平和島の刺客
2041年5月、平和島競艇場。
東京支部所属、佐伯健太のデビュー節。その初日・第12レース。
「東のメッカ」と呼ばれるこの水面は、周囲のビル群から吹き下ろす「ビル風」が不規則に渦巻き、海水特有の重い飛沫が顔を打つ。
ピット離れ。61号機『ハヤブサ』が静かに水面へ滑り出す。
1コースには、圧倒的なマブイ量を誇る西貴斗。最新鋭の白い艇が、王者の風格でどっしりと居座る。
対する健太は、新人らしく大外6コース。緑のカポックを纏い、地味な黒縁眼鏡を外してヘルメットを被った。
(……風速4メートル、北北西。潮は満潮へ向かう。1マークの振り幅は37メートル。……計算通りだ)
健太はヘルメットの中で、経理部の決算期のような集中力で思考を走らせた。
1コースの西は、圧倒的なパワーで「逃げ」を図るだろう。だが、ここ平和島の1マークは狭い。パワーがありすぎれば、ターンの出口で必ず艇が外へ流れる。
「平民の走りを見学させてもらうよ、佐伯さん」
通信機から西の余裕たっぷりの声が聞こえる。健太は答えず、スロットルに添えた指先を0.1ミリ動かした。
スタート:0.05秒の攻防
「……行け、ハヤブサ!」
大時計の針が頂点を回る。
全艇、正常なスタート。西の1号艇がトップスタートを切り、圧倒的な加速で1マークへ突っ込む。
だが、健太の6号艇も遅れてはいない。外から被せるのではなく、あえて一歩引いた位置から、最短の「差し」の角度を狙う。
1マーク。西が旋回に入る。
合計32,000のマブイ出力。強引にパワーで水をねじ伏せようとするが、平和島特有のビル風が西の艇の底を掬い、狭いコーナーで遠心力が牙を剥く。
「……くっ、外に流れる……!?」
西の叫び。パワーが仇となり、1号艇の懐に広大な「空き地」が生まれた。
「……予算超過だ、西くん」
健太が呟く。
ハヤブサの側面に描かれた鳥の模様が、水面スレスレで跳ねた。
健太はマブイの流量を極限まで絞り、ボートの挙動を完全に制御。荒波の谷間に、吸い込まれるように潜り込む。
「サラリーマンを、なめるなよ……ッ!!」
決着:平和島の魔法
最内を突く「6コースからの差し」。
平和島特有の右斜めに広がるバックストレッチ。安全策として斜行が禁じられているこのゾーンで、健太のハヤブサは誰にも邪魔されることなく、直線で西の艇を捉えた。
「な、何っ……!? なぜ3,000のマブイで、俺の加速に付いてこれる!」
西が驚愕する。
「……加速じゃない。お前が勝手に『赤字』を出しただけだ」
健太の精密スロットルは、ビル風の抵抗を計算に入れ、最も効率的なベクトルで艇を前進させていた。
2マーク。
焦った西が強引に内へ切り込むが、健太は既にその先を読んでいた。
波を殺し、最短距離を回る。
ゴールラインを駆け抜けたのは、大外からすべてを飲み込んだ6号艇、佐伯健太だった。
レース後:静まり返るピット
場内の電光掲示板に**「6-1-2」**の数字が並び、平和島の観客席がどよめきに包まれる。
万舟券。デビュー戦にして、史上最年長のルーキーが特大の配当を叩き出した。
ピットに戻った健太を、東京支部の面々が迎える。
「……信じられない。私の計算では、あなたの勝率は0.4%だったはずよ」
霧島麗華が、震える手で将棋の駒のように健太を凝視する。
西貴斗は、艇から降りることもできず、ただ自分の手を見つめていた。
「血統が……この僕が、平民の差しに屈した……?」
そんな若者たちを尻目に、健太はヘルメットを脱ぎ、再び黒縁眼鏡をかけた。
夕方の青髭が少し浮いた、どこにでもいる「疲れたおじさん」の顔に戻って。
「……お疲れ様。……さて、明日の出走表の精算に行かないとな」
その背中を、黒澤剛が愉快そうに叩いた。
「ガハハ! やりやがったな、雷神! 江戸川の泥の味が、平和島でも効いたか!」
東京支部の新しい「日常」が、この日から確実に狂い始めた。




