『決別のピット・パグの咆哮と相棒の資格』
第十二レース、発走十五分前。
「水の都」大阪が誇る聖地、住之江競艇場のピット裏にて、佐伯健太は人生で最も苦渋に満ちた決断を下そうとしていた。
「……スエ。お前はここに残れ。今回は、俺一人で決算に行く」
健太は、ぐったりと横たわるスエを専用の低反発クッションに横たえ、そっと防寒用の毛布をかけた。道頓堀のタコによる消化不良は思いのほか重篤で、スエの小さな体は冬の枯れ葉のように微かに震えている。
「住之江のコンクリートの壁は、お前が万全の状態であっても命に関わる危険な場所だ。腹を壊し、意識が朦朧とした状態で乗せるわけにはいかない。……これは『特命係長』としての、冷徹なリスク管理(危機管理)だ。わかるな」
健太はそう言い残すと、一度も振り返ることなく、整備の完了した愛機ハヤブサへと向かった。右腕の怪我を負ったまま、左腕一本でハンドルを制御し、さらにスエの「精密な重心移動」という補助輪なしで戦う。それは、コンクリートに囲まれた住之江の激流において、自ら「倒産」を志願するに等しい死戦になることを意味していた。
だが、健太がハヤブサの六一号機に火を入れ、凄まじい排気音がピットに響き渡ろうとした、その時であった。
「フガガガガガッ!!(待てッ! 誰がリタイアを承認したと言ったんだッ!!)」
ピットの喧騒を突き抜ける、魂を削り出すような咆哮。
健太が驚愕して振り返ると、そこにはフラフラのはずのスエが、重い毛布を跳ね除け、必死の足取りで健太のもとへ駆け寄ってくる姿があった。
「スエ……来いと言ったはずだ。お前の腹壁はもう限界だろう。今すぐクッションに戻れ」
スエは健太のレーシングブーツをガブリと噛み、執念深く離さなかった。その丸い瞳からは、痛みによる涙……ではなく、あらゆる論理を焼き尽くすほどの激しい執念の火花が散っている。
(……フガッ! フガフガッ!!(あんた一人で、あの『なにわのインの鬼』たちに勝てると思ってんの!? 私はパグよ! 吐いても下しても、あんたの足元こそが私の定位置なのよ!!))
その鳴き声は、もはや一匹の犬のそれではなく、共に地獄を潜り抜けてきた一人の「パートナー」としての宣戦布告であった。
スエは震える足で、ハヤブサの狭いコクピットへと飛び乗った。そして、健太の足の間にある、あの一ミリの狂いも許されない「黄金の重心位置」へと、気力だけで身を沈めた。
一点を見据えて低く唸るその姿には、腹痛という巨大な「負債」を背負いながらも、最後に勝利という「利益」を確信する、本物の勝負師の風格が漂っていた。
「……ハッ。お前には、リスク管理なんて言葉は通用しないか。やはり、俺の見込み違い(ミスプライシング)だったようだな」
健太は自嘲気味に笑い、ヘルメットのバイザーを力強く下ろした。
「わかった。……共に行こう、スエ。お前がそこまで言うなら、一蓮托生だ。……ただし、俺の勝負服の中で不測の事態(粗相)だけは起こすなよ。それは清掃費としての『追加予算』が出ないからな」
「フガッ!(任せなさいッ! 根性で止めてみせるわッ!)」
ピット離れ。
ハヤブサが秋の冷たい水面へと滑り出す。
スエの体調は最悪。健太の右腕も完治直後の病上がり。数値上の勝率は、1%にも満たない絶望的な状況。
だが、ハンドルを握る左腕と、足元のスエの「同調」は、かつての絶好調時を遥かに凌駕する密度で結びついていた。
「見なさい、ハク。……あれが、言葉を超えた魂の『連結決算』よ」
ピットで見守る松風みなみが、震える拳を握りしめながら呟いた。
第一マーク。地元のドン、難波大吾による、コンクリートの壁に叩きつけるような「死の絞り」がハヤブサを襲う。逃げ場のない住之江の壁際。健太は左腕を岩のように固定し、スエは腹を裂くような痛みを、凄まじい「気合」を介して横方向の重心移動へと変換した。
「……たこ焼き旋回・改良型。……喰らえ、『腹痛のVモンキー』!!」
水面に、歪だがこれ以上なく力強い、白銀の航跡が刻まれる。
お腹を壊したパグが、自らの限界を突破し、住之江の神々に真正面から喧嘩を売った瞬間であった。
「……佐伯、そしてパグ! 貴様ら、どこまで無茶苦茶な帳簿(走り)を見せるつもりだッ!!」
難波大吾の叫びを置き去りにして、ハヤブサは住之江の闇を、光速で切り裂いていった。




