『人生の決算・ハヤブサは夜明けに舞う』
2041年5月、平和島。優勝戦。
場内は異様な熱気に包まれていた。ネットニュースは「脱サラ・ルーキーの奇跡」を報じ、観客席には、半信半疑で見守る元同僚の佐藤や、かつて湾岸を共に走った「雷神会」の男たちの姿もあった。
「……スエ、待ってろ。今日で全部、ケリをつけてくる」
健太はスマホの待ち受け画面に映るパグ、スエの丸い顔を一度だけ見つめ、画面を消した。
連日の激走で、健太のコアマブイは枯渇寸前。視界の隅にノイズが走る。
愛機・61号機もまた、悲鳴を上げていた。シリンダーには過負荷による亀裂が走り、出力の安定性は絶望的だ。
「……佐伯さん。……いや、佐伯。……アンタを認めないと言ったが、前言撤回だ」
ピットで隣り合った西貴斗が、銀縁眼鏡を外して健太を見た。その瞳に、もはや高慢さはない。あるのは、一人のレーサーとしての「飢え」だ。
「僕の血統と、君の魂。……どちらが平和島に相応しいか、白黒つけよう」
「……ああ。……最高の決算書にしよう、西くん」
レース:命を削るスロットル
「……スタート!!」
大時計の針が頂点を刻んだ瞬間、6隻のからくり機艇が平和島の運河を爆ぜさせた。
1コース、西。2コース、麗華。3コース、白石。4コース、黒澤。5コース、火野。
そして、6コースに佐伯健太。
健太の弱点は、圧倒的な「量」の不足。
1マーク、2マークと回るたびに、健太のコアマブイは赤色灯を灯し、意識が遠のいていく。
「……っ、まだだ。……まだ、指先は生きてる……!」
ハヤブサの特性を熟知した健太は、0.1mm単位の「流量制御」で、死にかけのエンジンから極限の推進力を絞り出す。
西の圧倒的なパワー。麗華の完璧なライン。それらを、健太は「かつてのバイクのスロットル感覚」だけで紙一重で回避し、バックストレッチで食らいつく。
3周目、最終ターンマーク。
先頭を争うのは、西と、死に物狂いで追い上げた健太。
「これで、終わりだぁぁ!!」
西が全マブイを解放し、暴力的なまでの旋回を見せる。
一方、健太のマブイ計は「0」を示した。
ハヤブサのエンジンが停止しかける。
(……いや、まだだ。……魂の底に、最後の『予備費』が残ってるはずだ……!)
健太は、ヘルメットの中で吠えた。
「サラリーマンを、なめるなよ……ッ!!」
健太は、もはや制御不能となったハヤブサの機体を、自身の「体重移動」と「気合」だけで無理やり水面にねじ伏せた。
波を殺すのではない。波の一部となり、重力を無視した**「超精密・ハヤブサ旋回(隼返し)」**。
一瞬の静寂。
そして、平和島を切り裂くような金属音とともに、ハヤブサが西の内側をコンマ数ミリの差で突き抜けた。
結末:夕暮れの帰還
判定の結果――1着、6号艇、佐伯健太。
平和島に、かつてないどよめきと大歓声が巻き起こる。
36歳の新人が、デビュー節で初優勝という、あり得ない「決算」を成し遂げた瞬間だった。
ピットへ戻る途中、健太はエンジンの止まったハヤブサの上で、静かに空を見上げた。
やり切った。
経理マンの「佐伯さん」でも、総長の「健太」でもない、一人のレーサーとして。
宿舎に戻り、真っ先に電話をしたのは、愛犬スエを預けているペットホテルだった。
「……ああ、俺だ。……勝ったよ、スエ。……明日、特上のササミを買って帰るからな」
受話器の向こうで、スエが「フゴフゴ」と嬉しそうに鼻を鳴らす音が聞こえた。
健太は、泥と汗にまみれた顔で、今日一番の穏やかな笑顔を見せた。




