『浪速の洗礼・たこ焼きの魔力と黄金の鼻
新大阪駅のホームに降り立った瞬間、佐伯健太を襲ったのは、晩秋の冷気ではなく——暴力的なまでの「ソースと出汁の芳香」であった。
「フガッ……!? フガガガッ!!(何だ、この魂を揺さぶる未知のエネルギーはッ!?)」
キャリーバッグの中で、スエがかつてないほどの猛烈な反応を示している。鼻先を小刻みに震わせ、まるで高感度のマブイ・レーダーが超高出力の動力源を検知したかのように、特定の方角を執拗に指し示していた。
「……落ち着け、スエ。それは『たこ焼き』だ。大阪のソウルフード……いわば、この浪速経済を末端で支える最小単位の流動資産だぞ。そんなに鼻を鳴らすな、連結決算(同期)が乱れる」
住之江の選手宿舎に入るまで、残された僅かな自由時間。健太はスエの無言の、しかし抗いがたい圧力に負け、道頓堀の喧騒の中へと足を運んだ。巨大なカニの看板や飛び出す龍のオブジェがひしめく中、一際香ばしい煙を上げる有名店の前に辿り着く。
「はい、お待たせ! 焼き立てアツアツ、浪速の宝やで!」
威勢の良い店主が差し出したのは、外側はカリリと黄金色に輝き、内側には至高の出汁を湛えたトロトロのたこ焼き。スエの大きな瞳が、そのたこ焼きと全く同じ、完璧な球形に丸まった。
「……いいか、スエ。お前は犬だ。ネギやタコ、紅生姜は厳禁だ。だが……この、秘伝の出汁が存分に染み込んだ『純粋な生地』の部分を、特別に一欠片だけ、リハビリ完了の報酬として計上してやろう」
健太が念入りにフーフーと冷まし、慎重に一口分を差し出すと、スエはそれを「ハフハフ」と器用に、そして神聖な儀式のように受け止めた。その刹那——。
「……ッ!? フゴーォォォォンッ!!」
スエの体から、目に見えるほどの黄金色のオーラが噴出した。
大阪の粉もん文化が内包する「八百八橋の活気」が、スエの体内のコアマブイと予期せぬ化学反応を起こしたのだ。耳をアンテナのようにピンと立て、尻尾をドリルのように超高速回転させるスエ。その姿は、まるで不純物を一切排したオクタン価一〇〇のレーシング燃料を直接注入された、超高性能エンジンのようであった。
「たこ焼き覚醒」を遂げたスエを連れ、住之江競艇場のピットに足を踏み入れると、そこには地元の重鎮たちが、新参者の「特命係長」を品定めするかのように待ち構えていた。
「おいおい、東京のインテリさんよ。……連れてきたそのパグ、えらいギラついた目をしてるやないか。何や、ピットに入る前に虎の肉でも食わせてきたんか?」
大阪支部の重鎮であり、住之江を「庭」と呼ぶ難波大吾が、野太い声で笑い飛ばす。
「……いえ、たこ焼きです。どうやら、この街の固有マブイが、彼……いえ、彼女の仕様に合致したようで」
「ハッ! たこ焼きの魔力に当てられたパグか。……面白い。だがな、住之江の水面はたこ焼きみたいに甘ないぞ。コンクリートの壁に囲まれたこの地獄、粉々になってソースまみれにならんよう、精々気ぃつけや」
難波の鋭い視線が健太を射抜く。住之江は「淡水」だ。海水に比べて浮力が小さく、プロペラの回転効率が勝敗を分ける。一瞬の油断が、即座に「債務超過(転覆)」へと直結する難所である。
夕闇が迫る住之江の練習走行。健太が新生・ハヤブサに跨り、滑るようにピットを離れる。
スエはいつもの定位置、健太の足の間で、まだ口内に残る「出汁の余韻」を噛み締めるように鼻を鳴らした。
(フガッ……あの丸い弾力……外は剛く、内は柔く……あの高速回転のイメージ、完全に連結できたわ!)
第一マーク。時速八〇キロの猛速で旋回点に突入する。
健太がハンドルを切り込み、スロットルを微調整するその一瞬、スエが「たこ焼きのピック捌き」を彷彿とさせる絶妙なタイミングで、右後方から左前方へと、流れるような重心移動を敢行した。
それは、鉄板の上でたこ焼きが鮮やかに「くるり」と反転するような、滑らかで無駄のない、しかし圧倒的な遠心力を内包した回転であった。
「……!? なんだ、今の旋回は。ハヤブサが……吸い付くように、水面を丸く切り取ったぞ」
健太は操縦桿から伝わる異次元の安定感に驚愕した。スエが「たこ焼きの物理構造」を本能で理解したことで、ハヤブサの旋回半径は理論上の限界を超え、コンマ数秒の短縮に成功していたのだ。
「……まさか、浪速のソウルフードが、グランプリ制覇の鍵になるとはな。これこそが、大阪独自の隠し資産か」
住之江の夜空に、微かなソースの香りと、六一号機が奏でる高周波の爆音が交錯する。
傷だらけの「おじさん」と、粉もんの真理を悟った「パグ」。
史上最も香ばしく、そして最も熱いグランプリの「最終監査」が、今、浪速の激流の中で幕を開ける。




