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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
サラリーマン編

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錆びついた咆哮

2040年、神奈川県横浜市。

佐伯健太(さえきけんた)、35歳。

今日も21時を回って会社を出る。残業続きの経理部。

鞄の中には、いつものコンビニ弁当と、休日に弄っている古いからくり艇の部品が入っている。

ある日、会社の後輩の佐藤が言った。

『佐伯さん、昔バイクやってたんですよね? 今度江戸川競艇場であるからくり競艇のイベントに行ってみませんか?』

冗談だと思った。何でいかねばならんのか。暴走族のヘッドであることは誰にも言っていない。健太は確かにバイクを触るのが好きだった。

「……競艇? 興味ないな。ギャンブルは身を滅ぼすぞ」

健太は無表情を貫き、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。その後輩――佐藤が「またまたー」とヘラヘラ笑いながら去っていくのを横目に、駅のホームへと急ぐ。

カバンの中で、金属同士がぶつかる硬質な音が響いた。

かつて伝説と呼ばれたチームのトップが、今は領収書の束を捌き、古いボートの部品を愛でるだけの毎日。

(江戸川、か……)

荒川の流れに逆らって走る、屈指の難コース。

帰宅途中の満員電車、窓に映る自分の顔はひどく疲れ果てている。だが、指先にはまだあの感覚が残っていた。スロットルを捻り、暴力的なまでの加速に身を委ねる、あの熱狂が。

帰宅し、コンビニ弁当をレンジに入れている間、健太はカバンから「それ」を取り出した。

『三気筒・水冷式からくり点火プラグ』

今のレギュレーションでは時代遅れとされる骨董品だ。しかし、このプラグでしか出せない「火花」がある。

「……ふん、ただの確認だ」

健太は工具箱を取り出し、慣れた手つきでプラグを磨き始めた。

電子レンジの加熱終了を告げる音が、まるでレース開始のブザーのように聞こえた。

健太の瞳の奥で、20年前に消したはずのガソリンの火が、小さく爆ぜる。

「……一回、見に行くだけだ。見るだけなら、バレやしない」

弁当の蓋を開けることも忘れ、健太はスマホで江戸川競艇場の天候と、出走表を検索し始めていた。

「いいから一回乗ってくださいって! 佐伯さん、バイク乗りの勘があればいけるっしょ!」

後輩の佐藤に半ば強引に背中を押され、健太はイベント用の旧式艇の前に立っていた。

周囲には、休日にボートレースを楽しむ家族連れや、物珍しそうに眺める若者たち。

今の健太は、どこにでもいる「くたびれた中年」だ。誰も彼がかつて湾岸を震え上がらせた「雷神」だとは思いもしない。

(……やめときゃよかったな)

苦笑しながら、健太は貸し出されたヘルメットを被る。

眼鏡を外し、カバンに仕舞う。視界が少しぼやけるが、代わりに**「風」**の感触が鋭くなった。

レーシングスーツに着替える暇もなく、地味なネクタイを緩めてコクピットに腰を下ろす。

「いいっすか佐伯さん、エンジン始動は右手の――」

「わかってる。……静かにしてろ」

佐藤が言葉を失った。

健太の声が、先ほどまでの「経理部の佐伯さん」のそれではない。低く、地を這うような重圧プレッシャー

健太がスターターを引いた瞬間、眠っていた旧式エンジンが咆哮を上げた。

経年劣化でバラつきのある出力。だが、健太の指先がスロットルに触れた瞬間、バラバラだった振動が一つに収束していく。

(……この感覚。0.1ミリ、いや、さらにその先か)

暴走族時代、死線の中で磨き上げた右手の感覚が、十数年の時を超えて蘇る。

健太はスロットルを僅かに、本当に僅かに――まるで一円単位の伝票を合わせるように――微調整した。

出走だしだ」

バチンッ、と空気の弾ける音がした。

次の瞬間、ボートは水面を滑る矢となった。

加速のGが、緩んでいた健太の腹筋を貫く。だが、彼は怯まない。むしろ、広すぎる肩幅を丸め、最も空気抵抗の少ない姿勢を無意識に取っていた。

「な、なんだあの加速……!? 調整ミスか!?」

運営のスタッフが叫ぶ。

第一ターンマーク。江戸川の荒い波が牙を剥く。

並の初心者ならここで転覆を恐れて減速する。だが、健太の瞳には、波の「目」が見えていた。

(マブイ全開……じゃない。ここで三割カット、出口で一気に『全額投入』だ)

経理マンとして培った「リソース管理」の思考が、レースの最適解を弾き出す。

ボートが水面から浮き上がり、空中を舞うような超高速の旋回。

飛沫がスーツを濡らし、隠された腕の刺青が僅かに覗く。

「……ッシャア!」

ターンを終え、直線に差し掛かった瞬間。

健太は誰に聞かせるでもなく、ヘルメットの中で吠えた。

「サラリーマンを、なめるなよ……!」

ゴール板を駆け抜けたとき、江戸川の観客席は静まり返っていた。

ただの体験イベントで、プロ顔負けの――いや、プロでも不可能な「精密すぎる旋回」を見せつけられたからだ。

ボートを降り、ヘルメットを脱いだ健太の顔には、夕方の青髭と、そしてかつての「伝説の総長」の鋭い眼光が宿っていた。

「……悪くないな。からくりってのも」

この日、35歳の経理マンの運命は、180度転換した。

「大宮機艇教習所」への願書。それを書く自分の手が、まだ熱く震えているのを、健太は自覚していた。

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― 新着の感想 ―
競艇はまだ勉強中で競馬の浅瀬でピヨピヨしてるのですが、初手から迫力がヤバい!
なんかめっちゃ面白い第一話でした! ひとつ疑問があって、私は競艇はモンキーターンという漫画しか知らず、バイクはほぼわかっていないのですが、バイクに乗っていた人なら、モーターボートをすぐに運転できるもの…
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