強く突き出し、空気を切り裂いている。
健太の三号機:スエが「たこ焼き旋回」の余韻を残したまま、勝利への執念で前傾姿勢をとった分、機首がわずかに沈み込み、水面を捉えていた。
解析の結果、その差は――わずか三ミリ。
ボートレースの歴史において、これほど僅差の「貸借対照表」が存在しただろうか。
「……出たわ。判定が出たわよ、佐伯さん!」
古閑まきこが、震える手でマイクを握り直し、住之江の夜空にその名を響かせた。
第三章:黄金の確定申告
住之江の大型ビジョンに、静寂を破って鮮やかな数字が打ち出された。
一着:三号艇 佐伯 健太
二着:二号艇 霧島 麗華
その瞬間、スタンドを埋め尽くした数万人の観衆から、地鳴りのような「サエキ!」「パグ!」コールが巻き起こった。それは、不遇の事務職から這い上がった男と、その相棒に対する、最高級の賞賛であった。
「……決まったな、スエ。俺たちの……黒字確定だ。一円の狂いもない、完全な勝利だ」
「ワンッ!!(当たり前よ! 私たちの絆は、どんな税務署でも徴収できない非課税な資産なんだから!)」
表彰式。
カクテル光線に照らされた健太の頭上には、一億円の覇者の証である「黄金のヘルメット」が燦然と輝いていた。
そして、その隣には、麗華と紫乃が密かに特注した「黄金のパグ用ゴーグル」を装着したスエが、世界一のパグであると言わんばかりに誇らしげに胸を張っていた。
「佐伯。……次は絶対に負けないわよ。そのヘルメット、一年間かけて鏡のように磨いておきなさい。私の顔が映るくらいにね」
麗華が悔しさを気高く隠し、力強い握手を求める。
「……ええ。いつでも監査に応じますよ、霧島さん。ただし、次もきっちり利息を付けてお返しします」
数ヶ月後。
東京の片隅に、小さな、しかし清潔感のある事務所が構えられた。
看板には、**『佐伯・スエ 経営再建コンサルティング(兼・特命レーサー事務所)』**の文字が、控えめながらも確かな存在感を放っている。
「……佐伯さん、新しい依頼です。今度は平和島の闇組織が、新型モーターを密輸して不当な利益を得ている疑いがあるとか」
古閑まきこが、以前よりも活き活きとした顔で調査報告書を持ってくる。
「……フガッ(仕事よ、おじさん! 次の現場へ直行よ!)」
スエが、最高級のササミを一口で豪快に飲み込み、健太のビジネスバッグ(中身は整備用具とレーシンググローブだ)を咥えて立ち上がった。
「……よし。スエ、行くか。……水面を濁す不透明なマブイは、俺たちがすべて『強制捜査』してやる」
眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、一匹のパグを連れて夜の街へと消えていく一人の男。
彼らの戦いは、水の上でも、陸の上でも、決して終わることはない。




