グランプリ二日目・総資産ターン
第51話 グランプリ二日目・総資産ターン
二〇四一年、十一月。グランプリ二日目、住之江競艇場のピット。
朝一番、手荷物検査前の指定ペットホテルで、客室の扉を開けた瞬間に弾けるように飛び出してきたスエを見て、健太は思わず笑みをこぼした。
「フガッ! フガガガッ!!」
昨夜の、今にも消え入りそうだった虚弱体質が嘘のようである。スエの毛並みは朝日に黄金色に輝き、その瞳には野性的な力が漲っていた。霧島麗華が手配してくれた「消化吸収ミルク」と、佐伯健太が不眠不休で行った看病。その二つの献身が、スエの体内に眠る勝負師としての野生の感を完全に呼び覚ましていた。
「……あら。少しは見られる顔になったじゃない、スエちゃん。……でも、水上の勝負は別よ。佐伯さん、覚悟はできているかしら?」
本番レース前の試運転へ向かう通路で、真紅のカポックに身を包んだ霧島麗華が健太を待ち構えていた。彼女の背後には、東京支部のトップを走り続ける者の矜持――冷徹な覇気と殺気が、住之江の湿った空気を物理的に凍らせるかのように立ち昇っている。
「……霧島さん。昨夜のミルクの代金は、この第十二レースの『結果』という形でお支払いさせてもらいますよ。一円の端数も出さない、完璧な清算をね」
健太は、深夜の孤独な作業で叩き上げた新型プロペラを装着した愛機『ハヤブサ』に跨った。完治した右腕の動きは驚くほど滑らかであり、脳裏には朝見たスエのあの完璧な体幹の踏ん張りが鮮烈に刻まれている。
「……レディー、ゴーッ!!」
大時計の針がゼロを刻む! 第一コースに構える麗華、そして第三コースに陣取る健太。
麗華は女王の名に相応しい、「コンマゼロ五」の弾丸スタートを放った! しかし、健太のハヤブサも新型ペラの威力を発揮し、スリットラインを越えた瞬間にグイグイと艇を伸ばしていく!
「……速い!? 深夜のペラ整備だけで、ここまで機力を上乗せしたというの!?」
麗華の驚愕を尻目に、健太は第一ターンマークで果敢な勝負に出た!
「スエッ! 今だ! 昨日の借りを……複利の利息を付けて叩き返すぞ!!」
スエがこれまでの特訓で見せた柔軟な体幹と、完全復活した筋力による完璧な重心移動。健太はそのイメージを全身で完全同期させ、左腕でハンドルをねじ込み、右腕が絶妙なレバー操作でパワーをプロペラへと伝達する!
「……これだ! 特命奥義・『総資産・ターン』!!」
ハヤブサは、逃げ切りを図る麗華の一号艇を内側から文字通り「飲み込む」ような鋭角で旋回した! 住之江の硬いコンクリートの壁際、一ミリの無駄もない最短航跡!
「……嘘でしょ!? 私の懐を、あんなスピードで……ッ!!」
バックストレッチへ出た瞬間、ハヤブサが単独先頭に躍り出る! 健太は激しい風を切り裂きながら、トップを独走する手応えに胸を熱くした。
結果は、健太が一着。二着に麗華。
昨日の「赤字」を一気に帳消しにする、鮮やかなV字回復の一着決算であった。
ピットに戻ると、麗華はヘルメットを脱ぎ、悔しそうに、しかしどこか満足げに微笑んだ。
「……負けたわ。深夜にペラを叩き続けていた執念、そしてスエちゃんのあの神がかった体幹のイメージ……。今日のあんたたちは、間違いなく住之江の主だったわよ」
「……いえ。霧島さんの猛烈な追い上げがなければ、ここまでのタイムは出せませんでした。これは、いわば共同事業が生んだ相乗効果です」
健太が右手を差し出すと、麗華はその手を強く握り返した。
だが、その光景をピットのモニターで静かに見つめる「精密な計算機」の目が光っていた。
「……面白い。佐伯健太、データの更新が必要ですね。……次は僕が、あなたのその非論理的な『パグの方程式』を、物理法則に従って解体してみせますよ」
西貴斗が、静かに自らの機体へと歩き出す。
グランプリはまだ二日目。
おじさんと愛犬の快進撃が、住之江の観衆を熱狂の渦へと巻き込んでいく。




