オレンジ色の朝に
駅から少し離れた住宅街の角に、小さなジューススタンドがありました。
名前は 「Morning Drop」。
店内にはテーブルが三つだけ、ふだんは近所の人がふらっと立ち寄る程度の小さな店ですが、しぼりたてのオレンジジュースは、町で一番おいしいと言われていました。
働いているのは、店主の カナエと、その弟のハル。
カナエは、ていねいで静かな性格。
ハルは、人懐っこくて少しだけお調子者。
姉弟ふたりで切り盛りするその店には、毎朝、決まった時間に来る常連客がいました。
その男の名前はサクマ。
スーツをきちんと着こなし、いつも無表情で、同じ席に座り、同じものを注文するのです。
「オレンジジュース、氷なしで」
それだけ言うと、カウンターの向こうの窓の外を、ただじっと見つめ続けます。
カナエは最初、それが少し怖かったのですが、今では当たり前のように感じていました。
(どうして、毎日同じ時間に同じ飲み物なんだろう)
ある日、ハルが小声で言いました。
「姉ちゃん、さ。気にならない?」
「何が?」
「あの人。毎日オレンジジュースだけで、滞在時間もいつも十分きっかり。絶対なんかあるって」
「ハル、人を勝手に推理しないの」
カナエはそう言って笑いました。
けれど、ほんの少しだけ同意していました。
(たしかに、気になる)
けれど、客に事情を聞くのは失礼だ。
そう思い、ずっと聞けずにいました。
そんなある朝のこと。
サクマは珍しく、注文の前に言いました。
「今日は、少し濃いめにしてくれますか」
カナエは驚いて、つい聞き返しました。
「濃いめ、ですか?」
「ええ。甘くて、酸っぱくて……誤魔化せない味のほうが、今日はいい」
少しだけ、声がかすれていました。
「かしこまりました……」
カナエはいつもよりオレンジをていねいに切り、絞り器にゆっくりと押し当てました。
果肉の弾ける音、指先に伝わる冷たさ、立ちのぼる香り。
いつもより多めに果汁を使い、甘味料などは加えず、そのままグラスへ。
「お待たせしました」
サクマはゆっくりと口をつけました。
そして、しばらく目を閉じ、長く息を吐きました。
「……思い出しますね」
「思い出、ですか?」
サクマはグラスを見つめたまま、静かに答えました。
「妻のことです。亡くなって、今日でちょうど一年です」
ハルは思わず動きを止めました。
カナエも胸がぎゅっとなりました。
「妻は、病気で食べられなくなってからも、ずっとオレンジジュースだけは飲みたがった。甘すぎるのも、薄いのも嫌ってね。何度も、何度もやり直しました」
「……」
「ある朝、ちょうどいいと言って笑ったんです。その日が、最後でした」
カナエは言葉を失いました。
ひとときの沈黙が、ゆっくりと広がりました。
「だから私は、同じ時間に、同じ席で飲むんです。彼女が好きだったのと、同じ味を」
その言葉の意味が、静かに胸の奥へと落ちていきました。
サクマは立ち上がり、会計をすませると、ドアの前で振り返りました。
「今日は、思い出を誤魔化さずにすむ味でした。ありがとう」
そしてサクマは去っていきました。
店の中に、オレンジの香りだけが、温かく残っていました。
「姉ちゃん……」
「うん」
「俺、ジュースってさ、ただの飲み物だと思ってた」
「違うんだよ。誰かにとっては、過去の入口になる」
カナエは空になったグラスをそっと拭きながら思いました。
味には、心を動かす力がある。
それは、誰かの痛みや、誰かの愛さえも運んでくる。
だからこそ、ていねいに作らなくてはいけない。
どんな時でも、どんな一杯でも。
次の日も、サクマは来ました。
いつもの時間、いつもの席で。
「オレンジジュース、氷なしで。昨日と、同じ濃さで」
その声は少し優しくなっていました。
カナエは静かに微笑み、フルーツを手に取りました。
「はい、喜んで」
外の空は明るく晴れていました。
店内には、新しい朝の光が差し込んでいました。
グラスに注がれたオレンジ色は、まるで小さな太陽のように輝いていました。




