13
約束の時間は夜の七時だった。午前中はずっと寝ていて、いい加減にしろとマコトに叩き起こされたときには昼を回っていた。
その日のマコトは何度も時計を確認して時間を待っていた。楽しみにしていたんだと思う。僕もつられてわくわくしていたくらいだ。まるで小学生のころに戻ったような気分だった。
マコトは待ち切れないか家の中をそわそわと歩き周り、散歩に行くと言って外に出た。玄関のドアがひとりでにノブを回して開くところを目撃されるリスクを下げるため、僕は家の外まで見送った。
出発の時間の六時になっても、マコトは帰ってこなかった。
このあたりの地図は、マコトが小学生だったころから変わっていない。迷うような場所でもない。不審者の情報は何件かあったけど、マコトをどうにかできる人間は、幸か不幸か一人もこの世界に存在しないはずだった。
両親に出かけるとだけ言って、マコトを探した。そんなに遠くには行っていないはずだった。まだ空は明るく、日差しと大気の熱に汗が吹き出してくる。しばらく探し回って、マコトは集合場所に先に行ってしまったかもしれないと思いついた。そうに違いない。あれだけ楽しみにしていたから、集合場所を勘違いしているのかもしれない。
引き返して電車に乗り、集合場所に到着したときにはまだまだ十分ほどの余裕があった、
広場には屋台が現れ、アーケードや植木からは提灯や電飾が吊り下がって会場までの道を示していた。駅前はすでに人混みで賑わっていた。
駅前の屋台を探した。それから駅を一周して正面改札まで戻ってきた。マコトの姿はどこにもなかった。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。不安を煽る音が近づき、そして尾を引いて遠ざかっていく。その間に僕は、自分が安心できて、そして説得力のある理由を頭の中で探し続けていた。
もしかしたら先に行ってしまったのかもしれない。
そんなことあるわけないとわかっていた。マコトはそんなことをするやつではない。集合場所を間違えるなんて馬鹿馬鹿しい。それでも、僕は、ありえない可能性を無理やり自分に信じ込ませようとしていた。もうタイムリミットが来てしまったのかもしれない。僕は最後のチャンスをすでに失ってしまったんだと、少しでも考えなくて済むように。
と、肩に手を置かれた。安堵と期待が胸に広がる。自分の考えていたことは、全部勘違いだったんだと本気で信じて僕は後ろを振り返った。
「マコ……」
「何うろうろしてんだよ」
ヒロトだ。怪しむような目を僕に向けてくる。
「なんだよ」
「え?」
「何か言おうとしただろ」
「待ちくたびれたんだよ。遅すぎて」
ヒロトは左右を見回して、すぐに広場の真ん中に立つ時計を見つけた。二本の針がちょうど七時ぴったりを指したところだった。
「お前が早すぎるんだ」
ミツヤはそれから十五分ほど遅れてやってきた。
「じゃあ行こうぜ。男三人なのは残念だけどな」
飄々と告げるミツヤにヒロトは文句を言った。
マコトのことがずっと気がかりだったけれど、どこか浮足立った気持ちもあった。
町の一角が、その日の夜だけはまるで別の世界に置き換わったみたいに賑やかになる。山の中腹、秘密基地から町を見下ろすと、暗い闇に沈んだ町の一部が明るい光で満ちていて、そこが祭りの会場だとわかる。
町の中心にできた即席の光の迷路からは、楽器の音や人の声がかすかに聞こえてきて、今日はいつもと違う特別な日だということがやっとわかってくる。すると、わくわくするような感覚が湧き上がり、一秒だって立ち止まっていられない気分になる。
けれど幼いころの素直さは影を潜め、やがて斜に構えた冷静な自分が姿を現してくる。昔の自分が、どうしてあんな幸福な気分になれたのかわからない。まるで魔法でも見ていたみたいだった。
マコトはどこに行ったのか。ここで一体何を見たのか、何を聞いたのか。そのことばかりが気にかかって。ぼんやりしていたせいで何度も人の足を踏んだり正面衝突をしそうになっていた。
「金魚すくいにはコツがあるんだ」
熱っぽくそう語ったのはヒロトだった。和紙とプラスチックでできたポイを僕に見せてくる。
「まず、金魚の尾ひれが和紙に当たらないようにすることだ。ポイは、尾ひれがばたついたところから破れることが多い」
「後ろから追いかけるんじゃなくて前から迎え撃つ」
僕は機械的に復唱した。
「そういうことだ」
ヒロトは腰を落としていけすに向かう。
「入れる角度も重要だ。水の抵抗を出来る限り減らす」
「出来る限り水面に対して並行にすればいいな」
「できるだけ浅め、人によるが俺の場合は十五度くらいがやりやすいな。ともかく、水の流れを和紙でまっすぐ受け止めないことだ。当たり前だが大きい金魚のほうが難しい。小さいやつを探すんだ」
いけすを泳ぐ無数の金魚を選定し始める。何かのドキュメンタリーを見ているみたいだった。
「こいつは違うな」
「一番楽しんでない?」
「あいつはそういうやつだ」
ミツヤは、ヒロトが背を向けたのを見計らって僕の肩を叩いた。
「なんか言ったか」
腰を落として僕らを見上げる。
「中学生にもなって金魚すくいを楽しめるのって才能だよな」
「うるせえ」
「褒めてるんだよ、本当だって」
ヒロトは再び金魚の選定に戻った。僕もひとまずその作業に加わることにする。
「一番隅にいるやつがいいんじゃないか。弱そうだし」
「あんまり弱ってるやつは家に持って帰れない」
どうやら独自のこだわりがあるようだ。
「ヒロトはいつの間に金魚すくいガチ勢になったんだろう」
「俺に聞かれても」
ミツヤは、やれやれと言ったふうに首を振った。
ヒロトは大きな体に似合わない丁寧な動作でポイを水面に近づけた。狙いの一匹が水面に浮かび上がってくる。比較的小さな、それでもちょっとだけの動きの早い一匹だ。
素早くポイを落とし、正面から金魚をすくいあげた。僕の目には、金魚が自分から進んでポイの上に乗ったように見えた。ポイの端から飛び出した尻尾がぱたぱたと揺れている。慣れた動作で手首を返すと、ぽちゃん、と小さな水しぶきを立て、金魚はお茶碗に収まった。ポイには穴が空いていない。
ヒロトは水に濡れた和紙を見分した。
「やってみろよ」
ポイを渡してくる。僕はなんのプロフェッショナルでもない。あっけなくポイを破ってしまうと、ヒロトはため息を吐いた。
「楽しんでるようで何よりだ」
とミツヤが言う。
「お前が言うとなんでちょっとムカつくんだろうな」
「ストレスが溜まってるんだ。今日のうちに発散しきっとこうぜ。お化け屋敷でも行くか?」
「お化け屋敷?」
「でかい声出せば気が晴れるだろ」
ヒロトは取った金魚をいけすに戻していた。僕が指摘すると、取ったものの持って帰るのは面倒くさいらしい。ヒロトもちょっと、こう、変わったところがある。
戦利品だと僕ら三人にお菓子をくれた屋台の店主に、僕は聞いてみた。
「火花を見に行ったことはありますか?」
「毎年見てるよ、この場所から」
店主は、露天の並ぶ先に見える小高い山のほうに目をやった。毎年、火花はあの場所に咲く。
「開花の瞬間を、あの場所まで見に行ったことはないですか」
「火花は遠くから見るものだよ」
店主は肯定も否定もせず、それきり口を閉ざした。感情を押し殺したその表情は、明らかに僕からの質問を拒否していた。
と、僕の足元を小さな影が通り過ぎる。浴衣を着た子供がいけすに駆け寄ってくる。店主の硬い表情が柔なくなり、小さな子供を目にした大人がいつもそうするような笑みを浮かべた。おぼつかない手つきで財布から取り出した百円玉三枚を受け取って、店主はポイを手渡した。
僕に背を向け、店主は地面にしゃがんだ。ポイを手にいけすを熱心に見つめる女の子と目線の高さを合わせて、ポイの使い方を教え始めた。もう僕と話しをしようという気はないらしい。
「邪魔だろ」
ヒロトの言うとおりだ。さっさと歩いていこうとする二人を追いかける。
「何か知ってる感じだったよ」
「あんな変なタイミングで聞くか?」
「悪いことは何も起こってないだろ。次はあれやってくれよ」
コルク銃の中で空気の爆ぜる音が聞こえた。射的だ。
「変わらねえなお前ら」
ヒロトの活躍は目覚ましかった。五発与えられたコルク銃で五個の品物を落とした。店主はヒロトの使ったコルク銃を点検してさえいた。
「景品に当てる最適な距離があるんだよな。コルク中の仕組みをちゃんと考えれば適切な戦略が取れる」
「考えるんじゃなくて体で覚えるんだよ」
ヒロトは袋の中の景品を取り出した。まずはゲームソフト。ぬいぐるみは野次馬に集まってきた女の子にあげていた。
「こいつは売却だな」
きっと五千円くらいはするだろう。結構な収入だ。今日一日全力で遊んだとしても十分お釣りが来る。
時計も落とした。こいつも売却して本日の収入にするらしい。キャラメルの箱から一個取り出して口に放り込む。
袋の底に残っていたのは平らな箱だ。両手の塞がったヒロトに代わって僕が開ける。丸い金属が電灯の明かりを受けて光った。
「なんだこれ」
ヒロトがキャラメルを食べながらしながらつぶやく。金属製のキャップが付いていて、時計のように見える。蓋を開けると、磁気を感じて北を向く矢印が震えている。方位磁針だ。
「電波が届かないとこに行くなら丁度いいな」
ヒロトの言葉を最後まで聞かない。ヒロトは露天の続くずっと向こう、月の照らす明るい夜空に山の陰が浮かび上がっている。毎年あの場所に火花は咲く。
「迷ったときに役に立つかもね」
「GPSのほうがいい。あったところであそこまで行けないぞ。見張りを立ててる」
「なんでわざわざ」
「見物客がたくさん来たら危ないからだろ」
「それ以外の理由があるかもしれない、って僕は思ってるんだけど」
「マコトの言うことを真に受け過ぎなんだよ」
「ミツヤは本当になにもないと思っていのか」
「俺はどっちでもいい。何かあったほうがいいとは思ってるけど。そっちのほうが面白いだろ。ヒロトもそう思わないか」
ヒロトは景品の時計を弄んでいた。ボタンを押すたびに文字盤がちかちか光る。もう八時を過ぎていた。
「実は一番楽しみにしてるって俺にはわかってるんだぞ。こいつめ」
「気持ち悪い呼びかけするんじゃねえよ」
ミツヤの幅広な背中と柳みたいなミツヤの姿とが、夜店から漏れる明かりの中で影になって揺れている。
ずっと昔の光景を思い出す。二人はマコトのことなんて構わずに、気になったものがあると先に歩いて行ってしまう。一方の僕は、取り逃した景品を悔しそうに眺めるマコトを動かす「てこ」の役割を買って出た。
誰かに呼びかけられたような気がした。後ろを振り返る。露天にかかったすだれの向こうから、誰かが手を振っている。
知った顔だった。
「池ヶ谷? 何やってんの」
「焼いてんだよ」
甘い匂いが鼻をついた。テントには確かに「大判焼き」とある。
「夏祭りには来ないんじゃなかったのか」
「俺は参加してない」
池ヶ谷は鉄板から大判焼きを取り出して紙の袋に詰めた。並べた端から、お客さんがやって来て買っていく。
「仕事なんだ。せっかく来たんだから食ってけよ」
聞くと、池ヶ谷は親戚の手伝いらしい。紙袋をひとつもらう。熱い。
「百二十円な」
ベタな手口を無視して僕は大判焼きをいただくことにした。
「お前こそ来ないって言ってただろ」
「いろいろあるんだよも」
曖昧な相槌が返ってくる。池ヶ谷はボウルの中でペースト状になった生地を回し始めた。
「迷子か?」
池ヶ谷は手を止めた。顔を上げ、僕の肩越しに向こうを見る。ヒロトとミツヤだ。池ヶ谷が舌打ちしたのは気のせいだと信じたい。
「知り合いがいたんだよ」
ヒロトはようやく気がついたらしい。
「池ヶ谷くんじゃん。何してるんだよこんなところで」
「見たらわかるだろ」
池ヶ谷は明らかに機嫌を悪くしていた。棘のある言葉にヒロトが表情を固くする。
僕は英語の授業を思い出していた。英語のいいところは、名字で呼ぶか名前で呼ぶか、さん、をつけるとか、くん、をつけるとか、そういうやっかいな文化とは無縁に思えるところだ。実際は、あっちはあっちで違う地獄が存在するんだろうけれど。
ヒロトは池ヶ谷に返事をしなかった。
「俺達は先に行くぞ」
ヒロトはミツヤを引きずるみたいにして行ってしまった。
「あいつらと仲いいんだな」
大判焼きを食べ終えるまでの時間を無限に長く感じる。
「小学校からの知り合いなんだ」
池ヶ谷は去っていく二人にできるだけ目をやらないようにしていた。
池ヶ谷はやってくるお客さんをさばき始めた。僕と話をするつもりはもうなさそうだ。テントを出る。先に行ってしまった二人の姿を探す。すぐに見つかった。大柄な体躯が僕に向けて手を振る。
「池ヶ谷くんも来るんだな」
「あいつが池ヶ谷か」
「ミツヤも知ってる?」
「賢いやつだって聞いた」
「変人だよ。こいつがいっつも一緒にいる。なんでお前はあんなやつと飯食ってるんだ」
「悪いやつじゃない。確かにどうかしてるとこはあるけど」
「俺たちがみんなで集まって楽しくやろうとしてるところを、自分だけ外から離れて馬鹿にしてるひねくれてるやつがいるだろ」
「ごめん」
「お前のことじゃない」
ヒロトは笑った。そう言われてほっとしてしまう自分がむなしい。まるで二重スパイみたいな気分だ。僕は池ヶ谷の弁護を止めた。ヒロトの意見にも同意しないことにした。こうして、両方からの信頼を得ようとして両方を駄目にしてしまうのかもしれない。
「でもあいつみたいになるなよ。馬鹿やるのだってそれなりに大変なんだぜ。わかんないかもしれないけどな」
池谷とヒロトはきっと、得意なものと苦手なものが入れ違いに鳴っているだけなのだ。
僕らの間に落ちた沈黙を、お祭りの活気かあっというまに満たしてしまう。人が時々こういうお祭りをやるのは、そうしないと人類が孤独や不安に押しつぶされてしまわないためだ。
お祭りの喧騒が密度を増す。お店をいくつか訪ねて、火花のことを聞いた。何もわからなかった。店員から怪訝な表情を何度も向けられては退散した。当てがないと思いながら、実は来てみれば何か見つかるかもしれないとずっと期待していた。
ずっと昔も同じようなことがあった気がする。幼い頃の無根拠な自信で、僕はなんでもできると思っていた。思いついたことを全部やっていけばいつか欲しいものが手に入るという確信があった。それが見込み違いだとわかるくらいには賢くなった。できることが増えるほどにできないことも増えていく。
「どうする」
ヒロトは途方にくれた調子で呟いた。
「結構楽しかったよ、俺は」
ミツヤが言う。
「まあな」
「確かにお前は一番楽しんでた」
「そういう主義なんだよ」
ヒロトの戦利品はまとめてリュックの中に放り込んである。
「ヒロトは運がいいよ」
「射的は死ぬほど研究と練習を重ねた結果なんだよな」
とミツヤが言う。ヒロトの表情がこわばった。
「……ずいぶん変わった趣味だね」
「なんでうまいのか教えてやろうか」
ヒロトの表情がこわばる。つい今の瞬間まで、ミツヤの存在を忘れていたみたいだった。
「おい、ミツヤ」
「マコトが欲しいって言ったからだ」
まるで水産画のように滲んだ記憶が、はっきりした輪郭を持って目の前に現れた。
「余計なこと言うなよ」
「自分で言ってたじゃないか」
「それは、なあ……」
「俺たちも同じなんだよ。やっぱりなにかあるたびに、ふっとマコトのことを思い出しちまう。どれだけ何を考えたところで、もう話ができるわけじゃないのにな」
死んでしまったらもう話せない。それでも僕らは、記憶の中にその姿をずっと留め続ける。
「忘れたほうがいい」
ヒロトは声を低めた。
「そんなことないだろ」
「俺たちにどうにかできるのは今だけなんだよ」
ヒロトがそんな話をするなんて思っていなかった。僕の驚きはそのまま顔に現れてしまったのか、ヒロトはちょっとだけ不満そうな表情を見せた。
「お前もミツヤも、自分だけが一番頭がいいと思ってるみたいだけど、それは大きな勘違いだぜ。ただ、見てるものが違うだけなんだ」
「思ってないって」
実は図星を突かれていたなんて言えない。ミツヤは我関せずといった様子で話に入ってこなかった。
「ただ集まってみたかっただけなのかもな」
お祭りの喧騒は終わりに向けて静かになっていくけれど、子供たちはそんなことを気にかけない。このお祭りは永遠に続くんだと本気で信じているみたいに、彼らは賑やかな笑い声を上げて夜店の間をかけていく。
マコトがいたあの夏のことも、四人いれば世界のどこにでもいけたような気がしたときのことも、すべてもう終わったことだった。
マコトは見つけられなかった。