不渡り無用の全速差し・栄光への滑走
第54話 不渡り無用の全速差し・栄光への滑走
二〇四一年、十一月。
「……全艇、入った! 究極のスリットライン!!」
実況席に座る古閑まきこの絶叫が、夜の住之江競艇場に木霊する!
一号艇・難波から六号艇・中島まで、そのスタートタイミングのバラつきは、わずかコンマゼロ二秒以内。深インに沈んだ難波もベテランの意地で艇を持たせ、カド位置を選択した健太も、深夜に叩き上げた新型ペラの伸びを武器に一歩も引かない!
時速八十キロを超える六台の鉄の塊が、巨大な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、宿命の第一ターンマークへと殺到する!
「逃がさへん……ここがワシの、住之江の終着駅やッ!!」
一枠・難波大吾が、深インという物理的劣勢を、鋼の筋肉と三十年のキャリアでねじ伏せた! 誰よりも早く、そして力強くハンドルを切り、先行旋回を開始する。その巨大なパワーが水面を叩き、後続を拒絶する強烈な引き波の壁を作り上げた!
「甘いわよ! その懐、私が今すぐ差し押さえるわ!」
二枠・霧島麗華が、コンマ数ミリの隙間を狙って艇を鋭くねじ込む! 女王の誇りを懸けた最速の差しが、難波の懐へと牙を剥く!
赤のカポックを纏った健太の三号艇『ハヤブサ』は、その二台の怪物が激突することによって発生した、視界を奪う「死の白波」の真っ只中にいた!
(……スエ! 論理的な計算はすべて捨てろ! 朝ペットホテルで見せたお前の『野生』の体幹を、このハンドルに、俺の全身に預けろッ!!)
健太は右腕のサポーターが弾け飛ぶほどの力でハンドルを引き絞り、左腕でスロットルを限界を超えて全開にする!
特命奥義:『不渡り無用・全速差し』!
物理法則に従えば、その速度と角度での旋回は、即座の転覆――すなわち破産を意味する。しかしその瞬間、健太は朝ペットホテルでスエが見せたあの見事な右舷への重心移動のイメージを全身で完全再現した。遠心力を強引にグリップ力へと変換し、機体を水面に無理やり縫い止める!
「……行ったッ!? 佐伯が、難波と麗華の間に生じた『死の隙間』を、一文字に割り裂いた!!」
難波の一号機が作り出した絶望的な引き波の山を、ハヤブサは「飛ぶ」のではなく、鋭利な剃刀のごとく「切り裂いて」通過した!
新型プロペラが水を完璧に掴んで離さず、体幹を効かせた執念の重心移動が、浮き上がろうとする機体を磁石のように水面へ吸い付かせる!
難波の「剛」、麗華の「速」、そして健太たちの「執念」。
三人のプロレーサーとしての圧倒的な執念と覇気が交錯し、一瞬の静寂の後に訪れた第一ターンマークの出口。
逆巻く水煙の中から最初にその姿を現したのは――。
赤のカポックを揺らし、機首を真っ直ぐに、そして力強く第二ターンマークへと向けた、三号艇・佐伯健太であった!
「……抜けた。……スエ、俺たちの、俺たちの勝ちだ!!」
(まだよ、おじさん! ゴールラインを越えて受領印をもらうまでが、私たちの仕事よッ!!)
脳裏に響く相棒のあの咆哮!
バックストレッチ、完全なる独走態勢!
背後では、難波と麗華、そして西貴斗が二番手争いで壮絶な火花を散らし、水面を激しく叩いている。
しかし、赤のカポックのハヤブサの背中はもう、誰にも触れさせない。
前方には、栄光へと続く真っ直ぐな航跡だけが伸びている。
おじさんと愛犬。
彼らが積み上げてきた「信頼」という名の無形資産が、今、住之江の夜に一億円の純利益となって結実しようとしていた。




