雨上がりの七色郵便
その町では、雨が上がると虹が出る。
珍しいことではないが、この町には少しだけ不思議な決まりがあった。
虹が空に現れた日は、必ず郵便が届くのだ。
ただし、それは普通の手紙ではない。
宛名の書かれていない手紙だ。
町の小さな郵便局は、古い木造の建物だった。
入り口の上には錆びた看板がぶら下がり、風が吹くたびにカタカタと小さな音を立てる。
壁や柱には古い色褪せたポスターが貼られ、長い年月の重みがにじんでいた。
私はその郵便局で働いている。
正確には、まだ働き始めたばかりで、右も左もよくわからなかった。
「ここはね」
最初の日、局長がゆっくりと話しかけた。
「虹の日だけ、少し忙しい」
「虹の日?」
私は首をかしげて聞き返した。
「空に虹が出た日だよ」
局長はにこりと笑った。
「まあ、すぐわかる」
その日は、朝から細かい雨が降っていた。
道路は濡れた鏡のように光り、雨粒が地面に小さな輪を描く。
町には人影もまばらで、郵便局の中も静かだった。
昼過ぎ、雨が止んだ。
私は窓を拭きながら、外を見た。
雲の隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
「ほら」
局長が小さく声をかけた。
指差す先を見ると、町の向こうの空に、淡い虹がかかっていた。
七色が、山の上にぼんやりと伸びている。
「……本当だ」
私は少し感動した。
虹を見たのは久しぶりだったし、なんだか胸がわくわくした。
すると局長が立ち上がった。
「じゃあ、来るな」
「何がですか」
その瞬間、郵便局のドアが開いた。
鈴が鳴る。
入ってきたのは、小さな女の子だった。
ランドセルを背負い、少し濡れた髪を肩に垂らしている。
「こんにちは」
「こんにちは」
局長が答える。
女の子はカウンターまで来て、ポケットから白い封筒を取り出した。
「これ」
「うん」
局長は封筒を受け取り、じっと見つめた。
宛名は書かれていない。
切手も貼られていない。
ただ、丁寧に封がしてあるだけだ。
女の子はそれ以上何も言わず、くるりと向きを変えて帰っていった。
私はその光景に、少し戸惑った。
「……あの」
「うん」
「これ、どうするんですか」
局長は封筒を机の上に置いた。
「配る」
「誰に?」
局長は窓の外を見た。
「わからない」
私は思わず笑いそうになった。
「冗談ですよね」
「本当だよ」
局長の顔は真剣そのものだった。
「宛名がなくても、届け先は決まってる」
「どうやって?」
「届くべき人のところに」
そのとき、またドアが開いた。
今度は、傘を持った老人だった。
カウンターに来ると、やはり封筒を差し出す。
「頼むよ」
「はい」
局長は受け取り、老人はすぐに帰っていった。
その後も、人々が次々とやってきた。
主婦や中学生、作業服の男まで、みんな同じように白い封筒を手渡す。
宛名はない。
私はとうとう聞いた。
「これ、本当に配るんですか」
「もちろん」
「どこに?」
局長は棚を指した。
「そこ」
棚には町の地図が貼ってあり、小さな箱がいくつも並んでいた。
箱には住所が書かれている。
私は気づいた。
封筒の隅には小さな色の点がついていた。
赤。
青。
緑。
黄色。
紫。
「色で分けるんだ」
局長が説明した。
「虹の色だよ」
私は封筒を手に取った。
赤い点がついている。
「赤の家に届ける」
「赤の家?」
局長は地図の一点を指した。
「そこ」
「……それだけで?」
「それだけ」
私は半信半疑のまま、配達に出た。
赤い印の家は、川沿いの古い家だった。
呼び鈴を押すと、しばらくして女性が出てきた。
「郵便です」
「え?」
女性は封筒を見て、少し驚いた表情を浮かべた。
「宛名がないけど」
「ええ……でも」
私は言葉に詰まった。
「あなた宛てです」
女性は封筒を受け取り、しばらく見つめた。
そして、ゆっくり封を開けた。
中の紙を読むと、その瞬間、女性の目が大きく開かれた。
「……これ」
「どうしました?」
女性は顔を上げた。
「これ、私が書いた手紙だ」
「え?」
「十年前に」
私は言葉を失った。
女性は少し笑いながら話した。
「娘に書いたんです」
「娘?」
「喧嘩して、家を出て行ったとき」
女性は空を見上げた。
虹はまだ、薄く空に残っている。
「出せなかったんですよ」
「どうして」
「どこにいるかわからなかったから」
女性は手紙を胸に当て、少し涙ぐんだ。
「でも……届いた」
私は郵便局に戻った。
局長は次の封筒を仕分けていた。
「どうだった?」
「……あれ、自分の手紙だって」
局長はうなずいた。
「そういうものだ」
「どういうことですか」
局長は窓を見た。
虹が少しずつ消えていく。
「人はね」
静かに言った。
「出さなかった手紙を、たくさん持っている」
「……」
「言えなかった言葉とか、謝りたかったこととか」
私は封筒を手に取り、じっと見つめた。
「それが、虹の日に届く」
「誰が出すんですか」
局長は肩をすくめた。
「さあ」
私はその日、町中を歩き回った。
赤い家、青い家、黄色い家……
封筒を届けるたび、誰かが驚いた顔をする。
そして静かに読む。
ある人は笑い、ある人は泣き、ある人は長く空を見つめた。
夕方になるころ、虹は消えた。
郵便局に戻ると、局長が言った。
「終わりだな」
「もう来ませんね」
「また次の虹まで」
私は机の上の封筒を見た。
一通だけ残っている。
小さな紫の点。
「これ」
「それは」
局長は私を見つめた。
「君のだよ」
「え?」
「さっき届いた」
私は封筒を手に取った。
宛名はない。
でも、なぜか分かった。
中の手紙を開く。
そこには短い文章が書かれていた。
――あの日、言えなかったけど。
――ありがとう。
それは、三年前に亡くなった祖父の文字だった。
私はしばらく動けなかった。
窓の外を見る。
虹はもう消えている。
でも空には、まだかすかな光が残っていた。
まるで誰かが遠くで手紙を書き終えたばかりのように。




