魂の連結決算・腹痛のVモンキー
第48話 魂の連結決算・腹痛のVモンキー
二〇四一年、十一月。第十二レース、発走十五分前。
「水の都」大阪が誇る聖地、住之江競艇場のピット裏にて、佐伯健太は人生で最も苦渋に満ちた決算を下そうとしていた。
(……スエ。お前はペットホテルで休んでいろ。今回は、俺一人で決算に行く)
前検日の朝、指定ペットホテルの客室で横たわるスエに、健太はそっと防寒用の毛布をかけたのだった。道頓堀のタコによる消化不良は思いのほか重篤で、スエの小さな体は冬の枯れ葉のように微かに震えていた。
「住之江のコンクリートの壁は、お前が万全の状態であっても命に関わる危険な場所だ。……これは『特命係長』としての、冷徹なリスク管理(危機管理)だ。わかるな」
健太はそう言い残すと、一度も振り返ることなくペットホテルを後にした。右腕の怪我を負ったまま、左腕一本でハンドルを制御し、さらにスエのあの「精密な体幹移動」のイメージ補正なしで戦う。それは、コンクリートに囲まれた住之江の激流において、自ら「倒産」を志願するに等しい死戦になることを意味していた。
だが、健太がペットホテルを出る直前、スエが見せたあの仕草が脳裏から離れなかった。
「フガガガガガッ!!」
ぐったりしていたはずのスエが、重い毛布を跳ね除け、必死の足取りで健太のもとへ駆け寄り、健太のレーシングブーツをガブリと噛んで離さなかったのだ。その丸い瞳からは、痛みによる涙……ではなく、あらゆる論理を焼き尽くすほどの激しい執念の火花が散っていた。
(……あんた一人で、あの『なにわのインの鬼』たちに勝てると思ってんの!? 私はパグよ! 腹が痛かろうが何だろうが、あんたの背中を支えるのが私の仕事なのよ!!)
その鳴き声は、もはや一匹の犬のそれではなく、共に地獄を潜り抜けてきた一人の「パートナー」としての宣戦布告であった。
腹痛という巨大な「負債」を背負いながらも、最後に勝利という「利益」を確信する、本物の勝負師の風格。
「……ハッ。お前には、リスク管理なんて言葉は通用しないか。やはり、俺の見込み違い(ミスプライシング)だったようだな」
健太は自嘲気味に笑い、ピットでヘルメットのバイザーを力強く下ろした。
「わかった。……共に行こう、スエ。お前がそこまで言うなら、一蓮托生だ」
ピット離れ。
六一号機ハヤブサが秋の冷たい水面へと滑り出す!
スエはペットホテルで療養中。健太の右腕も完治直後の病上がり。数値上の勝率は一%にも満たない絶望的な状況。
だが、ハンドルを握る左腕と、脳裏に刻まれたスエの「踏ん張りの体幹イメージ」の同調は、かつての絶好調時を遥かに凌駕する密度で結びついていた!
「見なさい、ハク。……あれが、言葉を超えた魂の『連結決算』よ」
ピットで見守る松風みなみが、スマホのモニターを見つめながら震える拳を握りしめて呟いた。
第一マーク! 地元のドン、難波大吾による、コンクリートの壁に叩きつけるような「死の絞り」がハヤブサを襲う! 逃げ場のない住之江の壁際!
健太は左腕を岩のように固定し、スエが腹痛に耐えて見せたあの強烈な踏ん張りの感覚を、左足と腰の体幹シフトへと変換した!
「……たこ焼き旋回・改良型。……喰らえ、『腹痛のVモンキー』!!」
水面に、歪だがこれ以上なく力強い、白銀の航跡が刻まれる!
お腹を壊した相棒の不屈の意地を胸に、おじさんが住之江の神々に真正面から喧嘩を売った瞬間であった!
「……佐伯! 貴様、どこまで無茶苦茶な帳簿(走り)を見せるつもりだッ!!」
難波大吾の叫びを置き去りにして、ハヤブサは住之江の漆黒の水面を、光速で切り裂いていった!




