森の泉がひらくとき
夏の終わり、夕暮れが山の向こうへ沈むころ。
静かな森の奥へ続く細い道を、ひとりの少女が歩いていた。
名前はみずは。
両手で抱えた古い地図が風に揺れている。
地図は、亡き祖母が残したものだった。
薄い紙には、見たことのない模様と、中心にひとつの丸。
そのそばに小さな文字で、こう書かれている。
「泉がひらくとき、願いはひとつだけ叶う」
みずはは、その言葉を何度も読み返した。
胸の奥がきゅっと痛む。
(おばあちゃんに、もう一度会いたい)
その願いを抱えて、みずはは森の道を進んでいた。
森の空気は冷たく、葉のすれる音が夜のはじまりを告げていた。
足元には柔らかい苔が広がり、鳥たちの声が遠くでかすかに響く。
とつぜん、小さな光が道に落ちた。
「……え?」
それは、蛍のように淡く光る粒だった。
ひとつ、ふたつ、十ほど集まると、まるで道案内をするように先へ進んでいく。
「待って! 行かないで!」
光を追って走ると、森の木々のあいだから、月の光が差しこんでいた。
そこはぽっかりと開けた広場で、中心には静かな泉があった。
水面は鏡のように澄み、空の星を映している。
光の粒たちは泉の上へふわりと浮かび、やがて消えた。
みずはは泉のほとりへ近づき、そっと手を伸ばした。
水に触れた瞬間、ひやりとした感覚が指先から腕へ伝わる。
その冷たさは、なぜか泣きたいほど心地よかった。
「……ここが、おばあちゃんの言っていた泉?」
すると、水面に淡い光の輪が広がった。
波紋の中心に、ひとりの少女の姿が映し出された。
黒い髪、やわらかな笑み。
「おばあちゃん……?」
映った少女はみずはよりも少し年上のように見える。
しかし、その瞳には懐かしいぬくもりが宿っていた。
『久しぶりね、みずは』
「ほんとうに……おばあちゃんなの?」
『ええ。泉はね、忘れられない想いのある者の前にだけひらくの。わたしが若かったころの姿で、ごめんね』
みずはは涙をこらえきれなかった。
「おばあちゃん、どうしていなくなっちゃったの……? まだ、聞きたいことが、いっぱいあったのに」
泉に映る少女は、やさしく頭を振った。
『別れはいつか来るものよ。でも、悲しみだけじゃなく、想いが残る。それがある限り、わたしたちはちゃんとつながってる』
「つながってる……?」
『そう。みずはが笑うこと、泣くこと、歩いていくこと。それ全部が、わたしの中にも生きてるの。だから、前を向いてね』
みずはは泉に手をのばした。
水面に触れる指が震える。
「もっと……話したい。もっと一緒にいたい。叶うなら、お願いーー」
その言葉を遮るように、静かな声が返ってきた。
『願いはひとつだけ。それを使うのは、今日じゃなくてもいいのよ』
「……今日じゃなくても?」
『大切なのは、願いのために歩きつづけること。いつかほんとうに必要なときがくる。そのとき、泉はまたひらくわ』
少女の姿がゆっくりと薄れていく。
「待って! まだ言いたいことが……」
『みずは。あなたの人生には、たくさんの出会いがある。どうか、生きることを恐れないで』
光が消え、水面にはみずはの涙だけが落ちた。
泉はもとの静けさに戻っている。
森の風がそっと吹いた。
星の光が泉にきらきらと揺れた。
みずはは泣きながら、空を見あげた。
どこまでも深く、澄んだ夜空。
「ありがとう……おばあちゃん。また会えるよね」
返事はなかった。
でも、胸の中が不思議とあたたかかった。
泉はしずかに、夜の闇に光を宿していた。
願いがひらくその日まで、ずっと見守るように。




