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#21 そして魔女は祈りを謳う

 ヒースエンド大聖堂にも、春はやってくる。本当に僅かな期間の間だけ、雪に閉ざされたまま、それでも吹き荒れる吹雪が収まり、まるで世界が眠りにつくような瞬間がある。

 その瞬間を狙い、青年は最果ての地を目指していた。世界を旅するようになってもう八年になる。“彼女”の死を知ってからというもの、彼はその亡骸の眠る場所へ毎年一度、この時期に足を運んできた。

 穏やかな日差しが差し込む、それでも肌寒いその白銀の世界を青年は歩く。雪に足跡を刻み、軽やかな音を楽しみながら……。




 ――クィリアダリアという国が崩壊してから、五年の月日が流れた。

 神の国は、その神そのものを失い滅びの道を辿った。およそ人が想像し得るありとあらゆる混乱が国を襲った。その結果それまでの常識と当たり前にあった歴史の流れは砕かれ、やがて無法の時代が訪れた。

 なぜ、大聖堂が沈黙したのか。なぜ、大陸外への侵略行為が中断されたのか。なぜ世界の各地に突然使徒と呼ばれる魔獣が出現し人々を殺戮したのか。それは誰にもわからなかった。

 真実を知る者達は神の死とその恩恵の消失により倒れて行った。神に依存した永遠は、神を失えば塵に還るだけ。本当の事を知る者は殆ど誰もいないまま、一つの歴史がまた終わろうとしていた。

 国としての体裁を成さなくなったクィリアダリアは各地で勃発する魔獣との戦いをけん引するだけの力を持たず、やがて一度は潰えた筈の中立都市の復権により、崩壊した治安は徐々に回復の兆しを見せた。

 一つの神の名の下に強制された統一社会が崩れ去り、それぞれの主義主張を持つ中立都市が最大のコミュニティとなった今、再び人間同士の戦争の時代が幕を開けるであろうことは誰もが予感する事であり、決して避けられぬ未来でもあった。

 神を失った事でまた人は戦争の時代に逆戻りしたのだ。以前までと、これからと。そのどちらが正しかったのか。どちらが“まし”だったのか。そんな事は誰にもわからない。勿論、世界を旅するこの青年にも、判断出来ない事であった。

 青年は冒険者だった父を追い、自らも冒険者となった。様々な出会いを重ね、見識を広げ、思慮を深め、成長と共に夜を超え、そしてやがて真実の片鱗へ辿り着くに至った。

 彼の父親はやはり冒険者で、だからこそ最後まで冒険者であった。

 ザックブルム領にある深い森の中、父は魔女と共に暮らし、共に果てたと知った。魔法で吹き飛ばされた小屋を眺め、その前に作られた簡素な墓を見つけ、青年はただその前に立ち尽くした。

 涙は流れなかった。むしろ心は穏やかで、どこかすっきりしてさえいた。そう、最初から父の死は受け入れていた。ただその最期がどのようなものであったか、それが心残りだっただけ。

 父は魔女と共に暮らし、この近隣の村からは忌むべき存在であると言われていた。自分の身内である事を明かしさえしなければ、彼らは口々に厄介者の愚痴をこぼしてくれたし、この場所を聞き出すのも簡単な事だった。

 青年はそこで、恐らくこの魔女を倒したというもう一人の魔女の存在に行きつく事になる。それは青年がまだ少年だった頃、一度だけ出会った事のある友の名であった――。




「……久しぶりだな、レヴィ」


 ヒースエンド大聖堂の傍にある丘に、その立派な墓標はあった。

 少年はその前に膝をつき、友人との再会を喜んだ。墓標に刻まれた名は彼女の本当の名前ではなかったが、彼女自身がその名を刻む事を望み、このような形に落ち着いたのだ。

 蒼き髪の魔女、レヴィアンクロウ。誰よりも心優しく、誰よりも純粋で、誰よりも愛に満ち溢れた少女は死んだ。これはそんな彼女の、世界の表側に出る事が出来ない彼女の為の墓標だ。十字架をそっと撫で、青年はゆっくりと立ち上がった。


「……イーサ」


 その時、背後から声がかかった。そこには碧の髪を持つ魔女が立っていた。黒いローブを纏い、口元を布で隠している物の、その女がとても美しい事をイーサは知っていた。なにせ数年間一緒に行動した仲なのだ。つまり彼女もまた、彼の馴染みの友人であった。


「シャル。お前も来てたのか」


「今の時期しか、ここには来られないから。君もそうでしょう?」


「……だな。流石に吹雪の中こんな辺境まで来るのはしんどい」


 肩を竦めて笑うイーサ。シャルルヴィアーノはそんな彼を聖堂の中へと導いた。

 かつてヨトが舞い降りた地であるとされたその聖堂は神聖で荘厳な雰囲気に満ち溢れていた。だが今はその静寂の中に信者達の声を聴こうとしても、それは叶わぬ夢。きっとここに足しげく通ったであろう多くの人々の気配は既になく、そして恐らくこれからもきっと、誰かがこの地を訪れる事はないだろう。そう、この二人を除いて。


「シャルと会うのも一年ぶりか。最近はどうしてるんだ?」


「魔獣と使徒の対処……相変わらずだよ。もうあれをまともに始末できるのは、魔女だけだから。そういうイーサは?」


「外の大陸に行ってきた。んで、帰ってきた」


「そう。外の世界はどんな所なの?」


「んー……いや、一言には説明できないな。ただ、やっぱり外の世界も戦争ばかりだよ。旅人ってだけで殺されそうになるなんて事はしょっちゅうだった。やっぱり人間は、お互いの血を見るのが好きで好きでしょうがないんだろうな」


 苦笑を浮かべながらぽつりと零すイーサ。古ぼけた長椅子の一つに腰掛け、ステンドグラスから差し込む光を眺める。穏やかで、温かい光。それを見ていると時間がゆっくりと流れ始める。

 イーサがシャルルヴィアーノと出会ったのは、民間人が結託して作り上げた対魔獣討滅組織に参加した時だった。イーサは冒険者であり、身体は常に鍛え、剣の訓練も怠らなかった。そんな彼は行く先々で悲劇を目の当たりにし、自分に出来る事を探し組織の一員となった。

 組織のリーダーはアイネンルースという聖騎士であった。この世界にたった一人だけ残された聖騎士であるアイネンルースは死力を尽くし、使徒と戦い抜いた。だがやがて活力の糧であった聖水が尽きた事により、体中がゆっくりと腐りはじめ、正気を失い、あらゆる記憶を取りこぼして行った。死ぬよりも悍ましい苦痛と恐怖に苛まれ、かつて愛した男の名を呟いた彼女を殺したのは、彼女がずっと共に歩んできた毒の魔女による口づけであった。

 涙を流しながら腐ったアイネンルースを抱きしめ深く口づけを交わしたシャルルヴィーアノの姿をイーサは鮮明に記憶していた。それから二人は、別々の道を歩み始めた。

 あの世界の何もかもが恐慌していた時代。シャルルヴィアーノはそれでも戦い続ける事を選び、イーサは戦い以外の希望を見つけようと歩き出した。だが二人が選んだそれぞれの道は、結局の所どんな光にもたどり着く事はなく、ただあきらめにも似た絶望と共にこの地へ帰結した。


「人間は……呪われているのかもな。神に……もしもそんなものが存在するのなら。神様って奴に、どこまでも見放されてるとしか思えない」


「神なんていないよ。人間が作り出した都合のいい幻想だ。免罪符、と言い換えてもいい。神も所詮は人の道具。人の玩具だよ」


「人間にとっちゃ自分たちの命さえ玩具さ。欲を満たす為のな。殺し合っていなければ生きている事を感じられないんだ。それが罰でなくてなんだと言うんだ」


 かつて戦争があった。ひどいひどい戦争だった。しかしそれが始めてではないのだ。

 神により人に知恵が授けられてからというもの。神を殺して玩具にしてからというもの。何度も何度も、何度も何度も繰り返されてきた。血で血を洗う闘争。何度繰り返しこの大地の上に地獄を再現しても、人は己の愚かしさを顧みる事はない。

 あらゆる欲望を満たす為に当たり前に命を滅ぼし、生まれ行く命に新たな業を背負わせ、いつかは刈り取るのだ。永遠に続けられる、繰り返しの殺戮輪廻。地獄とは、まさにこの世にある。

 僅かに残された食料を奪い合い、互いに刃を指し合う人々を見た。

 魔獣に蹂躙され、まるで土人形のように腕の一振りで粉々になった人々を見た。

 どちらが正しいだとか。どちらがより優位だとか。そんな言い争いをしながら首を絞め合う人々を見た。

 より豪華な食事をしたかったから隣人を殺し。より豪華な家を建てたかったから隣人を殺し。より美しい女を抱きたかったから隣人を殺し。この世界はただ奪い合う事でしか成り立たず、奪い合う為の手段は常に死を伴っている。


「……疲れちまった」


 子供の頃は平和を信じていた。人を信じていた。

 戦争が終わって。長く長く続いた戦争が終わって。やっと平和の為に歩き出そう。そういう世界だった。だから希望を信じてた。未来を信じていた。


「俺達はあとどれくらい殺し合えばいい? 俺達人間は……どこまで罪を重ねれば許されるんだ? 俺はもう嫌だよ。こんな世界……俺はもう、嫌なんだ」


「それでも、ただ生きる事しか出来ない。ボクも、君も」


「レヴィだったら……それでも……信じたかな?」


 顔を上げ、青年は光を見つめる。

 虹色に輝く光。穏やかで温かくて、心安らぐ光。


「まるで……あいつみたいだ」







「――――スター……」


 声が聞こえた。


「マ…………スター……」


 その声が、男を死の淵から引き寄せる。

 極寒の世界で男は再び目を開いた。すっかり日の暮れた空からは雪が降り注いでいた。少女は男の目の前に跪き、顔を覗き込みながら涙を流していた。


「レ……ヴィ……」


「マスターッ! 良かった……返事をしてくれた……!」


 男は思い出す。自分が何を守ろうとしていたのか。そしてその結果どうなったのか。


「ペルは……」


「死んではいないと思います。でも、動けない筈です。マスター、掴まってください。わたしがここから、マスターを連れ出します」


「どう……やって?」


 少女は寂しげに笑って目を閉じた。その瞬間世界の全てが少女に微笑みかける。雪を降らせた分厚い雲が晴れ渡り、降り注ぐ月明かりの下、少女は自らが引き続けた棺から、自らの力の源を引き寄せる。

 紋章が浮かび上がった棺が光を放つと同時に開け放たれ、まばゆい輝きの中に消えた少女はやがてその背に黒白の翼を纏って男の前に降り立った。そして小さな腕で男を抱きかかえると、まるで重力など感じさせずにふわりを舞い上がり、翼を羽ばたかせると同時、軽やかに天空へと舞い上がった。

 まるで天使だった。お伽噺に描かれる天使い。少女は男を連れて崖の上に降り立った。淡い光を帯びたその少女は最早人間ではなく、魔女ですらなく。もっとより根源的で、かつ神聖な存在へと成り果てていた。

 少女の腕から降りた男は傷を庇いながらゆっくりと立ち上がる。少女はその手を取り、優しく微笑みを浮かべた。


「一緒に行きましょう。最後まで、二人で一緒に」




 ――それは、まるでお伽噺のような旅だった。

 男は体中から血を流しながら雪道を歩いた。先ほどまで猛吹雪だったというのに、あり得ない事に空は快晴だった。今にも降って注ぎそうな眩い星たちに照らされて、二人は約束の場所を目指した。

 少女は何度も男を励まし肩を貸した。男は血を吐き、折れた足のせいで何度もよろけ、雪の上に伏せた。後ほんのわずかな道程なのに、それが幻のように遠く感じられる。


「マスター……大丈夫ですか?」


「あ、あ……」


「……大丈夫なわけ、ありませんよね。マスター、わたしの……わたしの血を飲めば……」


「俺を……黒騎士と同じ、化け物にするつもりか? 魔女の血が効くのは、一人分、だけだ。俺はもう……最初から、血が流れているから、な……」


 息を荒らげながら立ち上がり歩く男。よろめきながら、それでも少しずつ進む。一歩ずつ、一歩ずつ……その歩みに祈りと願いを乗せて、何かに取りつかれたかのようにただ、前へ。


「マスター……このままじゃ……っ。わたしの……わたしの、魔法を使えば……」


 その腕を掴み男は首を横に振る、そして息を深く吐きながら言った。


「俺に……魔法を、使わないでくれ」


「どうして……」


「治癒の魔法を使っても、俺は恐らく助からないだろう。お前は使った事がないだろうから……知らないだろうが。治癒の力で蘇生をしても……それは、以前とは違うモノになる」


 黒騎士がそうであったように。そしてウェルシオンが蘇生した騎士達がそうであったように。

 神の力に、神の血に縛られた者達は、すべからくその身体を魔に支配されて行く。


「ステイルガルドは……後悔していたんだ。命を弄んだ事を。俺達は……確かに、弱い。いつ死んでもおかしくない。聖騎士でも、魔女でも、同じだ。だからこそ……生きている。いつかは倒れるからこそ……今、生きていると、胸を張ってそう言える」


「でも、わたし……わたし……マスターを……失いたく……ない……っ」


 “いけないこと”だなんて百も承知の上だ。

 “ひとでなし”になるかもしれないなんて、知ったことではない。

 “ちがうもの”だったとしても、愛する人を失うよりはずっとましだ。


「独りぼっちは……さびしいですよ、マスター……っ」


「……ごめんな。それでもやっぱり俺……人間として、死にたいみたいだ」


 まるで少年のように笑って男は前のめりに倒れた。体中から流れる鮮血が雪を赤く染めていく。慌てて駆け寄る少女に男は虚ろに視線を向け、絶え絶えに呼吸を繰り返す。


「いやぁ……いやあっ! だめ、死なないで……一人にしないで、マスター……!」


「俺、おまえ、に……何も……してやれなかった、な。ただ……ウェルシオンの代わりに……してただけだ。それなのに守れないなんて……本当……だめな男だよな」


「誰かの代わりでもいい! それでもあなたと一緒に居られて幸せだったからっ!!」


「お前の、生き方は……お前の、自由に選べ。誰かのせいには、出来ないぞ。俺から教えられる……最後の、事だ。自分の人生の意味を……価値を……理由を……。誰かのせいじゃない。誰かに言われたからじゃない。誰に否定されても、いい。それでもお前の命を……」


「マスター……マスターッ!!」


「――お前の本当の名前は……なんていうんだ?」


 男は力なく笑いかける。少女はその手を両手でぎゅっと握りしめ、涙をこぼしながら言葉を紡いだ。それが男と交わした最後の言葉で。そして真実は結局、紡がれる事もなかった。


「……いやぁ……」


 光を失った男の瞳を見つめ、亡骸に縋りつく。


「いやああああああああああっ!!」


 絶叫と共に、止まっていた時が動き出すかのように。静寂が破れ、風が吹き荒れた。まるで少女の心を表すように。その深い絶望で自らを消し去ろうとするかのように。

 男を抱いたまま、少女は空を見上げて涙を流し続けた。悲痛な慟哭は止まずに鳴り響いた。やがてそれが止まる頃、ぷっつりと糸が切れたように少女は俯き、ぼんやりと目を開けたまま、うっすらと口元に笑みを浮かべた。


「………………………………いきかえらせ……れば」


 それですべてが解決する。この死よりも苦しい絶望も、闇そのものに染まった未来も、一撃で全てを逆転できる。輪廻を捻じ曲げ運命を踏み砕き、神を冒涜する。それだけの力が少女にはあった。知っていたのだ。その気になれば星の魔女は、世界を終わらせたり、救ったりも出来ると。


「この力があれば……わたしは、神にだってなれる」


 涙を流しながら穏やかに笑みを作り、右手を男の胸に重ねる。少し祈ればそれだけで願いは叶う。この星という膨大な命の固まりは少女に微笑みかけるだろう。ただそれだけですべてが変わる。それだけで、この男の全てが自分の物になる――。

 男の笑顔も。厳しい横顔も。剣を見つめる憂鬱な眼差しも。自分を見る苦しげな瞳も。

 敵と戦い傷つく背中も。仲間と語り合いグラスを鳴らしたその穏やかな表情も。

 指先も、手足も、瞳も唇も内臓も髪も、命そのものを自在に出来る。本当に心から愛する人が本当に一から十まで自らの思うが儘になる。なんという贅沢な幸福だろうか。


「そう願って、つけられた名だから……」


 ――いとも容易く神に堕ちる。


「……だから……」


 ――筈だった。


「なのに……どうして……? どうして……どうして、どうしてどうして……? どうしてぇ……!」


 楽しかった思い出が、次から次へと浮かんできて。

 幸せな時間が。多くの出会いが。触れ合った温もりが何度も何度も脳裏を過るから。


「できないよぉ……できない……できないんだよぉ……っ!!」


 簡単な事なのに。ほんの少し願うだけで叶う夢なのに。


「わたしどうして……どうして……マスター……マスターを……殺したいの――!?」


 そのたった一歩が踏み出せずに。愛する人を、見殺しにした――。

 呆然とするその思考の中、身体は勝手に立ち上がっていた。

 理解を超越した状況の中、少女の身体は吹雪の中で男の亡骸を抱え上げた。

 涙を流し、無表情に、機械的に。少女は棺の中へ男の身体を押し込んでいく。男の身体は全部は入りきらなかった。だから足を切り落とし。腕を切り落とし。彼が持ち続けたその剣で男の身体を運べるように寸断し、その四肢を丁寧に棺に納めた。

 男の全てを収めた棺は重くて、とても重たくて、それでも少女は歩き出す。その歩みを阻む猛吹雪は、まるで少女の中に眠るもう一人の自分が、自分自身を否定しているかのようだった。

 なぜ、歩いているのだろう? もう、旅は終わってしまったのに。

 なぜ、それでも進んでいくのだろう? もう、すべてが終わってしまったのに。


「――違う」


 終わって等いないのだ。まだ、何も終わって等いないのだ。


「――違う!」


 救いなどなくてもいい。その先に絶望しか待っていなかったとしても構わない。


「それでもわたしは――!」


 何度だって違うと言える。何度だって、これでよかったんだって言える。

 そうだ、胸を張って世界に叫べる。これが自分だ。これが自分の愛した人だ。

 これが自分たちの旅路だ。誰に決められたわけでもない。自分で選んで。苦しんで迷いながら続けた旅の果てだ。それは誰にも否定させない。神にも、自分自身にさえも――。


「もう少し……」


 険しい雪道も関係ない。諦めなんて言葉、とっくにどこかに落としてしまった。


「あと少しで……」


 ――化物だなんて言わせない。これが人間として自分が選んだ道の果て。


「マスター……」


 彼の命はもうそこになくとも。彼はすぐ傍にいる。二人一緒だから、それでも前へ。


「人間に……」


 ――人間になるって、そう決めたんでしょ?

 誰からも愛されなくても、自分を愛するんだって決めたんでしょ?

 否定されて否定されて、生きていてはいけないと言われても、生き続けると決めたんでしょ?

 独りぼっちじゃないって事、知ってるんでしょ?

 誰かと繋がれることの喜びを、知ってるんでしょ?

 友達も、仲間も、尊敬すべき人も、愛する人も、分かってるんでしょ?

 例えその運命の全てが自分を縛り付けても……。

 それでも最期まで足掻くんだって……そう、決めてたんでしょ――?


「誰か……!」


 ここで最後の秘跡を授かる。それで旅は終わる。


「誰か……!!」


 最果てのヒースエンド大聖堂に、少女はたどり着いた。

 長い長い時間と奇跡のような幸福の果てに、この上ない絶望を引き下げてたどり着いたのだ。

 重苦しい鉄の扉を叩く小さな手は。救いを求めて諦めを踏破したその小さな手は。

 それでも未来を求めて叫ぶその声は。全てを消し去るこの風の中で、それでも響き渡る。


「どうか……神よ……」


 力尽き、倒れる小さな身体。雪に埋もれて動かなくなる。

 扉を開くだけの力が少女には残されていなかった。重くなる瞼。最早ここまでかと投げ出す事も出来ずに生きる事に縋りついたその少女に、それでも光は差し込もうとしていた。


「――よくここまで辿り着いたね、レヴィ」


 男の声が聞こえ、扉が開いていくのがわかった。途切れそうな意識の中顔を上げた少女の前、男は穏やかな笑みを浮かべ、少女に手を差し伸べるのであった。




 男は、名をルクスンと言った。

 嘗て星の魔女の騎士であった男は、次なる星の魔女を最果ての地で待っていた。

 男は少女を大聖堂に招き入れ、温かいスープと毛布を与えた。そしてただ呆然とする少女にお手製の焼き鏝を差し出し、笑顔で告げたのだ。


「さあ、最期の秘跡を、君に」


 少女の疲れ果てた腕に炎の印を刻む事。ただその為だけに男はそこで待ち続けた。


「これで君は、全ての秘跡を手に入れた。聖なるヨト神の名の下に、巡礼の旅に終わりを告げよう。汝はこの時この瞬間より、生を許された人間となった」


 でっちあげの嘘を。ただそれだけを少女に告げる為だけに、男はこの場所で待っていた。


「――君は、君たちは、成し遂げたんだよ」


 雪に濡れた少女の頭を撫で。涙でくしゃくしゃになったその頬を撫で。男は寂しげに微笑んで、その小さな体を抱きしめた。大声で泣き叫ぶ少女を抱きしめ、抱きしめ……男はただその慟哭を受け止める。誰にも理解されず。誰にも救われなかった少女に、最期の最期、ほんのわずかな希望をもたらす事。それこそが男の生きる理由であり、ずっと昔に失ってしまった悲願を果たすたった一つの手段でもあったのだ――。

 旅を終えたレヴィアンクロウは、それからヒースエンド大聖堂で過ごした。騎士団が押し入る事も何度かあったが、やり過ごすのはさほど難しくなかった。なにせここは本当に最果ての地。僅かな季節の時を置いて、人が踏み入れるような場所ではなかったから。


「え、僕? 僕はほら、黒騎士と同じだからね」


 男は黒騎士と同じ、一度瀕死の重傷を負った後、魔女の魔法で強靭な肉体を得ていた。聖騎士程の力は持たないが、その分リスクも少ない。雪道を何とか進める程度の加護でも、レヴィをここに匿う為には役に立った。

 そして二人は聖騎士を手厚く葬り、少女は毎日祈りを欠かさなかった。少女の人生はただ彼に祈りを捧げる為の物に変わった。毎日墓標に祈る少女に、男は言った。


「神様はかつて、二十からなる神聖な音で祈りの歌を歌ったそうだ。後に魔術の呪文として応用されるそれらは失われて久しいけど、僕はその祈りの歌を幾つか知っていてね。そうやって跪いているのもいいけど、少しは彼に元気な姿を見せてあげたらどうだい?」


 男は楽器を奏でた。それはいつかの時、あの街でしたようなセッション。

 少女は神の歌を歌う。祈りの歌を歌う。神様が人々の相互理解の為に作ったコトバで。その音で、少女は祈り続ける。穏やかな声で。優しい音色を刻んで。そこに思い出を乗せて。もう届かない遥か遠くへ行ってしまった彼の為――いのりを繰り返した。

 ただ絶望だけがある日々を経て。命とは何かを問い続け。己の罪を責め続け。少女は泣きながら謳い続けた。やがてこの世界が終わりを迎えるその時まで……。




「生きる事に疲れてしまっても……。信じる事に疲れてしまっても……。何もかもを失っても、それでも人は生きるよ。少なくとも、ボクは生き続ける。ボク達が背負うものは、罪だけではないと、そう信じていたいから」


 シャルルヴィアーノの言葉にイーサは苦笑を浮かべる。

 結局のところそうなのだ。堂々巡りで。諦めては希望を浮かべ。打ちのめされては立ち上がり。そんな事を繰り返してしか生きていけないのが、人間だと知っているから。


「それに……いつかはきっと、巡り合えるよ」


「……だと、良いな」




 クィリアダリアと呼ばれた国があった大陸の外側に広がる世界。そこを一人の女が旅していた。

 女は蒼い髪を持ち、同じ蒼の瞳と、赤い瞳を持っていた。その異質さを隠す為、女は赤い瞳を眼帯で隠していた。

 眩い太陽の光が差し込む海沿いの道を軽やかに歩き続ける。女は何故か大きな棺を背負っていた。中身は空だが、それでも重く冷たいその棺を、何故か女はとても大切なものであるかのように、誇らしげに担ぎ続ける。

 さざ波が太陽の光をはじいてきらきらと輝く様子を楽しげに見つめるその女の正面から数人の少年少女達が走ってくる。その中の一人、少女が転んで倒れ込むと、女はその前に腰を落とした。


「どうしたの? 怪我、しちゃったのかな?」


 泣きながら擦りむいた膝を見せる少女。女は優しく微笑んで、少女の傷に手をかざす。温かい光が傷を包むと、まるで転んだ事実そのものが消え去ったかのように傷は癒えていた。


「すごい! お姉ちゃん、何をしたの!?」


「お姉ちゃんはね。魔法使いなんだ」


「魔法使い……って、なに? お姉ちゃん……この国の人?」


「じゃ、ないね。色々な国を旅してるんだよ」


「遠い国の人だから、そんなにお空みたいにきれいな髪をしてるの?」


 女は答えずに立ち上がる。笑顔で小さく手を振ると、少女を置いて歩き出した。

 かつてその力に苦しんだ少女は。その力を受け入れる事を選んだ少女は。それでも人間として生きる事を選び、女となった。

 風に髪を靡かせながら、女は思い出す。自分を生かしてここに送り出してくれた人の事を。

 あの日。あの時。オルヴェンブルム大聖堂の地下で自らの心臓に突き立てようとした刃を止めたのは、自分が殺したはずのメイガスだった。

 女は刃を握りしめて切なげな瞳で首を横に振った。そして少女を庇い、使徒の放つ光を浴びたのだ。目の前で焼け焦げて死んでいくその女の最後の涙を見届けると同時、少女は慟哭した。

 全てが終わった時、それでも少女は生きて朝日を浴びていた。体中を返り血で赤く染め上げて。精も根も尽き果てて。それでも涙に濡れた少女を、世界はまた朝日で迎え入れたのだ。

 少女は旅に出た。それは彼との約束を守る為の旅だ。かつて名乗った魔女としての自分を葬り去り。本当の名前と共に。人間でありながら神でもあるその名前と共に、この世界を生きていく。

 最早時も関係なく。どんな暴力も主張も彼女のやさしさを踏みにじる事は叶わない。

 女はただ自由だ。どこまでもどこまでも、穏やかな心と持って旅をする。

 やがて膨大な時が流れ。一人取り残された孤独の中でまた夜を超え、朝を迎えても。

 それでも女は旅を続けるだろう。世界の終わりと始まりを何度目撃しても。それを誰に伝えるでもなく記憶のポケットにしまって。大切にまた、次の旅を始める。


「――マスター」


 本当の名前を知る事が出来なかったあの人が、最期に自分に残してくれたもの。


「私はそれでも、この世界で生きていきます――」


 幾千の時を超え。幾億の夜を超え。

 呪われた女が、やがて聖者と呼ばれるまで。その旅は続くだろう。

 終わりなき未来を刻み続ける旅。男との思い出を胸に、女はそれでも世界を愛したから。


 この救いのない明日を生きていく。

 想い出と共に冷たい棺を担いで。沢山の誰かの幸せを願って。

 まるで夢の様に、青い髪を靡かせて――。


 ――女は、棺を牽いて行く。




#21 そして魔女は祈りを謳う




THE END

あとがきのようなものです。


この小説は2008年の三月頃に第一話を投稿しました。

それからなんと現在2014年に至るまで、六年間もの長期間放置され続けてきた作品です。

この作品は元々、当時の僕が習作として書き始めたものであり、当時持て余していた時間に物を言わせて行き当たりばったりで掲載を開始しました。

様々な一人称の練習と始めたものの、結局大体一緒になっていたり。まあそんなものです。

六年の間にわたって何度も長期間の休載を挟みながら作られたこの作品は、最初と最後ではちょっと書き方が違っています。

しかし一応、最初の頃の雰囲気を出せるように気を使って執筆したつもりです。如何でしたか?


これは僕にとって久々の完結作品になりました。というのも最近は未完作品ばかりなのです。

やはり完結させるのは楽しいもので、今はすっきりした気分です。やっと一つ肩の荷が下りた気がします。

色々ファンタジー小説を書きましたが、まあだいたいバトルで世界を救う系でした。

本作も後半はちょっとそんな感じになりましたが、結局何もどうにもなってないので、ある意味バトルで世界が救えませんでした。


完結したわけですが、ある意味まるで完結していません。

そもそもただ完結すりゃいいってもんではなくて、例えば誤字脱字を修正するとか、ちょっとおかしいところを直すとか、そういう事までしてやっと完結だと思うのです。

そういう意味では僕は一つも完結作品がありませんね。

さて、文章を書く時には皆さんも色々な事を考えると思います。

僕にとってこの作品は別に完結させる必要性のないものでした。だって特に人気もないわけですから。

それでも完結させたのは、だからこそ完結させたのだと思います。

例えば仕事で文章を書くとなると、それはもうお仕事ですから、需要に沿ったものを、クライアントの依頼に沿ったものを書くわけです。

で、勿論誤字とかおかしな祖語なんてあってはいけません。勿論そういうのも楽しいしよい経験ですが、肩がこるのも事実です。

この小説は誰にも望まれていないからこそ、ただ僕の自己満足として書き上げる事が出来る作品でした。

自惚れとは言え、例えば大きなシリーズや長編には待ってくれている人や今でも読んでくれる人がいるわけです。そっちはただ書き散らかすってわけにもいかない。

だけどこの小説は本当に書き散らかしました。チラシの裏に書いた方がいいんじゃねーのってレベルです。

それでも僕はとても楽しくて、終わらせた事に感動すらしていました。勿論、主観的な問題ですが。


よりよい物を作る。それはモノづくりに取り掛かる人達が常に抱えている命題です。

でも別に、趣味で書いてんだから、お金もらえるわけじゃねーし。

他人の評価があればこそ成長する事が出来るけれど、なくたって書く事そのものの楽しさが劣化するわけじゃねーし。

きちんとした物を作り上を目指そうという気持ちと、何でもいいから書き散らかしたいという気持ち。それを両立出来れば、より一層書く事の嬉しさを感じられるのだと思いました。


ネットの小説というのは、だいたいハッピーエンドが好まれます。

途中まではどうあれ、最終的には幸せじゃないと納得しない人も多いでしょう。

僕はあえて何もかもが救われないバッドエンドをやってやろうかと思っていました。実際これはバッドエンドかもしれません。

でも、どうにもならなくても、それなりに生きていて。一番幸福ではなくても、それなりに続いていて。

結局はそんな、見方によってはハッピーエンドとも取れる物を書いていました。


さて、ここまで読んでくれた殊勝なあなたは、納得していただけましたか?

していなかったらごめんなさい。それでも僕は結末を書き換える事はありません。

ハズレの小説を引いてしまったかもしれませんね。でも、そんな事もあるのです。

世の中はそうやって、なんとなーく回っている。

きっちりかっちりしている事ばかりではつまらないでしょう?


……勿論、自分の実力不足や細かい部分を修正しない惰性は正義ではありません。

でも別に正義じゃなくていいと思うので、こんなもんにしときます。気が向いたら直すかもしれないけどね。

また何年かあと、このあとがきを見返すと思います。

その時僕はどんな気持ちでいるのか。それを今から楽しみにして、この物語の筆を置くとしましょう。


それでは。ご愛読ありがとうございました。

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