Episode3 #8 Science
バート達がこのヘンリーとマーガレットの件に携わるようになったキッカケは、3時間ほど前の話に遡る。
「いやっほおおおおおおう!!」
その日、ジェームズの気分は最高だったようだ。当たり前だ。今回のセールスは、見事大成功だったのだから。
車の中で歓喜の叫び声を上げるジェームズの隣、助手席に座るバートも気分がよかった。
なんせ今回の売り上げには、バートの貢献が大きい。今回セールスしていた洗剤は、バートが過去掃除夫だった時に仕事で使っていたものだった。
故に、バートはその洗剤の特性を知り尽くしていた。更にその洗剤は手が荒れやすくなるため、ゴム手袋も一緒に売った所、これもかなり売れた。これには主にジェームズの笑いが止まらなかった。それでバートも誇らしげだった訳だ。
「バート、今日はホントよくやったぞ……! 君の知識が実に役に立った!!」
「ロートスさん曰く、僕の洗剤に対する知識は『表面的』らしいけどね」
近場で買ったサンドイッチにかじりつきながら、バートはそう返した。
バートが食べていたサンドイッチは、ライ麦パンにチーズとスライスオニオン、レタス、そしてスモークサーモンを挟んだものだ。ライ麦のパンはちょっと硬くて歯ごたえがあるが、しゃきしゃきとした玉ねぎとレタス、それと柔らかいチーズとの相性は抜群だとバートは思っている。ちなみに、隣にいるジェームズはハムとチーズのサンドイッチを食べていた。
ベネー商会に入ってそろそろ一ヶ月。バートは本格的に退魔師を目指すために、会社の同僚から様々な教育を受けていた。
バートは退魔師の資格を持っている身分ではない。彼はまだ見習いなのだ。
退魔師になるには資格試験をパスする必要がある。受験資格は退魔業務を行う職場に3ヶ月以上いること。そして、受験時に18歳以上であること。試験は4月と10月の年2回行われ、筆記試験を合格さえすれば"退魔師"の資格が得られる。
これにパスしさえすれば、まず武器の携帯許可が下りやすくなるため、業務につきやすくなるのだ。
『何だ、そんな簡単な条件なのか』と思われるかもしれない。しかし実際のところ、退魔師の試験を受ける前に大抵新人は職場についていくことができず、前者の条件さえも満たせないのだ。何せ、まず幽霊を見られない人間は退魔師になれない訳なのだし。
だが、問題はその"筆記試験"だ。
合格最低点は100点満点中60点前後。そして、その試験内容の半数が自然科学に関する出題なのだ。
『何でオカルトを扱っている退魔師が、自然科学に造詣が深くなければいけないのだ』と思っていけない。
そもそもオカルトは"秘術"を意味する。そして、自然科学とはオカルトを母として生み出され、育ったようなものなのだ。物理学も神学の一端であり、数学も数の"神秘"を文字通り扱った。化学も錬金術から発展した。
万有引力の法則を発見し、古典力学の父とも名高いアイザック・ニュートンも、晩年はオカルト―厳密にいえば錬金術だが―に傾倒したと言われている。
更に魔術には自然科学の知識が必須である。また、扱う業務内容が怪奇現象を含んでいる以上、『果たしてそれがエニグマの仕業か、それ以外の自然現象か』を見抜く知識も必要になってくる。
以上のような理由で、退魔師になるためには自然科学が必須となっている訳だ。
もっとも、自然科学とはいえ試験内容で問われる内容はさほど難しいものではないし、数学・物理・化学などから選択で一科目選んで受験するだけでいいのだから、試験を通ることに焦点を当てれば詰め込むだけでも構わないのかもしれない。しかし、会社の同僚達は『知識として持っておいて損はない』という理由で彼に教えたがっているのだ。
それでバートは、会社の同僚から様々な指導及び教育を受けている。あとは自宅で自習したり、空いた時間に本を読んで勉強する日々だ。
そして、その『科学教育担当』として白羽の矢が立った――いや、率先して立候補したのが、シドことシドニー・ロートスなのだ。
バートは毎日空いた時間、大体30分ぐらいずつ、シドニーから色んなことを教えてもらっている。シドニーはこのベネー商会の中で最も優秀な魔術師らしい。専門は物理学らしいが、数学や化学や生物学、天文学についても詳しいようだ。そのシドニーから色々教えてもらえるのだからこれほど嬉しいことはそう無い……はずなのだが。
彼の"授業"を受けたバートにしてみれば、困惑することだらけだった。
先程バートが言っていた『洗剤に関する知識が表面的だ』というのもそれに関連する話で、シドニーは「化学の前提知識を知らないのに個々の具体的な化学物質の性質だけ知っていても脈絡が無く、真の意味で役に立たない」と断言したのだ。
更に極めつけは、数日前の物理についての話だ。
その日、バートは回転体について教えてもらう予定だった。その時にシドニーに最初に言われたのが、この言葉だった。
「何で物は回転すると思う?」
これにはバートも呆気に取られるしかなかった。
約十分後に分かった話なのだが、つまり回転とは軸を固定して行われる―つまり自由度が下がった―運動なのだ、という話であったようだ。
しかし突然『何故物が回転するか』を問われても唖然とするしかない。それを考えたら気が狂いそうだ、とごちるバートに、シドニーはあっけらかんとして言った。
「だから歴史に名を馳せた科学者は皆、その当時気が狂ってると思われていたんだ」
納得のいく一言だった。
「まあそう気にするなよ。シドニーは会社の中でも特に物理学にうるさい男なんだ。"物理学原理主義者"って言っても過言じゃない。だから言ってること全部を全部マトモに受ける必要はないさ」
昼食のサンドイッチを食べ終えたジェームズが、バートにそうフォローを入れる。
「あいつ、この間なんて方程式の解き過ぎでプレッツェル・スティックを鉛筆と勘違いしてたしな」
「……プレッツェルで、紙に何か書こうとしてたのか?」
「ああ。で、書けないもんだから慌ててな。通りすがりのウィリアムに大笑いされてた」
「意外と抜けてる人なんだな。あの人」
「本人は『ニュートンだって卵を茹でようとして間違って時計を茹でたんだから、プレッツェルを鉛筆と勘違いするのは仕方がないだろう』って言い訳してたがな」
ジェームズの話したシドニーの抜けた話に、バートはクスリと笑った。あの白い顔が真っ赤になって慌てる所を想像したら可笑しいに決まっている。
とはいえ、そんなシドニーに対してバートは悪印象を持っている訳ではなかった。少し説明が暴走するし、人をからかうことが好きな男だが、決して悪い人間ではない。むしろある種の純粋さを持っている。バートはそう思っていた。
「まあ、僕もウィリアムも、チーフもクリスもみんな試験にパスするぐらいは色々知ってるからさ、何かあったら僕等のことも頼ってくれよ」
「ありがとう。……まあ、社長からも化学について色々聞けてるしね」
エンジンを掛け、車を走らせ始めたジェームズの申し出に、バートは笑いつつ車内に何故かあったスプレーを手に取った。どうやら殺虫剤らしい。
ウィリアムは時折化学について教えてくれる。とはいえ、彼自身時間があまりないせいかシドニーのように体系的な話ではなくて、本当に実践的な話ばかり。時たま会った時に、ぽつりぽつりと教えてくれる程度だ。
「生まれてから死ぬまで聖書を読まない人間はいますが、一生のうち化学製品に触れない人間は現代社会において存在しません」
それがウィリアムの弁だった。だから、身近にあるものの中でも使い方を間違えれば恐ろしいことになる事を知るべきだとも言っていた。
どんな成分がどんな影響をもたらすか。
どんな組み合わせをすると怖いことになるのか。
もしそういった事故に遭遇したらどういう手当をすべきなのか。
化学製品に塗れた現代に生きる以上、化学は自衛のための知識だ。ウィリアムはそうも言っていた。
まずバートが教えてもらったのは、数々の化学成分だ。とりあえずいくつかの代表的な無機物質と有機化合物の名前と性質を知っておけば、化学物質は規則的な命名がされているためどういう物なのかが分かり易い。そう言ってウィリアムはバートに表を渡してくれた。それで、バートは殺虫剤の側面に書かれた成分表を読んでみた。
ピレスロイド、香料、ケロシン、LPG、DME……。
いくつかどういうものなのか分かると同時に、全く分からないものもあった。でも、少しずつ知識が増えていく感覚に何処か嬉しいものをバートは感じていた。
「……あれ?」
バートが元の場所に殺虫剤を置いたその時、ジェームズが何かに気が付いたらしく、声を上げた。どうやら何かを見つけたようだ。
彼はハンドルを切り、そちらの近くへとゆっくりと車を走らせて近づく。どうやら、行先は教会らしい。
何だ、悪魔が教会に近寄れるのかとバートは思ったが、ジェームズはそんなことなど気にする様子もない。車の窓を開けて"その人物"に声を掛けた。
「おーい!! ジュリアじゃないか!!」
ジェームズの視線の先にいたのは、一人の女性。
背中まで伸ばした褐色の髪が美しい、30を過ぎたぐらいの女性だった。
黒いロングスカートと、色の濃いセーター。そして黒のファーの付いたロングコートに身を包んだ、如何にもミステリアスな女性。真っ白な肌に差した赤い唇も、マホガニー色の瞳も美しい人だった。
その女――ジュリアはジェームズの声に振り向くと、花開くような笑顔を浮かべた。
その笑顔は、どこか、ふわふわと柔らかいものに包まれるような気分にさせるものだった。




