経理部の夜は、教習所の夜より深い
経理部の夜は、教習所の夜より深い
「……おい、おっさん。いつまで起きてんだよ。消灯時間は過ぎてんだろ」
相部屋の若手、カイがベッドから顔を出して毒づいた。
大宮機艇教習所・関東校の寮。6畳一間に2段ベッドが並ぶ。
卓上ライトの明かりの下、健太は眼鏡をかけ、無言でノートにペンを走らせていた。
「明日も5時起きなんだぞ。マブイ3000の老体にはキツいだろ」
「気にするな。……あと一期分(四半期分)で終わる」
「はあ? 何の話だよ」
健太が広げているのは、自作の「江戸川・潮位変動予測表」と、今日の訓練のログ。
そして、なぜか経理職時代の癖で、寮の食費計算と栄養バランスの集計表だった。
「お前、今日の夕食の『アジフライ』。……あれ、衣が厚すぎたとは思わなかったか?」
「……はあ? 知るかよ。腹に入れば同じだろ」
健太は眼鏡を指で押し上げ、カイを冷徹な眼差しで射抜いた。その目は「経理部長に不正を指摘された時の上司」よりも鋭い。
「違う。衣の油分過多は、明朝の集中力を0.5%削る。さらに今日の江戸川のうねりは周期が不規則だった。お前のターン、第2マークで外に膨らんだのは、波のせいじゃない。……昼飯に食った大盛りカレーによる『内臓の揺れ』が、スロットルの0.1ミリを狂わせたんだ」
「……っ、何言ってんだよ! 妄想だろ!」
カイが反論しようとしたその時、廊下からドスドスと重い足音が響いた。
扉が開き、石原校長と、愛犬の『鉄』が姿を現す。
「夜更かしして何をしてるかと思えば……ほう、健太。それはお前が計算したのか?」
石原が健太のノートを覗き込む。そこには、明日、大潮と河川流入が重なった際の「最適進入角度」が、精密な数値で書き込まれていた。
「……石原校長。こいつ、バカなんです。飯の油がどうとか、わけわかんないことを」
「バカはお前だ、カイ」
石原が鉄のリードを短く持った。「このおっさんは、自分の体の『燃費』と『重心』まで、円単位で管理してやがる。……いいか。競艇は『からくり』の勝負だが、それを操るのは『肉体』という名の精密機械だ」
健太は黙ってノートを閉じ、眼鏡を外した。
その瞬間、空気が変わった。
先ほどまでの「説教臭いおじさん」の顔から、かつて湾岸で数千人を束ねた「雷神」の威圧感が溢れ出す。
「カイ。……明日の第1レース。第1マーク、俺は内を空けてやる。入れるもんなら入ってみろ」
「……あ?」
「ただし、お前の『計算』が合っていればの話だがな」
健太はそれだけ言うと、あっさりと毛布を被って寝息を立て始めた。
残されたカイは、冷や汗を拭いながら健太のノートを盗み見ようとしたが――そこに書かれていたのは、素人には解読不能な「数字の羅列」と、異常なまでに精密な「ボートの展開図」だった。
翌朝。
宣言通り、健太は朝食の油物を一切抜き、誰よりも早く水面に向かった。
その背中は、昨日までのような猫背ではない。
アイロンの効いた白シャツ(自前で持ち込んだ)を羽織り、戦場へ向かう男の背中だった。




