うちの冷蔵庫が逃げました
朝からどうにもキッチンが静かだった。
普段なら牛乳パックがかすかに震える音や、野菜室のカタカタいう癖が聞こえるのに。
高校生の結衣は、寝ぼけた頭のまま冷蔵庫に向かって声をかけた。
「おはよー……今日のお弁当さぁ、卵焼きにしようかな……」
……冷蔵庫が、いない。
「は?」
そこにあるはずの白い巨体が、影も形もない。
代わりに、床には冷蔵庫用のコンセントがぽつんと寂しく残っているだけだった。
「いやいやいや……え? 逃げた? まさかね……」
と思ったけれど、冷蔵庫の足跡(?)らしい四角い跡が、玄関へ向かって続いていた。
「逃げてるーーーーー!?!?」
結衣は靴も履かずに外へ飛び出した。
朝の住宅街に、巨大な白い直方体がすたすた歩いていく姿が見えた。
「まてぇぇぇぇ冷蔵庫ォォォッ!!」
隣の家の柴犬がびっくりして吠え、新聞配達のお兄さんが思わず自転車を止めた。
「結衣ちゃん、あれ……君んちの?」
「そうですぅぅぅ!!」
「元気な冷蔵庫だねぇ!」
元気どうこうの問題ではない。
結衣は冷蔵庫に追いつき、叫んだ。
「なんで逃げてるの!? うちの冷蔵庫でしょ!」
すると冷蔵庫が、ぎゅるるる、と低い音を出した。
まるで「文句あるの?」と言っているようだ。
「え、なに? 機嫌悪いの!? 冷気が足りないの!?」
冷蔵庫は角を曲がり、町内の小さな公園へ入っていく。
ベンチ横の自販機の前で止まり、ふう、と言わんばかりに扉を少しだけ開けた。
中には、手紙。
『冷えっぱなしの人生に疲れました。
たまには外で太陽を浴びたいのです。
けど、またお腹が冷えたら帰ります。 冷蔵庫』
「……は???」
自販機の飲み物が、カシャンと落ちる音が虚しく響く。
「いやいや、あんた冷蔵庫でしょ!? 太陽浴びたら中のヨーグルト死ぬよ!? うちの晩ご飯も困るよ!?」
冷蔵庫はぷいっと扉を閉めた。
どうやら反抗期らしい。
「お願い、帰ってきてよ……! 今日お母さん夜勤明けで帰ってくるの。冷蔵庫いなかったら泣くよ……!」
しばらく沈黙。
やがて、冷蔵庫の扉が、ぎ……とすこしだけ開いた。
その隙間から、卵がひょこっと顔(?)を出した。
ぱか。
ひとつ転がり出て、結衣の手元へ。
「……仲直りの卵焼き、作れってこと?」
冷蔵庫が、ぶぃん、と満足げに唸った。
どうやら機嫌が直ったらしい。
「もう……しょうがないなぁ……」
結衣がそっと扉をなでると、冷蔵庫はとことこ家の方へ歩き出した。
途中、通りすがりのご近所さんに拍手で迎えられながら。
「偉いねぇ、ちゃんと帰るんだねぇ」
「今日のニュースに出るかもよ!」
「出なくていいよ!!」
結衣は赤面しながらついていく。
家に着くと、冷蔵庫は元の位置にスポッと収まり、コードを自分で差し込んだ。
ぶぅん、と馴染みの低い音が戻ってくる。
「まったく……もう逃げないでよ?」
冷蔵庫は、ほんの少しだけ、照れたみたいに冷気を強めた。
その日、結衣は冷蔵庫のために卵焼きを二倍作った。
もちろん冷蔵庫は食べないけど、なんとなく扉の奥が嬉しそうに見えた。




