住之江初戦・満身創痍のど根性
第47話 住之江初戦・満身創痍のど根性
二〇四一年、十一月。
明日のグランプリ初戦という、人生最大の「連結決算」を控えた極めて重要な前夜のことである。
指定ペットホテルの客室内で、佐伯健太が住之江特有の硬い淡水に対応させるべくインペラ(プロペラ)のセッティングデータを精査していると、背後で「キュルルル……」という、精密機械の故障を思わせる不穏な異音が響いた。
「……? スエ、どうした。その資産価値が暴落したような情けない顔は」
振り返ると、そこにはいつもの猛々しい威勢を完全に喪失し、震える前足でお腹を抱えるようにして丸まるスエの姿があった。その口元には、先ほど道頓堀の雑踏で「現場監査」と称して素早くつまみ食いをした、『巨大なタコの足』の吸盤が、一切れだけ空しく付着していた。
「……お前、まさかタコを丸ごと……! あれほど『出汁の効いた生地の部分だけだ』と厳命したはずだろう!」
「フ、フゴー……」
スエの目は虚ろになり、その腹部からは絶え間なく雷鳴のような音が鳴り続けている。本来、犬にとってタコは極めて消化に悪く、特にお腹のデリケートなパグにとっては、システムを根底から破壊しかねない「禁じ手」であった。
健太は慌ててアタッシュケースから「緊急用・犬用胃腸薬」を取り出し、スエに服用させた。そのまま一晩中、寝る間も惜しんでスエの腹部を優しくマッサージし続ける羽目になった。
「……これでは明日の本番、出走すら危ういぞ。お前の絶妙な体幹の重心移動のイメージがなければ、住之江の『コンクリートの壁』を攻略する計算式は成立しないんだ」
健太の懸念は深まるばかりであった。
グランプリ初戦の朝。
健太は徹夜明けの青白い顔でペットホテルからスエを預け、住之江のピットへと現れた。管理解除後のスマホで見るスエは、昨日の「たこ焼きオーラ」が完全に霧散し、まるで天日に干された「干しブドウ」のようにしぼんでいた。
「おやおや、東京の特命係長さん。自慢のパグ、えらい『塩辛』みたいな顔して震えとるやないか。どないしたんや?」
地元の重鎮、難波大吾が下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。
「……食あたりです。大阪のタコに、文字通り『足』を掬われましたよ」
「ガハハ! それこそが住之江の洗礼や! 腹の緩い奴に、この一マークの『うねり』は乗りこなせんぞ。今日の第十二レース、置いてきぼりにしてやるわ。ソースの匂いでも嗅いで指くわえて見とき!」
難波の嘲笑がピットに響き渡る。
そこへ、スエの異変を聞きつけた麗華と松風みなみが、通信で声をかけてきた。
「ちょっと、佐伯さん! 一体どんな健康管理をしているのよ! 大事なスエちゃんにタコなんて、特命係長失格、即刻クビよ!」
麗華は呆れながらも、手慣れた指示で「福井の名水で割った犬用電解質飲料をペットホテルに届けさせる」と手配してくれた。その手捌きには、ライバル心を超えた優しさが滲んでいた。
「……佐伯さん、ハクが言っています。『タコの毒を消すには、那珂川の清流のイメージ』が必要だって……」
みなみも必死にハクと一緒にスエへの励ましの言葉を送り続ける。仲間の支援という「追加出資」により、スマホのカメラに映るスエの瞳に微かな光が戻り始めた。
本番五分前。展示航走(試運転)を終えた健太がピットでヘルメットのシールドを下ろす。
ペットホテルを離れる直前、震える足でなんとか立ち上がったスエが、健太のレーシングブーツをペロリと一度、力強く舐めたあの感触が足元に残っていた。
(……借りは……水面で一括返済してやるわ……)
あの瞳には、腹痛という名の絶望を根性でねじ伏せる、かつての特命パグとしての「矜持」が宿っていた。
「……よし。スエ。お前がそこまで踏ん張るなら、俺も左腕一本のハンデを執念でカバーしてみせる。……タコに負けて倒産したなどという伝説、ここで一気に清算してやるぞ!」
「……レディー、ゴーッ!!」
大時計の針が頂点を刻む!
お腹を壊した相棒の不屈の意地と、不屈の決意を固めたおじさん。
史上最も「腹具合の危うい」、しかし最も熱いグランプリの幕が、ついに切って落とされた!




