コーヒーが冷めるまで
扉を開けると、ちいさな鈴が、ちりん、と鳴った。
冬の冷たい空気が背中から押しこまれるように流れこみ、店のあたたかさに溶けて消える。
カウンターの向こうで、店主の榛名が顔を上げた。
ふわりと、焙煎した豆の甘くて深い香りが漂ってくる。
「いらっしゃい。今日も寒いね」
「……まあ、いろいろとね」
悠は肩から重たいカバンをおろし、いつもの席に腰をおろした。
外套のすそから冷気がじわじわと足元に広がっていく。
「今日は何にしましょう」
「いつものを」
「承りました」
榛名は静かに頷き、豆を計量する。
さらさら、と小さな粒が計量皿に落ちる音がする。
その音は、雪の降り積もる日の窓のささやきにも似ていた。
豆をひくと、空気が一変した。
苦みと甘みがまざりあった、濃い香りがふくらんでいく。
悠の胸につかえていた重さが、すこしだけほどけていくようだった。
しばらくして、ゆっくりと細くお湯が落とされる。
ふくらんだ粉から、湯気がふわりとひろがって、真っ白にゆれる。
そのゆらぎが、まるで誰かの言葉のようだった。
「お待たせしました」
湯気をまとったカップが置かれる。
琥珀色の液体の表面に、静かに光がゆれる。
悠は両手でカップを包んだ。
そのぬくもりが、指先だけでなく、心の奥まで届いてくる。
「はあ……この香りだけで、生き返るな」
「飲む前に、ちゃんと息をしてね」
榛名が微笑む。
悠は少し笑って、ゆっくり息を吸った。
香りが胸いっぱいにひろがる。
ひとくち、口にふくむ。
柔らかな苦みが舌に広がり、すぐあとから甘みが追いかけてくる。
その甘みは、懐かしい記憶のようにあたたかかった。
「……今日、会社を辞めてきました」
ことん、とカップを置く音が、店に溶けていった。
榛名は驚いた顔もせず、ただ静かに手を止めた。
「そう」
「思ったより、何も感じないんですよ。肩の荷が下りたっていうより、なにもかも空っぽになったみたいで」
「空っぽなら、これから何をでも入れられるんじゃない?」
悠は顔を上げた。
「だけど、もう何をしたいのかもわからない。毎日、ただ終わらせるために仕事をして、気づいたら、夢も目標も、全部置いてきぼりで」
榛名は黙って、カウンターを拭いた。
その動作はゆっくりで、静かで、どこか音楽のようだった。
「悠くん、コーヒーってね」
榛名はカップを示した。
「淹れたばかりは熱すぎて、味がよくわからないのよ。慌てて飲むと、苦いだけ。でも、すこし待って温度が落ちついてくると、本当の味が出てくる」
悠はカップを見つめた。
湯気はさっきよりやわらかく、香りだけが静かに広がっている。
「そういう時間を、休むって言うんじゃない?」
「休む……」
「うん。立ち止まる勇気を持つ人にだけ、見える景色もあるのよ。苦いまま飲みこんじゃう前に、ちゃんと味がやってくるのを待つの」
悠はカップを口に運んだ。
さっきよりもずっと甘く、香りはやさしく、深かった。
「……おいしい」
「でしょ? 今のあなたには、この味が必要なのよ」
悠は目を閉じた。
胸の中で、小さな雪がゆっくり溶けるみたいに、
かたく凍っていたものがほぐれていくのを感じた。
「少し、休んでみようかな。逃げるんじゃなくて、ちゃんと立ち止まるために」
「いいと思う。そしてまた動き出したくなったら、最初の一歩を決めるといい」
「そのときは……またここに来てもいいですか」
「もちろん。コーヒーは逃げる人も追いかけないけど、帰ってくる人はちゃんと迎える飲み物だから」
悠は笑った。
久しぶりに、本当に笑えた気がした。
店の外では、雪がしんしんと降り続いている。
世界中が静かになって、コーヒーが冷めていく時間だけが、やさしく流れていった。
悠はもう一度、カップを手にとった。
そして、まだ少しあたたかいその味を、ゆっくりと楽しんだ。




