白い日
最初の一片が落ちてきたのは、昼のチャイムが鳴った少しあとだった。
教室の窓に白い点が吸い寄せられ、すぐに溶けた。だが、次の一片は溶けずに形を残したまま、薄い膜のように広がった。
「雪だ」
誰かの声に、教室中がそわつく。
それでも授業は続き、先生は黒板に式を書きながら「気にしない」と言うが、生徒たちの視線は窓に吸い寄せられていた。
放課後、瑛斗はすぐに帰り支度を終えた。
彼には行く場所があった。
校庭の裏の、古い鉄塔のそば。冬になると誰も近づかなくなる、ただの空き地だ。
そこにはすでに、麻白がいた。
白っぽい髪が雪と見分けがつかないほどで、瑛斗は思わず足を止めた。
「来ると思ってた」
「来たよ」
瑛斗は息を吐き、白くなるのを見た。
「雪、すごいね。積もりそうじゃん」
「……積もっていいよ。今日は、そうなってほしい気分」
麻白は鉄塔に背を預け、空を見ていた。
彼女の言葉はいつも少しだけ遠回りで、瑛斗にはそれを解く作業が好きだった。
「なんかあった?」
「別に。そんなに特別なことじゃないよ。でも……」
麻白は指先を伸ばし、ひらりと落ちてきた雪を受け取った。
「今日は、いろいろ積もってたから。気持ちが」
瑛斗は横に並び、同じように空を見上げた。
雪はもう粒を持ち、段々と音をなくしていく。
まるで世界の音量をひとつずつ下げていくみたいだ。
「雪ってさ」
麻白が言う。
「全部を隠すんだよね。嫌だった道も、見たくない土も、昨日の足跡も。白くして、何もなかったみたいにする」
「……嫌いなの?」
「ううん。むしろ好き。真っ白になったら、一日くらい何者でもなくていい気がする」
瑛斗はその横顔を見た。
雪の反射で、麻白の表情は少し読みにくい。
でも、その言葉だけで、彼女がどんな一日を過ごしたかはだいたい分かった。
「積もればいいね」
瑛斗が言うと、麻白は小さく笑った。
「うん。この空き地くらい全部埋めてほしい」
「それ、結構な願いだよ」
「瑛斗、雪の神様とかやってない?」
「やってない」
ふたりは同時に笑い、雪はさらに静かに降りてくる。
「ねえ」
麻白が急に声を落とした。
「雪が積もったらさ……足跡つけるじゃん?」
「つけるね」
「でも、また降ったら消えるでしょ?」
「まあ」
「それってさ……ちょっと救われる気がするの。今日つけちゃった足跡も、明日になったら見えなくなるかもしれないって」
瑛斗は頷き、雪を踏んだ。
ぎゅ、と音がした。
「でもさ、消える前に一緒に歩く相手がいたら、それも悪くなくない?」
「……瑛斗ってときどき、柄にもないこと言うよね」
「雪の日限定だよ」
麻白は目を細め、雪の中で肩を上げた。
風が弱まり、雪はまっすぐ落ちてくる。
音が消えた世界でふたりだけが立っていた。
「……一緒に歩く?」
麻白の声はほんの少し震えているようにも聞こえた。
「うん。どこ行く?」
「この空き地をぐるっと。遠くじゃなくていい」
「了解」
ふたりは並んで歩き出す。
足跡がふたつ続き、やがてまた雪が落ちてきて、ゆっくりと埋めていく。
「ねえ、瑛斗」
「ん?」
「明日、晴れるかな」
「どうだろ。でも、晴れてもいいし、積もってもいいね」
「なんで?」
「どっちでも、今日の足跡が消える可能性はあるから」
「……そっか」
麻白はふっと笑い、その笑顔は雪よりも淡く儚かった。
けれど、確かにそこにあった。
世界は白く、静かで、やわらかい。
雪はすべてを覆うけれど、ふたりの足跡だけは、いま確かに刻まれていた。
降り積もる雪は、その上にそっと降りて、ふたりの歩いた道をやさしく包みこんでいく。
白い世界の中、瑛斗は思った。
雪は何もなかったことにしてくれるけれど、今日のこの歩幅だけは、きっと消えない。




