ふわふわの根無し草
旅行に行った日の夜、人は二つのタイプに別れる。
一つはお布団入ってすやすやぐっすり朝まで眠れるタイプ。
このタイプは大抵枕が変わったり、ベッドが柔らか過ぎたり、布団がぺらっぺらの煎餅布団であろうとも、わりとしっかりと眠れる。
もう一つのタイプは、旅行先だとあまり眠れないタイプ。
枕が変わったらダメ、柔らか過ぎるベッドも煎餅布団も苦手で、朝までぐっすり眠れない。
そもそも自分の家でないと眠りが浅くなるのだ。寝具が良かったところでどうしようもない。
栗原は後者のタイプだった。良い部屋を割り当てられているだけあって、布団も煎餅布団などではなく家のものよりもずっと質の良い布団だが、全然寝付けない。
腕時計を見る。針は丁度深夜一時を指していた。
寝返りを打って横向きになり、隣の布団で眠っている不動を見る。
掛け布団を蹴っ飛ばして、すやすやぐっすり眠っていた。
(寝相わっる)
布団はもう五回も蹴っ飛ばされていた。風邪をひいてはいけないと何度も戻したけれど、少ししたらまた蹴っ飛ばされてしまう。
部屋はエアコンがしっかりと効いているため、随分と涼しい。涼しいどころか少し寒いくらいだ。
だから何度も何度も蹴飛ばされる掛け布団を元に戻してやっていたけれど、こうも蹴っ飛ばされ続けていたら放置しててもいいかなと思いはじめた。
ただそれだと風邪をひいてしまう。少し悩んで、エアコンの温度を上げればいいやと体を起こそうとした。
「……」
起こそうとしたけれど、体は意思に反して全く動かない。指先ですらぴくりとも動かせなかった。なのに顔だけは動く。
ど定番過ぎる金縛りだった。
どっと、冷や汗が噴き出る。
この温泉宿に来て温泉に入った時、不動が言っていた「山の奴」という言葉が蘇った。
山の奴。この場合人や動物の幽霊とかではなく、妖怪的な何かを指している。
幽霊なんてものよりもずっと厄介で恐ろしいものだ。
鼓動が早鐘を打つ。
カラカラに乾いて張り付いた喉を動かしどうにか声を上げようとしたが、体の時と同じように意思に反して全く声を出せない。うめき声すら出せなかった。
その時、ズルズル……ズルズル……と。背後で何かを引き摺るような音がした。
気配がする。
間違いなく今、この部屋にナニカがいる。
「っ、……!」
生ぬるくて、ぬるりとしたものが頭に触れた。
頭から徐々に下へと降りていって、また頭の方まで戻ってくる。
何かを確かめるように、何度も何度も上から下へ。下から上へ。生ぬるくて、ぬるりとしたそれが動く。
その動きに何故かは分からないが、悍ましい程の欲を感じ取って吐き気がした。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!)
酸っぱいものが喉の奥から迫り上がってくる。
体を這うものの感触が、感じ取ってしまった欲が、姿の見えない得体の知れないナニカが、いっそ死んでしまいたくなる程に恐ろしく、悍ましく、気持ち悪い。
今ここで、舌を噛み切って死んでしまえば楽になるだろうか。
嗚呼、動かない、動けないこの体が今酷く厭わしい。疎ましい。
こんなもの捨ててしまいたい。捨てて、自由になりたい。楽になりたい。解放されたい。
だってこんなにもこんなにも恐ろしくて、悍ましくて、気持ち悪いのだ。気持ち悪くて仕方がないのだ。
捨ててしまいたい。捨ててしまえ。そう、そう!
捨ててしまいなさい。それでいいや。楽になりなさい。それでいいの? 自由になりなさい。なれるかな。解放してあげる。ほんとうに?
同じになって。同じになろう。同じになったら、一緒になれるから。同じにって、何に?
一緒になれたら、ずっとずっと仲良く暮らしましょう。ずっとずっと睦み合いましょう。
そうだ、それがいい。きっとそれが正しい。
動かなかった体が動く。
ゆっくりと両手で首を掴み、徐々に力を入れていく。
呼吸が苦しいもう少しよいやだこれでいいの死にたくないさあおいでなさいな死にたくないはやくはやくやめてねえはやくしていやだ怖いのが起きるしにたくないはやくねえはやくはやくしにたくないはやくはやくはやくはやくたすけてほらはやくっ!!
「見逃してあげたんだから、大人しく逃げたらよかったのに。顔が良いからやっぱ欲しいとか、番えないのに馬鹿だねえお前。あ、脳が無いからそもそも考えられないのか」
この世の終わりを目にしたような、凄まじい絶叫が頭の中で響いた。
*
最悪だった。鏡に映る自分の姿に溜息をこぼす。
首にはくっきりと残る手の跡。昨晩、昨日の昼間に温泉にいたらしいものに取り憑かれて自分を自分で締め殺そうとしたのだ。
「番えないのに顔が良いから欲しくなったみたいだよー。馬鹿だよねぇ」朝一番、ものすごく軽い調子でケラケラ笑う不動の顔を一瞬殴ってやろうかと思った。
まったくこれっぽっちも笑えない。いつものことなので文句を言ったところで変わらないし、助けられたのは事実なので振り上げそうになった拳をどうにか抑えたけれど。
少し暑いけれど手の跡を隠すために女将である稲荷山から彼女のストールを借りて、朝食を終えた後緩く首に巻いた。
「昨日の夜は随分と酷い目に遭いはったんやねえ」
「あはは……まあ、不動と一緒にいればよくあることですよ」
朝食を食べてすぐに「温泉に入ってくる!」と出て行った不動と入れ替わるように部屋へと入ってきた稲荷山が食器を片付けた後、お茶菓子を持って戻って来た。
そして今現在、座卓を挟んで稲荷山と他愛無い世間話やら昨夜の話していた。するしかなかった。
なにせ目の前でにこにこ笑顔を浮かべながら真向かいに座る彼女の目は、「逃げるなよ」と栗原に語りかけていたので。
(何でこの人雰囲気がこんなに怖いの?)
初めて会った時から感じる謎の圧。そこに混じる警戒心と値踏みするような視線。
昨日よりは少しマシになったけれど、今もそれは感じている。だからこそ、女性云々以前に彼女のことが怖い。
彼女の前にいるとなんだか自分が捕食者を前にした小動物になったような、そんな不安な気持ちになるのだ。
稲荷山の雰囲気がこんなにも怖いのは、恋人役としてここに来てしまったからなのか。そう思うけれど、なんとなく少し違うような気もして。
気になって不動にも聞いてはみたけれど、「美也子は肉食系だからねぇ。獲物認定したらばくりといくよ」という理解できない答えが返ってきただけだった。
いつものことである。
「栗原さんはあの子のどこか好きになりましたん?」
「……え?」
「昨日みたいな目に遭うのに、どうしてあの子の隣におることを選んだんやって聞いてますねん」
思わず背筋を伸ばしてしまうくらい、ひどく真剣な目がじっと観察するように見つめてくる。
それでやっと、理解した。
彼女が何を思っているのか。なんとなくだけれど、理解できた。
「私は彼女に……不動と出会って救われたんです」
少しだけ過去の自分を思い出す。
何が好きで、何が嫌いなのかをちゃんと言えなかった。
こうしてほしい、こうであれと言われるまま。望まれるままにしてきたから。
望まれたこと以外のことをしようとすれば、理不尽な怒りをぶつけられるから。
好きなものも嫌いなものも、全部全部言われるままに合わせていた。合わせるしかなかった。
そうしないと生きていけなかった。そうしないと生きていけないのだと思っていた。
けれど、そうじゃなかった。そうじゃなかったのだ。
望まれるままにあろうとしてなくても、生きようとしなくても、ちゃんと生きていけるのだと。
自分が好きだと思うことを、嫌いだと思うことを、考えて選んでいいのだと。
教えてもらった。教えてくれた。
押し潰されて、今にも死んでしまいそうだった心を救ってくれた。
「ただの気まぐれで手を差し伸べてくれたんだと分かっています。でも、その気まぐれで私は救われました。だから今こうして好きなものを好きと言って、嫌いなものは嫌いと言って、ちゃんと自分の意思で選んで生きることができているんです」
一緒にいることで怖い目には何度も遭った。
途中からは望んで一緒に怖いことの元へと行っていたけれど、最初はひたすら怯えていた。
関係を断ち切ってしまおうかと思ったことだって何度もある。
それでもまだ友人関係を保ったままでいるのは。
一緒にいたいと、このままずっとこの関係でいたいと思うのは。
「私は不動のことが好きです。ただ、それだけです。それ以外の理由なんて必要無いし、いりません」
「……せやね」
初めて、稲荷山が笑う。
少し吊り目の目が柔らかく細められて、少しだけ嬉しそうに。そして名残惜しそうに。
心からの笑顔を浮かべた。
「あの子は……涼子ちゃんはふわふわの根無し草な感じの人やから、繋ぎ止めてくれる人が欲しかったんや。せやからちょっとおせっかいさせてもろたけど、奏ちゃんがおるならもう心配せんでも平気やね」
「すみませんちゃん付けはやめてもらっていいですか?」
「あ、あら? そないにちゃん付けされるの苦手なん? ごめんなぁ」
「……あ、いえ。その、こちらこそすみません……」
つい食い気味にちゃん付けを拒否ってしまって、稲荷山の笑顔が固まってしまった。
慌てて謝罪したが「気にせんでええよ」とにこやかに笑って許してくれた。
初日から怖い目に遭いはしたけれど、稲荷山の態度が軟化したおかげで宿で過ごす時間は随分と穏やかなものになった。
この温泉宿の温泉へと行けない体にされてしまったけれど。
「せや、女同士でやることやる時のお作法教えてあげましょか?」
「っ!? え、遠慮します!!」
「あらまあ、顔真っ赤」
態度が軟化したと思ったら、こんな風に揶揄ってくるようになったけれど。
「なんか二人とも仲良くなったね?」
「まあ、うん」
「涼子ちゃんも一緒にお喋りしましょ」
「美也子お仕事は?」
「今くっそ暇な時期やから大丈夫やで」
「じゃあお稲荷さん作って。美也子が作るのが一番美味しい」
「腕によりをかけて作ってあげますわ」
最終日までとても楽しく過ごすことができたのだった。
……帰る間際、見送ってくれた稲荷山の頭とお尻辺りに犬のような耳と四本のふわふわの尻尾が見えたのは、きっとなにかの見間違いだろう。
持ってきたパソコンで原稿を書いていたから目が疲れていたのだ。コーンと鳴いて、一瞬だけ狐に変身した稲荷山のことなど見ていない。全く、ちっとも、見ていない。
そういうことにした。




