『零時の決算・孤独なプロペラ(羽根)の咆哮』
深夜二時。住之江競艇場のモーター整備室。
静まり返った場内に、煌々と照らされた蛍光灯が青白い光を落としている。その下で、ただ一人、黙々とプロペラを叩き続ける佐伯健太の姿があった。
昼間の「二着」という結果。それは、お腹を壊したパグを抱え、左腕一本のハンデを背負った状態での戦いとしては、世間的には賞賛されるべき数字だろう。しかし、元・特命係長であり、完璧な帳簿を求める健太にとっては、それは一円の端数も許されない計算における「完全な敗北」と同義であった。
「……ここを〇・一ミリ、内側に向けて僅かに絞る。そうすれば、水の抵抗を『逃げ』のエネルギーに変換できる。スエの重心移動がコンマ数秒遅れたとしても、機体が自律的に住之江の『うねり』をいなすはずだ……」
カツン、カツンと正確なリズムで刻まれる金属音。健太は、完治したばかりの右腕の筋肉をフルに使い、ハンマーを介して金属の羽根に自らの「執念」を叩き込んでいた。
作業台の足元では、キャリーバッグの中で丸くなるスエの姿があった。
昼間の腹痛による消耗は激しく、時折「フガッ……」と苦しげな寝言を漏らしている。だが、その鼻は本能的に健太の作業音を、そして主人の覚悟を聞き取っているようだった。
「……スエ。お前がタコに負けてくれたおかげで、ようやく重要な『欠損』に気づくことができたよ。俺は、お前の完璧な重心移動という外部資産に依存しすぎていたんだ」
健太はプロペラを電球の光にかざし、表面の微細な歪みを冷徹にチェックする。
「お前が動けない時でも、お前を背負い、お前を守りながら勝つ。それこそが、リスクを分散させた本当の『共同経営』だ……。今の俺なら、お前の不調すら利益に変える計算式を立てられる」
「……随分と、無茶なセッティングにするのね。その角度、一枚間違えれば直進安定性をすべて失うわよ。佐伯さん」
背後から響いたのは、凛とした、しかしどこか温かい温度を含んだ声。
振り向くと、そこには私服のコートを羽織った霧島麗華が立っていた。手には、場違いなコンビニのビニール袋を提げている。
「霧島さん……。こんな時間にどうして。夜更かしは美容という名の資産に悪影響を及ぼしますよ」
「うるさいわね。……あんたが深夜残業(ペラ整備)して、一人で帳簿を合わせようとしているなんて、私の計算通りよ。ほら、これ。差し入れ」
作業台に置かれたのは、温かい缶コーヒーと、スエ用の「低刺激・お腹に優しい消化吸収ミルク」であった。
「明日の第十二レース、あんたの隣のコースを走るのは私よ。……二着という『赤字』で満足しているような男を叩き潰しても、東京支部の女王としての名に傷がつくわ。さっさとその『羽根』を仕上げなさい。最高の状態で、私に監査されなさいよね」
麗華はそれだけ言い残すと、ヒールの音を響かせて整備室を去っていった。
麗華が去った後、健太は再びハンマーを握った。
その音に導かれるようにスエが目を覚まし、朦朧としながらもキャリーバッグから這い出し、健太の足元にそっと体を擦り寄せた。
「……起きたか、スエ。麗華さんからの特別配当だ。しっかり飲んで、腹の『債務不履行』を解消しておけ」
差し出されたミルクを一口、また一口と飲み干したスエの瞳に、僅かな、しかし確かな知性の光が戻る。その瞬間、健太の脳裏に、明日の優勝戦へ続く「勝利の軌道」が鮮明に浮かび上がった。
「……よし。完成だ。スエ、これがお前と俺の、これまでのすべてを覆す『最強の修正申告』だ」
磨き上げられたプロペラが、深夜の照明を反射して黄金色に輝く。それは、難波大吾の剛腕による力押しも、住之江の魔物が生み出す不規則な波も、すべてを無効化する「絶対的な正解」の輝きであった。
夜明けの光が、住之江のコンクリートの隙間から差し込み始める。
傷だらけのおじさんと、復活の狼煙を上げたパグ。
彼らの「本当のグランプリ」は、今この瞬間、確定申告(レース公示)の時を迎えた。




