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断章 Imagine

 俺にとって、雑踏ほど、胸クソの悪い場所はねえ。

 普段が、自然の真っ只中にいるせいかって? 違えな、問題はそんなもんじゃねえ。そんなもんじゃねえんだーー


 久しぶりに街中へ戻ってきても、景色は古ぼけた絵葉書みたいに変わらねえ。

 石積みの、ビクともしねえほど頑丈な造りの家並み。たとえば、壁だ。歳月と蒸気にまぎれた石炭粉が描いた黒ずみの形。

削れた表面の凹凸。カラフルに塗られたペンキの、塗料の剥がれ具合。顔を上げれば、店の軒先の歪み具合まで同じ。

 どこを向いても、何も変わりゃしねえ。だから見る価値もねえ、興味もねえ。


 俺の、外耳をこじ開けるように飛び込んでくる、音の奔流。

 どこかの通りで、馬車の車輪が石畳を削る、甲高い音。どこかで稼動している機械の唸り。誰かが頭上の階段を蹴っ飛ばしていく音。野良犬の遠吠え。

 脇を通りすぎていくのは、囁き、舌打ち、馬鹿笑い――

「キャハハ!」

 店の売り子の声。会話のきれはし。喚き声。

 何も意味を成さない言葉と、その羅列が延々と飛び交う。前から後ろからすれ違う靴底という靴底が、石畳をかすめる耳障りな悲鳴。

 そいつらが蹴立てた埃は、人の熱気に乗って舞い上がる。そして、救いようのない混沌が出来上がり、通りを埋め立てていく。それは次の通りへ流れ出し、網目を描いて街中に広がり、首都のどこもかしこも濁った色に塗りつぶす。

「……まだかよ。早くしろって」

 声がすり抜けていく。

 男も女もジジイもババアもガキも、クソみてえな野郎ども。ニコニコしてようが、しかめっつらをしていようが、その表情は地下でやってる三文芝居よりひでえ。親方にどつかれて睨み返す若造も、路地裏で有り金スられて喚いてる小僧も、猫が死んだくらいで啜り泣いてる女も、みんなツラの皮一枚の猿芝居。

「おい、ぶつかってくんじゃねえ――」

 街のチンピラの声が、尻すぼみに消えていく。

 だから、どいつもこいつも見分けがつかない。しかもご本人は人生の一大事だと思い込んでやっているから、もう吐き気を通り越して眩暈がする。

 俺はすりきれて伸びきったジャケットに両腕を突っ込んだまま、何の変哲もない灰白色の壁を選んで、迷わず足を向ける。そこにしか用が無いからだ。


<戦時特別省 第127事務局>


 横目に銘を刻んだプレートを認めつつ、開きっぱなしの扉をくぐる。

 この板切れがなければ、たいていの奴は三軒先の建物に入ってても気づかない。役所の建物が延々と並んだ通りなんて、そんなもんだろう。

 まったく、栄えある帝国軍は、エリートだのと名高い情報省――その部隊長の義務だかなんだか知らねえが、戦場から街へ戻るたびに、こんな調子で連日あちこちの庁舎を巡り歩かされる羽目になる。

 対面でしか言えない任務の指示を受けたり、報告やら聴取やらを済ませたり、しまいに書類を出す頃には脚を動かすのもかったるい。

 挙句の果てに、休暇なんておまけがついてくる。

 事務局の中には、五感をいたぶるように、あらゆるものが一緒くたになって充満している。古びた石造りのひやりとした温度に、鼻をくすぐる埃っぽさ。うず高く積みあがった紙切れがあっちからこっちへ流されていく、耳障りな音。その一枚一枚がかすかに帯びる漂白剤の匂い。

 そこに、薄茶色の制服を着た職員たちが緩慢に動きまわる。


 長い台に幾つか設けられた窓口には、軍服の列が出来ている。そいつらのツラが残像を引いて揺れている。何もかもが俺の存在を無視してめぐる。気を抜けば風景はただの絵になり灰色のぼかしになって掻き乱れ、身体の境界さえ消失しそうになる。

「お勤めご苦労さまです」

 ――そこのおまえ、本当にそう思ってんのか?

 入口で愛想笑いを張りつけた警備兵も、窓口で溜息をつく女も俺を見ていない。俺のぼやけた風景を見てる。その上っ面一枚、剥いでやれば同じものが出てくるのに。真っ赤な血と、肉と。

 戦場で立ってるやつは狙い撃ちだ。こんな雑魚ども、制圧までに三分もいらない……

「失礼します、通してください」

 うざってえ、道ふさぐんじゃねえよ――

 書類を満載するワゴンを押して向かってきた中年の親父に、俺は気づけば十分な距離を測っている。パン。懐の拳銃を抜けばもうそいつは後頭部から鮮血と脳漿を噴き出して、床で動かなくなってるだろう。

 そんな妄想が俺を支配する。まだだ、まだやっちゃいねえ、いや――誰か俺を絞め殺してくれねえか。でなきゃ、息が詰まって死んじまいそうだ。

 若造の兵士が、すれ違い様に睨んでいく。

 おお、やってくれんのか?

「ああ?」

 ちょっと脅かせば、そいつは身体を硬直させて、無言で庁舎を駆け出していく。

 くだらねえ……

 その間にも、窓口がひとつ空いていた。

 俺はやる気の失せた足を向ける。指先は、首にまとわりつく鎖をたぐり寄せ、慣れた感触をたしかめている。

 そこで、鉛色の渦を巻いていた景色が動きを止める。

 思考も一緒に止まっていた。

 窓口の長い台の向こうに、鏡じみて輝く頭を見た。

 銀の巻き毛を短く切った――若い男だ。

 気づけばそいつの顔を見下ろしている。

 とかく心臓に悪い。美しい、としか言いようのなく整った切れ長の眼差しに――青の粋を極めたような瞳をはめ込んでいる。人形じみて小奇麗な顔立ちに、真剣なのか、無愛想なのか判別のつかない仏頂面を凍てつかせている。

 そいつが、帝国公務員の制服を着て、時の止まったように椅子についている。

 その無機質な居住まいとは裏腹に、若者はすべてから浮き上がってみえた。

 ――ああ、こいつは。

 深く澄んだ青を湛える瞳が、静かに俺を見上げた。

 その透きとおった表が、見つめていた。

 ――ここにいるはずのない、人間だ。

 ぞくり、と全身を得体の知れぬ何かが走った。俺は声もなく笑っていたか、口笛を吹いていたのか。


 リエル・F・ハシェット


 若者の手元に立った名札を見定めるが早いか、俺は頭から引き抜いた鎖を、ぶら下げた認識票ごと投げつけている。大理石の台に響きを立ててすべり込み、見事に名札をはじき倒す。

 ――さあ野良猫みてえに驚いて見せろ。悲鳴でも怒号でも何でもいいから。

 だが、そいつは表情を司るあらゆる筋肉を、微塵も動かさずに認識票を拾い上げた。

 シャリ……と銀の鎖が鳴って、生白く細い指のあいだにこぼれ落ちる。

 その男は、青い視線を必要最小限に下げて、板の上辺の刻印に注ぐだけだ。

 案外、肝が据わってる。そうこなくちゃな。

 俺はそいつの眼前へ、肩掛けカバンから鷲づかみにした書類の束を叩きつけて、上に肘を突き立て、意地の悪い顔をのせた。

「よーお、<戦利品>のお嬢ちゃん。こんなところで事務員ごっこかあ」

 局中に響き渡りそうな、素っ頓狂な声を上げる。

 <戦利品>だのお嬢ちゃんだのは、挨拶代わりの悪態だ。脳味噌を回す前に口から飛び出している。

 俺のにやけた唇の端が、ややあって、戻っていくのを感じた。

 その二十歳そこそこに見える青年――リエルは、長い睫毛の触れ合いそうに引き締まった面持ちを崩さずに、軍の認識票を静かな手つきで書類の束に添えた。

「ベルカナント軍曹。こちらの受領書類に署名をお願いします」

 薄っぺらい唇がいつ動いたのか、そう淡々と言った。

 俺は今度こそ、笑みを頬まで深めていた。書類を押さえる肘にめいっぱいの重みを加えて、若者へ顔を近づける。

「ちょっと付き合えよ。なあ、昼メシでも食おうぜ、リエルちゃん」

 親しみを込めた台詞が、白々しく流れ出す。

 怒れ。喰らいついてこい。殴りあいでも不意打ちでも嬉々として受けて立つ。

 俺をこの、鉛色の地獄から連れ出してくれ――青年は、最後に名を呼んだあたりで、細い銀色の眉の、片方の付け根だけをわずかに上げた。ちゃん付けは効いたのか?

 その表情に、青い――見果てぬ色の瞳が左右へ動く。

 助けを求めようってのか?

 それから、めいっぱいに遠くへ飛んで――壁の時計を一瞥する。

 仮面のような顔が、最後に俺へ眼差しを上げた。

「東隣の通りの『エクセル』というカフェで。すぐに行く」

 ……と、青年は言った。

 拍子抜け――するだろ?

 だらしなく唇の端を落とした俺の前で、そいつは緩んだ肘の下から書類を引っこ抜き、上からめくって確認を始めた。

 手持ち無沙汰の俺は、そばに転がるペンを拾い上げ、インク瓶につっこんで、受取の書類に気のないサインを刻んだ。


 どうにも腑に落ちない足取りで役所を出た俺は、東の通りに、その小ぢんまりとした喫茶店を探しあてた。

 中には入らず、扉の脇のテラス席に腰を落とした。

 五階建ての家並みに阻まれた空からも、晩夏の太陽は白く激しく照りつける。

 俺の脇で、古臭い格子のついた木の扉から、人が現れては雑踏へ解き放たれていく。その混雑も心なしか、薄らいでいく。後には意識もかすみそうな、日差しが残る。

 安い酒を三本あけたところで、こいつは一杯食わされたか――と思い至る。

 俺は無性におかしくなり、声を上げて大笑いした。

 事務職なんぞできる頭は、伊達じゃねえってことか。

 さて会計を踏み倒して暴れるか、今から戻ってあいつを絞め上げるか――と案を数え始めたところで、当人がゆらりと現れた。

 黒い帽子を目深にかぶって、銀であるはずの髪をすっかり隠している。

 光の下にその肌は蒼白で、軒に垂れた深緑の日よけの下に入れば、翳りを帯びて今にもぶっ倒れそうに見える。背丈はあるが体も薄っぺらい。

 暑い、と思うのは、久しぶりに山を下りた俺だけか。似合いもしない公務員の制服の襟を閉じ、長袖の上から下まできっちりと着込んでいる。その隙のなさが、また不自然な存在感を醸しだす。


 そいつが机を挟み、俺の正面の椅子についた。

 慣れた動作で懐から時計を出し、円い蓋をあけて机の上にのせる。微妙にこっちへ向いた文字盤へ、俺も視線をやれば、午後二時を五分回ったところだ。

 ああ、昼の交代の時間まで待たされたわけか、と合点が行く。

 単に律儀な阿呆なのか?

 その流れるような手際の最後に、現れた白い前掛けの給仕の男に手をかざして、注文を短く告げた。

「私に何か用か」

 それから、思い出したように、俺へ一対の青い視線を向ける。

 この色だ。

 日陰にも深く透き通る青を、俺は戦場で何度目にしてきただろう。

 それは、<聖域の民>の証。

 西の国境の山岳地帯に広く分布していた、超のつく少数民族だ。

 彼らの住まう山脈のどこかには、大陸中の信仰を集める<聖域>があると伝えられている。だが、その場所を見た奴はいない。

 その一民族は、人の心を読む力を持つとか噂されているが、真偽は定かでない。

 彼らは、<聖域>を巡って帝国と山脈向こうの西国が起こした戦争に巻き込まれ、ほとんどが姿を消した。山脈の領土化を進める帝国にとっては、保護すべき民間人なのだが――

 軍でのあだ名は『誤射率80パーセント』、そう呼べば通じる。

 その紛れもない血統を示す容姿が、俺の向かいで微妙に首を傾ける。

「私に何か用なのか? ベルカナント軍曹」

 問い直されて、俺は相手を眺めていたことに気づく。

 思考が止まるのは最高だ。こいつがなぜ帝国にいるかなんて、ありきたりな質問はつまらない。もっと、こいつのツラを動かしそうなヤツをお見舞いしよう。

「おまえ、俺の心が読めるのか? まだ確かめたことがなくてさあ……銀色の頭、どいつもこいつも、見かけた瞬間に撃っちまった」

 俺はわざと歯切れよく、明るく言った。

 が、当たったためしはない――奴ら、気づけば斜面の彼方へ行方をくらます。冗談だろ、ってぐらいに身のこなしは軽い。まるで、こっちの心を読んでいるように――

 青年は深刻めいた生真面目な表情に、一つ瞬きを落とす。

「私は帝国育ちだ。そんな力は持ち合わせていない」

 と、よどみなく応じた。まるで用意してあったような答えだが、その瞼は、後でわずかに狭まる。

 何を考えているんだろう。俺は卓上にへらへらと手を振った。

「俺はアーガットだ。アーゴって呼んでくれ……みいんなそう呼ばせてる」

 それからでたらめに喋ったのは、戦場の話だけだ。

 人がどんなふうに返り血を噴いて吹っ飛ぶかとか、斜面の転げ落ち方のバリエーションだの、最近寝た女の話だのを並べたてた。

 酒も入っていたし、俺の意図を外れて誇張が過ぎていく。

 ――イラついていた。俺のほうが焦らされるみてえだ。

 そいつは変わらず落ち着いた顔をしていたが、張り合いがなかったわけじゃない。真剣というにはあまりに真剣な様子で、ときどき頷いていた。

 青い、瞳の色は、瞬きの合間にだけ隠れて、戻る。

 野郎が喋ったのは相槌だけだが、一度も目をそらすことはなかった。

 初見でそいつに話しかけたのは容姿のせいだ。

 ただ、他のやつらみたいに、<聖域の民>のご利益に預かろうだとか、見た目の小奇麗さに惹かれたわけじゃない。むしろ容姿にすこぶるムカついたから絡んだわけで、後のほうはどうでもよくなっていた。初めっから興味もなかったのかもしれない。

 リエルはある頃合から、しきりに時計を気にかけ始め、やがて見計らったように席を立ち上がった。

 その行動はなんとなく予想がついたので、隣の椅子に靴を載せていた俺は、同時に声をかけた。

「おごれよ」

 すると奴はいつよりも真剣な眼差しで、自分の影をじっと見つめてから、丸い卓へ視線を一巡させた。

 だが一秒を惜しむように財布から大きめの札を抜き出し、机に押しつけた。

 その眉間にわずかに皺が寄り、眼差しの端には責めるような力が籠もり、頬にも不満の兆しが浮かぶ。

「二度とあんなふうに局で騒がないのなら」

 ――ああ、これだよ。これ。

 鷹揚に頷く俺を認めるが早いか、制服を着た青年の背が、足早に人混みにまぎれていく。

 数分後に、店内の柱時計が定刻を打った。

 その頃には、俺は手付かずで残されたサンドイッチを噛みしめて、次はどうやってあいつの困る顔を見てやろうかと思案をめぐらせていた。


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