霧の向こうの街
その街の噂を最初に聞いたのは、古びた居酒屋だった。
山奥の町で仕事を終えた帰り、雨を避けるためにふらりと入った店で、隣に座った老人が話しかけてきた。
「幻の街って知ってるか」
焼酎のグラスを傾けながら、老人はそう言った。
「幻の街?」
「霧の日にだけ見える街だ」
私は思わず笑った。
「観光の話ですか?」
「違う」
老人は真剣な顔で首を振った。
「地図にない」
その言葉には妙な重みがあった。私は少し興味を持った。
「どこにあるんですか」
「山の奥だ」
老人は指で空に線を描いた。
「古い峠道がある。その先だ」
「行ったことあるんですか」
「ある」
短い答えだった。
それ以上は話さなかったが、帰る前に老人は一枚の紙を私に差し出した。
手書きの簡単な地図だった。
「霧が出たら行け」
「どうして僕に?」
「行きそうな顔してる」
老人は笑った。
私は雑誌の編集者だった。
地方の小さな奇談や伝承を集めて記事にする仕事をしている。
つまり、そういう話を聞くと、放っておけない性格なのだ。
数日後、私は再びその町に戻った。
天気予報では雨。
霧も出る可能性があるらしい。
夕方、山道を車で登る。
道は舗装されていたが、ほとんど車が通らない。
森が濃く、木々の間に霧がゆっくりと溜まり始めていた。
助手席に地図を置き、老人が描いた線をたどる。
やがて、古い峠に着いた。
小さな看板が倒れ、文字は消えかけていた。
私は車を止め、外に出た。
湿った空気が肌にまとわりつく。
霧が静かに流れていた。
「ここか」
峠の先は、細い下り道になっている。
だが地図では、その先に何もない。
ただ山が続くだけだ。
それでも私は歩き出した。
霧は次第に濃くなり、数十メートル先もよく見えない。
靴音が湿った土に吸い込まれる。
しばらく進むと、突然視界が開けた。
そこに街があった。
私は立ち止まった。
「……嘘だろ」
古い町並みが霧の向こうに広がっていた。
石畳の道、木造の店。
電線はあるが、どこか時代が古い。
街灯がぼんやりと霧に光を放っている。
人も歩いている。ゆっくりと、まるで時間が止まったかのように。
思わず声を出した。
「すみません」
通りかかった男が振り向いた。
「ここ、どこですか」
男は不思議そうな顔をした。
「街だよ」
「名前は?」
「名前?」
男は首をかしげる。
「名前なんてあるか?」
私は言葉に詰まった。
そのとき、店の戸が開き、女が顔を出した。
「お客さん?」
「ええ……」
「泊まる?」
「泊まる?」
「宿」
女は当然のように言った。
「霧の日に来た人は、みんな泊まる」
私は迷った。
だが、この街を調べるなら泊まるしかない。
「お願いします」
宿は小さな旅館だった。
木の廊下が軋む音が響く。
部屋には古い布団と低い机。
「夕飯は下で」
女が言った。
「七時」
私は窓から外を見た。
霧の中で、街がぼんやりと浮かんでいる。
静かで、不思議な落ち着きがあった。
時計を見る。
六時半。
私は街を歩くことにした。
店が並ぶ。八百屋、古道具屋、小さな食堂。
人はいるが、動きがどこか緩やかだ。
時間がゆっくり流れているように見えた。
カメラを取り出し、写真を撮る。
だが妙なことに気づく。
シャッター音が響かない。
音はしているはずなのに、街全体がそれを吸い込んでしまうかのようだった。
「初めて?」
声をかけられた。
振り向くと、若い男だった。
「ええ」
「迷った?」
「霧の峠から来ました」
「そうか」
男は笑う。
「みんなそこから来る」
「ここ、何なんですか」
「街だよ」
「でも地図にない」
男は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「地図にある街の人が、ここに来る」
「……?」
「帰れなくなった人もいる」
私は背筋が寒くなった。
「帰れるんですか」
男は肩をすくめた。
「霧が晴れれば」
「晴れなかったら?」
「街になる」
「街?」
「ここに住む」
その言い方が妙に自然だった。
私は宿に戻った。
夕飯は質素だった。魚と味噌汁。
「どう?」
「不思議な街ですね」
「そう?」
「いつからあるんですか」
女は少し笑った。
「さあ」
「誰も知らない?」
「知ってる人もいるかも」
「どこに?」
女は窓を見た。
「もういない人」
私はそれ以上、聞かなかった。
夜。
布団に入る。
外は静かだ。
霧のせいか、音が遠くに感じられる。
いつの間にか眠ってしまった。
朝。
目が覚める。
部屋が明るい。
私は窓を開けた。
霧は消え、街も消えていた。
目の前には、ただの山道だけが残る。
私は慌てて外へ出た。
旅館はなく、石畳もない。
広がるのは森だけだった。
「……夢?」
ポケットを探る。
カメラがある。
電源を入れる。
写真を見る。
そこには確かに街が写っていた。
霧の中の街灯、古い店、人影。
そして最後の写真。
旅館の前に立つ誰か。
私だった。
知らない服を着ている。古い服。
写真の私はこちらを見て、笑っていた。
まるでずっと前からそこに住んでいた人のように。




