5
「なんでお前がここにいるんだ?」
僕は熱さでどうにかなってしまいそうだった。部屋の窓が開けっ放しになっていたせいで、家の中から外に向けて勢いよく風が吹き抜けた。乱暴な音を立ててドアが閉まる。階下から文句を言う母の声がとても遠くから聞こえるようだった。彼女はびくりと肩を震わせた。
彼女は怯えた表情をしていた。僕は悪い人になった気分だった。
「ここは僕の部屋だよ。驚かせて悪かった。誰かいると思わなかったんだ」
ベット脇のカーテンが窓の外でひらめいている。夏の日差しはまだ強く、怪奇現象が起こるにはあまりにも早い時間だと思った。
「マコトだよな?」
「名前がわかりません」
もしマコトが今日まで生きていたとしたらきっとこうだっただろう姿で、彼女は首をかしげた。
「どうやってあがってきたんだ」
「わかりません。気がついた時には、ここにいました」
窓は開いているけれど、そこから家の壁を伝ってくることは確かにできなくはない。だけど、そんなことをしてどうするのか。
僕は意外と冷静だった。どんな奇妙なことでも、実際に目の前にしてしまえば受け入れられてしまうみたいだ。
部屋に入ってドアを閉めた。両親に見つかるより、内緒で窓から逃してあげたほうがいいと僕は思っていた。
「僕の、昔の知り合いに凄く似てるんだ」
家族共通のクラウドに入れた写真はすぐに見つかった。写真を画面いっぱいに拡大すると。マコトは食い入るように画面を見つめた。
いつの写真だろう。綿あめを手にしたマコトを中心に、僕とミツヤが左右に並んでいる。誰かのスマートフォンを借りて、夏祭りの会場で撮った写真だ。撮影したのはヒロトだったと思う。
「これは私だと思います」
マコトは写真の中の自分自身を指で示した。
「こいつは誰かわかるか? 眼鏡をかけてるほう」
「わかりません」
「僕のことは」
「……すみません。わからないです」
マコトは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「でも、なんとなく、とても仲の良かった人なのかもと思いました。最初にドアを開けて目があった時、私はちょっと安心していました」
マコトは、記憶の湖にゆっくりと指を浸すみたいに画面を触った。僕はが写真を切り替えた。懐かしい光景が次々に現れる。けれど、マコトはそのどれもに馴染みがないようだった。
「私達は兄妹じゃないですか?」
「友達だよ」
友達だ、なんて、そんなことを口にしたのはいつ以来だろう。
「あ」
マコトはスライドショーに気になる一枚を見つけたらしい。僕は画面を切り替える手を止めた。
「この人わかります」
写真は体育館で撮影したものだった。剣道着に身を包み、正座をして頭から手ぬぐいを取っているところだった。傍らには竹刀が置かれている。試合の後に撮った写真だ。僕とミツヤとでその家族とで、ヒロトの大会を応援しに行った。あの頃のヒロトはすぐに負け、ていつも悔しそうな顔をしていたという印象がある。
「ヒロトか」
「そう!」
マコトの目がぱっと輝く。なにか新しい発見をしたマコトはいつもこんな風だった。
「ヒロトとマコトは一番仲が良かった」
マコトは、ヒロトのことを除いてあらゆることを忘れてしまっていた。どうしてこの場所にいるのか、どうやって来たのか、肝心なことは何一つとしてわからなかった。
なんとなく、直感したことがある。僕は、約束を果たせと誰かに言われているのかもしれない。
「マコト」
「なんでしょう?」
「何かやりたいことはあるか?」
もしかしたらマコトは、僕らと火花を見るためにこの世界に戻ってきたのかもしれない
マコトは画面に目を落としたまま考え込んだ。それから、意を決したみたいに顔を上げた。
「あります」
「なんでも言ってくれ」
「本当にいいですか」
「もちろん」
マコトは小さく息を吸い込んだ。僕は、火花を見に行く計画をぼんやりと立て始めていた。開花の日には警備が敷かれ、とても僕らが立ち入ることのできる場所ではないからだ。もしも本当に見に行こうと思うなら作戦を立てる必要がある。先生や親が、後から気がついて僕らを説教するような作戦を。
「この人に会わせてくれませんか?」
「え?」
「ヒロトくんに会わせてください」
僕は拍子抜けしていた。その沈黙をどう受け取ったのか、マコトは再び不安そうな表情を浮かべた。
「駄目ですか?」
「いいよ。でもどうして」
「何か思い出すことがあるかもしれません」
「それだけでいいのか」
「何かあるんですか?」
「いや、なにも」
僕の不自然な回答に、マコトは曖昧な笑みを浮かべて返事の代わりにした。僕はこの時に、彼女がマコト本人だと確信した。
「私と仲が良かった人ですよね」
写真のフォルダを閉じたところで指が滑って、画面がカメラ表示に切り替わった。カメラのレンズは確かにマコトを捉えているはずだった。
冷たい手が心臓を掴むような衝撃を感じた。マコトの姿がカメラに写っていなかったからだ。僕のカメラはマコトの姿を無視して、その背後のドアノブに焦点をあわせていた。
ドアノブが回った。続いてノックの音。返事をする間もなくドアが開き、母が顔を出した。
「さっきから何ひとりで喋ってるの?」
マコトは僕の母を見上げていた。母はマコトのことを無視して僕を見ていた。
「電話してたんだよ」
「誰かいる感じだったから」
「スピーカー使ってたからだと思う」
「そっか」
「ノックは開ける前にしてよ」
「わかった」
母はドアを締めた。階段を降りる音が遠ざかったところで、僕は再び口を開いた。
「見えてなかったな」
マコトは表情を失ってその場に立ち尽くしていた。自分が他人から認知されていないことは、本人にとっても衝撃だったみたいだ。
「ねえ、今、どうして驚いたの?」
「突然ノックされたら驚くだろ」
「違う。そうじゃなくて」
マコトはスマートフォンを見ている。
「写真には写ってなかった」
マコトは泣き出しそうなのをこらえているように見えた。僕らが洗面所の鏡のことを思い浮かべたのは同時だったと思う。階下に降り、二人で鏡の前に立った。僕の姿は写っていたけれど、鏡の中にマコトの姿はなかった。
洗面所まで行って戻ってくる間にいくつかわかったことがある。マコトはドアを自力で開けることができない。すり抜けることもできない。
「ジャンプしてみて」
マコトは軽く宙に飛び上がり、ふわりと着地する。落下のスピードは普通の人間と大差ない。けれど、接地したときに音がしない。
「幽霊みたいですね」
マコトは面白がっている風を装っていたけれど、口元が固くこわばっている。
「ドアは開けっ放しにしておくよ」
部屋に戻ってきた僕らは途方にくれていた。
「ヒロトに会いに行くのは、明日でいいか」
マコトは頷いた。
「私にできることはないんでしょうか」
マコトはこの世界に存在している。けれど力を作用させることができない。
「あるよ、お願いしたいことが」
「なんですか?」
身を乗り出してぐいと顔を近づけてくる。
「丁寧語は止めて。なんか、変な感じだから」
マコトはきょとんとした表情を僕に向けた後に、相好を崩して頷いた。
「わかりました」
あ、とマコトはすぐに間違いに気がついた。