はちみつパン
町の外れに、小さなパン屋がありました。
名前は 「陽だまりベーカリー」。
窓からはいつも、あたたかいパンの香りがあふれていて、
朝になると店の前には、長い行列ができるほど人気でした。
そこで働くのは、少し無愛想で、でも腕のいいパン職人のミナトと、おしゃべりで明るい看板娘のユリでした。
二人は同い年で、子どものころからの幼なじみ。
パン屋の仕事をはじめてからは、いつの間にか言い合いをすることも増えていました。
「ミナト、クロワッサンもう焼けた?」
「あと三分。あわてなくていい」
「今日は土曜日だよ? もっとてきぱきしなきゃだめ!」
「大事なのは焦らないこと」
口ではそう言うものの、ミナトの手はまるで魔法みたいに滑らかに動いて、生地はみるみる美しい形になっていきました。
ユリは、それを少し悔しそうに眺めました。
(どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう)
その日の昼前、一人の老人がお店の扉を静かに開けました。
背中を少し丸めた、やせたおじいさん。
歩くたびに杖がコツンと音を立てました。
「いらっしゃいませ!」
ユリが明るく声をかけました。
老人はショーケースをゆっくり眺め、迷った末に、バゲットを一本だけ選びました。
「これを、くださいな」
会計をすませると、老人は少し申し訳なさそうに言いました。
「本当はね、ずっと探しているパンがあるんだ。何十年も前、妻が好きだったパンなんじゃよ。はちみつをたっぷり使った、ふわふわで、甘くて、やさしいパン」
ユリはぱちりと目を瞬きました。
「はちみつパン……?」
「そうじゃ。名前を忘れてしもうた。ただ、ひと口食べると、涙が出るぐらい幸せな味でなあ」
ミナトは、奥からそっと顔を上げました。
「はちみつは、どんなものでしょう」
「特別なものじゃよ。山の中の養蜂家から分けてもらったという、金色に光るはちみつじゃった」
老人の目は遠くを見つめ、やさしく笑いました。
「もし見つけたら、作ってくだされ。それだけで、わしは十分幸せじゃ」
そう言って、老人はゆっくり去って行きました。
その晩、店が閉まったあと。
ミナトは裏口から外へ出ると、小さな瓶をそっと見つめていました。
ラベルには、こう書かれていました。
《金色のしずく 山のはちみつ》
「ミナト、それって……」
「去年の秋、山で見つけた蜂場の人から買ったものだ。すごく香りがよくて、なかなか使うきっかけがなかった」
「……あのおじいさんの言ってたはちみつかもしれないって思ったの?」
「ああ」
ミナトは、いつになく真剣な目をしていました。
「明日の朝、はちみつパンを作る」
ユリは驚きました。
「でも、レシピはどこにもないよ?」
「作るしかない」
ミナトは、はちみつの瓶をそっと胸に抱きました。
「誰かの記憶を、もう一度形にできるなら、それはパン職人にとって、きっと一番の幸せだ」
ユリは、その横顔を見つめて胸の奥がじんと熱くなるのを感じました。
翌朝、まだ空は薄暗い時間。
店の中には、はちみつの甘い香りがしずかに広がっていました。
ミナトは慎重に、丁寧に生地をこね、焼きあがるまでオーブンの前から離れませんでした。
やがて、ふわりと立ちのぼる湯気。
つややかに光る、金色に近い焦げ目。
そして、ほんの少し切ないような甘い香り。
「できた……」
ユリは思わず息をのみました。
「すごい、ミナト。この香り、あったかい……」
「本当の答えは、食べる人が知っている」
ミナトはそう言って、静かにパンを並べました。
昼すぎ、昨日の老人が、ふたたび店を訪れました。
ショーケースに並んだはちみつパンを見つめ、老人の手がふるえました。
「……もしかして」
ミナトは深く頭を下げました。
「一度、召し上がってください」
老人ははちみつパンを小さくちぎり、そっと口に運びました。
次の瞬間、老人の目から、ぽたり、と涙がこぼれました。
「まちがいない……これじゃ……妻が、最後まで好きじゃった味じゃ……」
ユリは胸がいっぱいになりました。
ミナトは静かに言いました。
「思い出すことは、失うことじゃない。ちゃんと、今にもつながっている」
老人は深く深く頭を下げました。
「ありがとう……あなたたちに会えて、本当に良かった」
老人が帰ったあと。
ミナトは照れくさそうに視線をそらしました。
「ユリ」
「なに?」
「これから、はちみつパンを店の名物にしよう」
ユリは、にっこり笑いました。
「名前は決まってる?」
「……陽だまりはちみつ」
「いいね。すっごくあったかい名前!」
店の小さな窓から、やわらかい金色の光が差し込みました。
その光の中で、はちみつ色のパンが、きらきら輝いていました。
(きっとこれからも、誰かの心をあたためるパンになる)
そう思うだけで、胸の奥が甘く満ちていきました。




