完結・逆転の決算報告書
第43話 完結・逆転の決算報告書
二〇四一年、八月。
東雲グループという巨大な楼閣が崩壊する音は、平和島競艇場に鳴り響くG3レースのチェッカーフラッグの音と共に、現実のものとなった。
ピットへと帰還した佐伯健太は、ヘルメットを脱ぐよりも先に、古閑まきこから差し出されたスマートフォンへと視線を落とした。画面の向こう側では、大手町にある東雲本社ビルの象徴であった金色の看板が、怒れる債権者たちの手によって無残に引き剥がされていく光景が、ライブ中継で映し出されていた。
「……佐伯さん、やりました。あなたが『片手走法』で水上の死闘を演じ、敵の目を釘付けにしている間に、特捜部が裏帳簿の保管場所を完全に特定し、すべてを押さえました」
古閑の声は歓喜と安堵で激しく震えていた。
退走手続きと手荷物管理解除を終えた健太は、受付で引き取ったスエの温かい体を左手一本で抱き上げると、ピット裏の警備エリア付近で、混乱に乗じて逃亡を図ろうとしていた東雲グループの常務が、警官隊に包囲されているのを見据えた。
「待てッ! 離せ! 貴様ら、私が誰だと思っている! 東雲の役員だぞ! こんな無礼が許されると――」
往時のみっともない権勢を振りかざし、喚き散らす常務の前に、健太は静かに、しかし峻烈な壁となって立ちはだかった。
「常務。無駄な足掻きはやめなさい。……あなたの人生における『連結損益計算書』、隅々まで拝見させていただきました」
健太は血の滲んだ左手で胸ポケットから取り出した眼鏡を掛け直し、かつての特命係長としての冷徹な、そして有無を言わせぬ眼差しを向けた。
「架空利益の計上、巨額の横領、そして福岡での組織的な殺人未遂……。……これまでに積み上げてきた『負債』の総額は、もはやあなたの命一つを差し出したところで、到底返済しきれるものではありませんよ。自己破産どころか、魂のデフォルト(債務不履行)です」
「……お、お前……佐伯ッ! 貴様さえ、貴様さえ現れなければッ!!」
逆上した常務が理性を失って飛びかかろうとしたが、前検日に見たスエのあの鋭い眼光を宿した健太の冷徹な殺気に圧倒され、足を縺れさせてピット脇の薄汚れた水たまりへと無様に転倒した。泥にまみれたその姿は、剥ぎ取られた看板同様、もはや権力者の面影など微塵もなかった。常務はその場で、殺人未遂及び証拠隠滅の容疑で逮捕された。
数時間後。東雲グループの倒産と主要役員の逮捕が全国に速報として流れ、長年競艇界の深層に根を張っていた闇の勢力は、一朝にして一掃された。平和島の水面は、激しい嵐が去った後のように凪いでおり、燃えるような夕焼けを鏡のように映し出していた。
「……終わったわね。佐伯さん」
背後から落ち着いた声をかけたのは、霧島麗華であった。彼女の隣には、福岡から急遽駆けつけた松風みなみと、白いペキニーズのハクの姿もある。
「東雲の隠し資産はすべて当局によって凍結され、不当な事故や工作で被害を受けたレーサーたちへの補償基金に充てられることが決定したわ。……これで、ようやく不純物の混じらない、純粋な『レース』ができるようになる。……本当に、お疲れ様」
みなみはハクを愛おしそうに抱きしめながら、健太に向かって深々と、感謝の念を込めて頭を下げた。
「佐伯さん、本当に、ありがとうございました。……私の十四号機も、あなたのハヤブサも、これで本当の自由を手に入れ、空高く羽ばたけるようになりました」
健太は、戦い抜いた自分の左手と、いまだ重いギプスに包まれている右腕を交互に見つめた。会社組織としての東雲グループは地上から消滅したが、彼がこの命懸けの監査で手にした「信頼」という名の無形資産は、いかなる企業の時価総額をも凌駕する価値を持っていた。
「……スエ。お前という最高のパートナーがいたおかげで、人生最大の難解な決算を、完璧にクローズすることができたよ」
「フゴッ、フゴッ♪」
スエは満足げに胸の中で鼻を鳴らすと、健太の頬をこれでもかとばかりに温かく舐め上げた。その愛らしい姿に、周囲から自然と温かい笑い声が漏れた。
「……さて。この右腕の減価償却が終わり、現役復帰が認められたら、今度は正々堂々と水上で勝負だ。霧島さん、西くん、そして中島さん……。借りはレースで返させてもらう」
健太の宣言に、麗華が女王らしい不敵な、それでいてどこか柔らかな微笑を浮かべた。
「ええ、待っているわ。……次は、片手というハンデを負ったあなたではなく、あなたの『全力』を、この私が直接、厳しく監査してあげるから。覚悟しておきなさい」
東京の空に、一番星が輝き始める。
佐伯健太。三十六歳。右腕骨折、元経理のサラリーマン(元・特命係長)、そして現役ボートレーサー。
彼と一匹のパグが綴る「逆転の帳簿」は、この平和島の夜明けと共に、真の意味での黄金期を迎えることとなる。




