第一話 データより重いオムライスと、許されざるハッカー
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
心臓が早鐘を打っている。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。
私の身体スペック――引きこもり・運動不足・筋肉量ほぼゼロな私にとって、マンションから森崎喫茶までの十五分間のダッシュは、もはや死の行軍に等しかった。
けれど、私は勝ったのだ。
完璧なデータ解析と、この学生服という機動力によって。
カランコロン、とドアベルを鳴らして入店し、私は勝利の笑顔で店員さんに告げた。
「限定オムライス、お願いします!」
しかし。
店員のお姉さんは、セーブデータが全部消えてしまった時のような、申し訳なさそうな顔でこう言ったのだ。
「ごめんなさいねぇ、いまさっき、最後の一つが出ちゃったのよ」
…………はい?
思考がフリーズした。
脳内で何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。
「そ、そんな……サーバーのログには、あと四つ残ってると……」
「え? なあに?」
「あ、いえ! なんでもないです……」
私はがっくりと肩を落とし、指定席(と私が勝手に呼んでいる部屋の隅の席)に座り込んだ。
……タッチの差。
私が靴紐を結び直していた三十秒か、あるいはエレベーターが来るのを待っていた四十五秒か。
そのわずかなラグが、勝敗を分けたというのか。
「……じゃあ、日替わりランチセットで」
「はーい、日替わり一丁!」
ふてくされながら注文を済ませ、私はポケットからスマホを取り出した。
失われたオムライスのカロリーは、情報の摂取で埋めるしかない。
スマホで『北市総合ニュース』のアプリを開く。
すると、トップニュースに赤字でデカデカと不穏な見出しが躍っていた。
『速報:市内商店街にて大規模なシステム障害発生』
『電子決済・POSシステムが全停止。悪質なサイバー攻撃の可能性』
「うわぁ……」
私は思わず声を漏らした。
記事によると、商店街を統括するサーバーが何者かの手によってダウンさせられたらしい。
そのせいで、電子マネーやクレカが使えない状態になっているという。
(ひどいことするなぁ……)
私はストローで氷を突きながら、画面の向こうの「犯人」に軽蔑の眼差しを向けた。
ハッカーというのは本来、もっとこう、エレガントであるべきだ。
一般市民の生活インフラを止めるなんてただの迷惑行為じゃないか。
そんなの、技術を誇示したいだけの三流クラッカーのやることだ。
「まったく、ハッカーの風上にも置けないわね。誰だか知らないけど、性格悪いんじゃない?」
私は憤慨した。
こういう輩がいるから、私たち善良なハッカーまで白い目で見られるのだ。
「お待たせしましたー」
そこへ、湯気を立てた日替わりランチが運ばれてきた。
今日のメインは煮込みハンバーグ、そしてセットのアイスミルクティー。
「んー! おいしい!」
ハンバーグを一口頬張ると、怒りは霧散した。
やっぱり名物喫茶は最高だ。
オムライスは残念だったけれど、このデミグラスソースの深みも捨てがたい。
そして、食後のミルクティー。
冷たくて甘い液体が、疲れた脳のシナプスを潤していく。これが至福か。
――数十分後。
心もお腹も満たされた私は、優雅にレジへと向かった。
「お会計お願いします」
「はい、ランチセットで980円ね」
私はスマホの決済アプリ『北ペイ』の画面を提示しようとした。
しかし、画面には「通信エラー」の文字。
「あ、ごめんなさいねお客さん。さっきニュースでもやってたけど、いま電子決済が全部止まっちゃってるのよ」
「あ……」
そうだった。
あの「性格の悪いハッカー」のせいで、システムがダウンしているんだった。
(ほんと迷惑だなぁ……。まあいいや、現金で)
私は余裕の笑みで財布を開いた。
そして、固まった。
小銭入れに入っていたのは、五十円玉が一枚と、十円玉が三枚。
お札入れは――完全なる空洞。
「…………あっ」
冷や汗が、背中を伝う。
そう、私は基本家から出ない。
買い物は全てネット通販かデリバリーだ。
だから、現金を補充するのを完全に忘れていた。
目の前には、ニコニコと笑う店員さん。
私の所持金、八十円。
食い逃げ犯として通報される未来が、脳内で鮮明にシミュレートされる。
「あ、あのっ! ごめんなさい!」
私はカウンターに両手をつき、必死に叫んだ。
「す、すぐにおろしてきます!近くのATMに走ってきますから!け、けっして食い逃げじゃなくて!」
「ええ、いいわよ。カバン置いていってくれれば待ってるから」
「ありがとうございますぅぅぅ!」
私は財布以外の荷物を人質として差し出し、店を飛び出した。
本日二度目のダッシュ。
さっき摂取したカロリーを、即座に燃焼させる虚しさ。
揺れるスカートを押さえながら、私は見えない敵に向かって呪詛を吐いた。
「はぁ、はぁ……!なんで電子決済が使えないのよぉ!」
私の平穏なランチタイムを邪魔し、あまつさえ私を無銭飲食未遂犯に仕立て上げた、顔も知らない極悪ハッカー。
「おのれハッカー……!絶対に許さないんだからーっ!」
秋の空に、私の悲痛な叫びが吸い込まれていった。




