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「ヒロト行っちゃうよ。話しかけないの?」
マコトが僕の肩を揺すった。
ヒロトたちの馬鹿みたいな笑い声は教室中によく響いた。その声を聞くたびに、池谷はちょっとだけ機嫌を悪くする。ヒロトはひとしきり喋り終えてか席を立ち上がったところだった。
僕はノートの端に文字を書き、誠に見えるよう机の端に寄せた。
『まだ食べてる途中』
「さっきから何書いてんだ?」
池谷が机の向こうからノートを覗き込んでくる。
「『まだ食べてる途中』ってなんだよ」
こういうところで遠慮なく探りを入れてくるのがとても困る。
「字の練習」
「闇雲に書いても字はうまくならないぞ」
池谷に適当に返事を返す。マコトはなおも僕を急かしてきた。
「もしかして、仲悪いの?」
その一言には、鋭く尖らせたシャーペンの芯で首元を突くみたいな静かな衝撃があった。
「そんなわけ無いだろ」
僕は思わず声を出していた。マコトと、それと池谷が、面食らった表情を僕に向けた。
「なんでキレてるんだよ」
「悪い」
どう説明していいのか、苦しい。
「よく考えたらちゃんとバランス考えて練習したほうが良かったと思う」
「昨日から変だぞ」
「夏休み前だからかも」
「子供か」
「夏休み前はわくわくするよね」
と朗らかに同意してくるマコトが恨めしい。マコトは退屈を持て余して、教室を歩き回って他の生徒のお弁当箱を覗き込んだりし始めた。
同じ教室にいるのになぜか声がかけられない生徒がいて、ヒロトその一人だった。
「やっと今日で終わりだ」
池谷が嫌味っぽい口調でつぶやく。この教室にいるのが苦痛だという主張がはっきりわかる。周りに喧嘩をふっかけることはあまり言わないでほしい。
黒板の片隅には『七月二十一日』と書くはずのところが『最終日!』となっている。今日を過ごせば、もう学校には来なくていい。
「あ、戻ってきた」
マコトが再び声を上げる。僕は聞こえないふりをしていた。
「戻ってきたって。ほら」
マコトは机を動かすことはできないが、僕の首をぐいと横に曲げることはできた。教室に戻ってきたヒロトを目が合った。声をかけることはない、僕らはお互いにお互いを見なかったことにした。
「なんで? チャンスだったのに」
マコトに文句を言われっぱなしのまま一日が終わった。
帰りには雨が降っていた。池谷は先生に質問があると言って職員室に行く予定らしく、僕は先に帰ることにした。
校門から駅に続く長い道を、たくさんの傘が揺れている。休み前の浮かれた気分のせいか、帰途に着く生徒の足取りは弾んでいた。大降りを過ぎた続く夏の雨は、リズミカルに水たまりを叩いて同心円の模様を次々に作っていく。学校の再開は一ヶ月後。巨大な時間の空洞が、ぽっかりと目の前で口を開けて僕らを待っていた。
「ヒロトは人気者なんだね」
マコトは幼い頃のヒロトの写真を見ていたから、今のヒロトを見て意外に思ったらしい。
「ヒロトは一番変わったと思う」
僕と違って、と卑屈な一言を付け加えるのは止めた。
生徒たちは傘を閉じて駅の改札に駆け込んでいく。遠くから電車の音が聞こえていた。ゆっくり歩いていたせいで電車の時間ぎりぎりだ。改札に定期をかざして通り抜ける。マコトはセンサーにも引っかからなかった。電車にマコトを押し込み、それから自分も飛び乗った電車に飛び乗った。車掌さんが駆け込み乗車する中高生たちを一通り叱った後にドアがしまった。
「危なかった」
マコトは息を切らしていた。僕はマコトのことを見ていなかった。
目の前に、見覚えのある大きな背中が壁のように立ちふさがっていた。僕を振り向いたましい顔は、ヒロトのものだった。
「なんでここに?」
「雨の日は電車なんだよ」
ゆっくりと車両が動き出した。僕は姿勢を崩しても、ヒロトはどっしりと立って動じない。マコトは山を見上げるみたいにしてヒロトの顔を見た。それから、期待を込めた表情を僕に向けた。
「何か用か?」
マコトには気がつかない。むっつりとした調子で口を開く。僕はとっさのことに返事ができないでいた。体幹が強いんだなあと場違いなことばかりが頭に浮かぶ。
「特に用があるわけじゃないんだけど」
僕の返答は要領を得ない。頭でわかっていることと、実際に体を使ってすることとの間には深い溝がある感じがする。ヒロトは硬い表情のまま何も言わない。僕はいつの間にか、ろくすっぽ話もできない人間になっていた。
「ずっと俺に何か言おうとしてただろ」
ヒロトは大雑把に見えて意外とめざとい。
規則正しい電車の揺れが、この気まずさをちょっとだけマシにしてくれていた。マコトは僕とヒロトを交互に眺めている。期待に輝いていた顔には不安の色が浮かんでいた。
「あのさ」
ヒロトと話をすることなんて何も思いつかなかった。
「マコトに親戚っていたっけ?」
「はあ?」
がたん、と電車が大きく揺れた。耳と頬が熱くなってきて、車内の冷房から吹き出す風がいっそう冷たく感じられる。
「どうしてそんなこと聞くんだよ」
マコトがいるんだ、とは言えなかった。ヒロトの隣に、不安の表情を浮かべて立っているマコトにヒロトは気が付かない。
「ごめん、なんでもないんだ。でも、調べたいことがあって」
「なんだよ」
一応、話を聞いてくれるつもりはあるらしい。僕は息を吸った。
「マコトの言ってた『火花の秘密』のことで」
ヒロトの細い目がかっと大きく見開かれた。その脳裏には僕が思い描いたのと同じ光景が浮かんでいると思う。
「お前……」
僕は身動きが取れなくなった、ヒロトの口元が震えている。起爆を待っている爆弾みたいに見える。
電車が急ブレーキをかけた。耳障りな音を立てて電車が止まる。
「ずっと昔のことなんだ、覚えてなくても別に……」
「なんで今さらそんな話をするんだ」
僕の話が突拍子もないものだったけれど、ヒロトの怒る理由はわからない。
「今年で終わりだから、きちんとけりを付けておきたいんだ」
「もう意味ないだろ」
ヒロトは僕をじっと見る。
「何笑ってるんだよ」
「ヒロトも覚えてるんだろ」
ヒロトはやれやれと言ったふうにため息を付いた。
「覚えてねえよ。そんな昔のこと」
「そうは見えなかった」
喧嘩をふっかけるつもりはなかった。ただ、マコトが何かを思い出すきっかけになればいい。僕は余計なことばかりしている。
ヒロトの体が膨張して一回り大きくなったみたいに見えた。電車の中で暴れるほど馬鹿じゃない。それがわかっていても怯んでしまう迫力があった。マコトがヒロトの腕を取って引き留めようとしたくらいだ。
「心理学者の真似事なんて馬鹿のすることだ」
「なんでもいいんだ。全然関係ないことでも、ほんの少しだけでも覚えていることがあれば」
「知らないって言ってるだろ」
沈黙が落ちる。いたたまれない気分だった。
電車が動き出すまでに、途方もなく長い時間が過ぎた気がした。次の駅に停車するまで、僕らはずっと無言だった。マコトは、涙をこらえるみたいに床に視線を落としていた。
電車の扉が開くと、ヒロトはさよならの一言も言わずに電車を降りた。僕らはもう他人になっていたみたいだ。そのことに今ようやく気がついた。マコトにそんなことを教えたくなかった。今日、この場所にマコトを連れてきたのは失敗だったかもしれない。
違うか、と思った。それよりもっと前から僕は失敗していた。そのことに、僕は今になってようやく気がついたのだ。
電車の扉は乗客の乗り換えのため開いたままだった。肩を揺すって大股で歩いていくヒロトが、ふと歩みを止めた。そして僕の方を振り向いた。
「マコトは何も知らなかったと思う。だから見に行きたいなんて言ったんだ」
「今、見に行ってみないと思わないか」
「いつまで昔のことにこだわってるんだよ」
「そういうのじゃ……」
「ずっと過去に囚われてたら先に進めないぞ、って昨日観たドラマで言ってた」
ヒロトは冗談めかして笑った。
ぷしゅう、と扉が音を立てて閉まり始める。マコトは耐えきれなくなったみたいに、軽くドアを叩いた。
じゃあな。
ヒロトの声はガラス窓越しに聞こえなかった。けれど、口の動きでそう言ったのがわかった。僕の目線を避けるみたいに下を向いたヒロトの目は、ちょうどマコトのいる空間を捉えていた。その様子はまるで、追いすがるマコトに優しくさよならを告げるみたいに見えた。
「ごめん」
流れていく車窓の景色を眺めながら、マコトは呟いた。




