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中学最後の夏休みは火傷が治るのを待っている間に終わった。宿題はできるところまででいい、と担任からは言われた。免除してくれないところは優しくない。周りは僕の受験勉強が遅れていくことを不安に思っているらしかった。夏休みが終わった後の総合テストの結果を受け取ってようやく、僕は自分の窮状に気がついた。
「お前も工業行こうぜ」
ヒロトはむしろ喜んでいるようだった。僕の将来の見込みは立っていないけれど、少なくとも、三年後に社会に出ているところは全然想像できなかった。
放課後は閉館ぎりぎりまで図書室で粘るようになった。自宅では駄目でも、場所を変えればやれる。学校で携帯電話が禁止されているのは、意外と悪いことじゃないのかもと思った。
問題文を読んで、作図してみて、教科書の例題を思い出しながら解答を考える。考えることは沼地を歩いて渡るのと似ている気がする。一歩踏み出すたびに足を取られて動けなくなる。もっと楽な道を探そうにも、引き返すのも困難で、一度思いついた考えが全然頭を離れてくれない。
「そんなとこに補助線引いてどうするんだよ」
思わず飛び上がりそうになった。僕の傍らに文庫本が積まれた。ちょうど本を返しに来たミツヤが僕の解答を覗き込んでいた。
「考え中」
「休みからやってるだろ」
そのとおりで、僕は今日一日ずっと同じところで行き詰まっている。
「こう引けば良いんだよ」
ミツヤは問題文の三角形を丁寧に書き写し、一本だけ補助線を引いた。直角をなす二篇が交わる交点から、向かい合う辺に向けて垂線を引いた。
「合同を使って、残りの二辺から斜辺を求めればいける」
ミツヤはそれだけ言うとカウンターのほうへ本を返しに行った。ヒントをもとに、図に文字を書き込んでいく。使うのは三つの辺の長さだけ。
合同な図形の比を取り、適切に足し合わせ、等式で結ぶ。ミツヤに見えるものは僕には簡単に見えない。けれど、適切な手順を踏んでいけば確実に見える。これまで隠れていた関係が、数式の上でおぼろげに見えてくる。頭の中で線と線がつながって、ようやく解答にたどり着いた。
「内接円使ったほうが早い」
池谷だった。池谷は僕の筆箱から勝手にペンを取り出してノートの余白に三角形を書いた。それと、内側に円をひとつ。そのまま記号と数式を書き込んでいく。
導出が終わるまでの式展開は、僕が書いたものよりずっと短い。半分もないくらいだ。その展開は論理的にきちんと正しいのか、僕には判別できるだけの知識がない。
「これ正しい?」
「そんなことより早く帰ったほうがいい」
「なんで?」
「あいつが探してる」
図書室の扉が開いた。場所とマッチしない大柄な体はヒロトのものだ。カウンターに座っていた図書委員の生徒が、読みかけの本を開いたまま僕らを交互に見た。私語を注意しようか迷っているみたいだ。けれど利用者は僕らの他にいないことを思ってか、再び読みかけの本に目を落とした。
ヒロトはつかつかとこちらによってきて僕と池谷の方を強く引いた。
「準備やるぞ」
僕らがたまたま一箇所に集まったのはこの日が最後だった。あの日の夜のことはまるで夢のように思えたけれど、この時だけは、あれは確かにこの世界で起こった出来事のひとつなんだと強く感じていた。
文化祭が終わり、期末考査が終わり、気が付かないうちに受験期が過ぎ去って僕は高校生になっていた。誰もが別々の進路に進んだ。ただ、僕と小池さんだけは同じ高校に入学した。たまたまクラスも一緒になったけれど、すれ違ったときに挨拶をするくらいであまり話はしなかった。
だから突然声をかけられたときには驚いた。廊下の掃除が終わり、残りの時間を皆で潰そうとしていたところだった。その時、僕はクラスメートの友人が夏休みの予定を話しているのをぼんやりと聞いていた。
掃除の終わりの時間が近づいて教室に戻っていくところで、小池さんと一緒になった。なにかとりとめのない話をしたと思うけれど、次の言葉の衝撃で、何を話していたのかすっかり忘れてしまった。
「夏祭り行く?」
「行くと思う」
「私も行く予定」
「さっきの友達と?」
「ヒロトくんと」
思わず声を上げた僕を観て、小池さんは満足げな笑みを浮かべた。
「いつから?」
「授業始まるよ」
その話はもう半年前に終わったものと思っていたから、どこか現実感がなかった。
ヒロトとは卒業以来会っていなかった。その話が本当かわざわざ確認しなかったけれど、その機会はあっさりやってきた。
ヒロトと小池さんが並んで歩いているところを見かけた。ちょうど夏祭りの日だった。クラスの連中は、小池さんが他校の生徒といるところを見てショックを受けていたみたいだった。ヒロトと小池さんがこの半年間をどう過ごしてきたのかを僕は知らなかった。ミツヤが夏祭りの会場に来ているのも、池谷がこっちに帰ってきているかも知らなかった。けれど、わざわざ連絡は取らなかった。
今、この瞬間がとても楽しい。クラスの連中と意味のない話をして、気になったものをを買って食べているうちにお金がなくなって、気がついたときには人の流れは帰りの方向に向かっている。ただ、もうあの場所まで火花を見に行こうなんてやつは僕らの中にいない。
仲の良かった恋人が転校していく当日に、主人公がその思いの丈を爆発させるシーンを観たことがある。そこまで好きなら自分も転校していく気概を見せろよ、と僕はずっと思ってた。所詮泣いて気分が晴れれば忘れてしまえるようなことで、明日にはけろりとして新しい恋人を作ったりとかしているんだろう、ドラマの主人公ぶって楽しみたいだけに違いない。
今でも僕は半分くらいはそう思っているんだけれど、もう半分はそうじゃなくなった。
主人公は恋人と別れるのが寂しくて泣いていたわけじゃない。ずっと続いていくと信じていたかった毎日は少しずつ、確実に、誰も止めようがなく消え去っていくものだということを思い知らされたから泣いていたのだ。
仲の良かった友達とは帰り道が別になって、身近にいたクラスメートはもうどこにいるのかもわからない。コーヒーに落とした角砂糖が不可逆的に形を崩していくみたいに、あの日、あの場所にいた人たちが一度に集まることはもう二度とない。思い出と寂しさを過去に積み重ねながら、そんな過去なんてなかったようなふりをして、その終着点に死が待ち受けているなんて嘘だという風を装って、僕らは毎日を過ごしていく。
それでも時々、奇跡のような瞬間に出会うことがある。その瞬間にはすべての時間が止まる。過去も現在もなくなって、今目の前にある光景が世界の全てになる。
強烈な既視感を覚えた。人混みの間を歩いてく小さな背中が見えた。僕は思わず駆け出していた。馬鹿みたいに金魚すくいに熱中するやつはもういない。火花を見に行こうなんてもう誰も言わない。未だにそんなことをしているのは僕だけだった。まだ奇跡は起こると信じてみたかったからだ。
小柄な浴衣姿にすぐに追いついた。彼女は何かを探しているみたいに見えた。まるで夢の中をさまようみたいにあちこちを見回しながら、危なっかしい足取りで歩いていく。僕の呼びかけには答えてくれなかった。手を伸ばして肩を叩こうとしたけれど、人混みに押し流されて狙いをはずした。一歩踏み込む。ちょうど後ろに触れて細い腕の手首を掴んだ。
彼女は立ち止まった。会場を満たしていた熱気と、空気をかき乱すさざめきが急激に沈んでいく。
白いカーテンみたいにひらりと翻るみたいに、彼女はこちらを振り向いた。今年の開花は、例年よりもずっと遅いらしい。




