花を待つ
駅前の小さな花屋は、朝の光を受けるとまるで色の箱のように見える。
ガラスのケースに並ぶ花々は、まだ眠りから覚めきらない空気の中で、静かに息をしていた。
私はその店の前に立つのが、好きだった。
特別な理由があるわけじゃない。
ただ、通勤の途中で必ずここを通るから、というだけの話だ。
春はチューリップ。
夏はひまわり。
秋はコスモス。
冬は深い赤のバラ。
季節が、ここにはわかりやすく並んでいる。
ある朝、店の奥に見慣れない人が立っていた。
若い女性だった。
肩までの黒髪をひとつに束ね、白いエプロンをしている。
それまでこの店にいたのは、いつも年配の店主だった。
無口で、客ともあまり話さない人だった。
女性は花束を作っていた。
器用な手つきで、淡い色の花を束ねていく。
私はなんとなく立ち止まり、しばらくそれを見ていた。
「おはようございます」
突然、声をかけられた。
私は驚いて顔を上げた。
女性がこちらを見て、少し笑っている。
「急にごめんなさい。よく、前を通りますよね」
「……え?」
「毎朝。見てました」
恥ずかしくなって、私は曖昧にうなずいた。
「通勤の途中で」
「会社、あのビルですか?」
女性は向かいのオフィスビルを指さした。
「はい」
「やっぱり」
そう言って、花束を紙で包む。
紙の擦れる音が、小さく鳴る。
「今日は買っていきます?」
「いや……」
私は首を振った。
花なんて、ほとんど買ったことがない。
部屋に飾る習慣もない。
「見るだけでもいいですよ」
女性は言った。
「花って、見てもらうために咲いてると思うんです」
私は少し迷って、店の前に立ったまま花を見た。
ピンクのガーベラ。
白いカスミソウ。
黄色いチューリップ。
どれも、きれいだった。
「あなた、この店の人ですか?」
聞くと、女性は首を振った。
「今日だけです」
「手伝い?」
「そんな感じです」
それだけ言って、また花を並べ始めた。
それから私は、朝ごとにその店を覗くようになった。
女性はたいてい店にいた。
時には花束を作り、時には水を替え、時には花の名前を小さな札に書いていた。
私は相変わらず花は買わなかった。
ただ立ち止まって、少し話をする。
「この花、なんですか」
「スイートピー」
「名前は知ってます」
「匂い、いいですよ」
差し出された花を、私は少しだけ嗅いだ。
柔らかい匂いだった。
「花って、すぐ枯れますよね」
私が言うと、女性は少し考えてから言った。
「そうですね」
「だから、買うのってもったいない気がして」
「でも」
女性は笑った。
「咲いてる時間があるから、いいんじゃないですか」
私は答えなかった。
その日、会社でミスをした。
たいしたことじゃない。
ただ上司に少し叱られただけだ。
帰り道、なんとなく気分が重かった。
ふと、朝の花屋の前を思い出した。
もう店は閉まっている時間だろうと思った。
それでも、足がそちらへ向いた。
店はまだ明かりがついていた。
中には、あの女性がいた。
「あれ」
彼女が私に気づく。
「こんばんは」
「こんばんは」
「まだやってるんですね」
「今日は少し遅くて」
店の奥には段ボール箱が積まれていた。
新しい花が届いたらしい。
女性は箱を開け、新聞紙をめくる。
中から白い花が現れた。
「これ、好きなんです」
彼女は言った。
「ユリ」
大きくて、少し重たい香りがする花だった。
「どうして好きなんですか」
「どうして、ですか」
彼女は花を一本持ち上げた。
「なんか、ちゃんと咲くから」
「ちゃんと?」
「途中で諦めない感じ」
私は笑った。
「花って、諦めるんですか」
「さあ」
女性は肩をすくめた。
「でも、人は諦めますよね」
その言葉に、私は少し黙った。
店の中は花の匂いで満ちていた。
外の夜は静かだった。
「あなたは、花を買ったことありますか」
女性が聞いた。
「ほとんどないです」
「誰かにあげたことは?」
「ないですね」
「自分にも?」
「ないです」
女性は少し考えた。
それから、ユリを一本取った。
「これ」
差し出される。
「持って帰ってください」
「いや、買いますよ」
「お代はいりません」
「でも」
「今日だけですから」
女性は言った。
「花は、たまにもらうと嬉しいですよ」
私は戸惑いながらも受け取った。
長い茎。
白い大きなつぼみ。
「ちゃんと咲きますかね」
「咲きますよ」
女性は笑った。
「ちゃんと」
次の日の朝。
私はいつもの時間に花屋の前を通った。
店主が一人で店を開けていた。
花はいつも通り並んでいる。
でも、あの女性はいなかった。
「すみません」
私は店主に声をかけた。
「昨日いた人は?」
「昨日?」
店主は首をかしげた。
「誰もいなかったよ」
「いや、女性のお手伝いの方が……」
「うちはずっと一人だ」
私はそれ以上何も言えなかった。
会社に着くまで、ずっと考えていた。
帰宅すると、部屋のテーブルの上にユリが置いてある。
コップに挿したままだ。
つぼみは、少しだけ開きかけていた。
白い花びらが、ゆっくり外へ向かっている。
私はその花をしばらく見ていた。
数日後。
ユリはきれいに咲いた。
部屋の空気が変わるほど、強い香りだった。
私はふと思った。
あの女性の顔を、うまく思い出せない。
髪の長さも、目の形も、はっきりしない。
ただ、笑っていたことだけ覚えている。
その週の終わり、私は花屋で花を一本買った。
白いユリだった。
「プレゼント?」
店主が聞く。
「はい。自分に」
私は答えた。
店主は少し驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。
帰り道、ふと店のガラスを見る。
そこに並んだ花の間で、一瞬だけ。
白いエプロンの影が動いた気がした。
けれど振り返ったとき、そこには誰もいなかった。
ただ花だけが、静かに咲いていた。




