エピローグ
セレーネは人目があるから鉄壁の笑顔を崩していなかったが、その内心ではイライラとストレスがたまっていた。
ハグリアに駐屯する兵士たちを慰問し、そして昨日と同じく街を練り歩く。
だれもが自分の美しさと高貴な身分、しかしとても気さくだというギャップに萌えている。だというのにこの場でセレーネに対して好意の感情を向けていない者たちがいた。
護衛騎士はまぁ仕方がない。彼らはセレーネ個人に忠誠を誓った騎士でもないし、そもそもだれもが家格の高い貴族家の出身。セレーネが承認欲求を満たしたい対象からも少しずれている。
だが庶民や兵士は別。彼らは自分の承認欲求を満たすための道具に過ぎない。
だというのに、その道具の1人……いまいちパッとしない印象の兵士は昨日と変わらずセレーネに対してとくに何も感じていない様子だった。
セレーネに声をかけられた兵士は首をキョロキョロとさせる。どうやら自分のようなただの兵士が、高貴な姫に声をかけられるはずがないと思っているのだろう。
これにセレーネは多少ではあるが気をよくする。
「ええ、そこのあなたです。わたし、兵士さんが普段どのような仕事をして帝国を守ってくれているのか、とても興味がありましたの!」
兵士に近づいて腰をかがめ、両手を合わせて上目遣いで顔を覗き込む。
どんな男でも一瞬で自分に惚れさせる、55個ある奥義の1つ〈小悪魔皇女の覗き込み術〉だ。
決まった。あとは適当に2、3言葉を交わせば新たなセレニアンの誕生である……はずだった。
「いやぁ、そういう話でしたら俺なんかよりもこっちの男のほうがより詳しいですよ」
なんと男はごく自然な動作で別の男の腕を掴むと、そのまま自分のいた場所をその男に譲る。
結果、〈小悪魔皇女の覗き込み術〉は新たに現れた男に発動した。
「はうぅぁっ! あ、せ、セレーネ様! あらためて、自分はザックと言いますっ! 兵士の仕事ですね、えぇお任せください! バッチリしっかり話させていただきますよっ!」
なんだお前は。こっちはすでにセレニアンとなった男に用事はないのだ。
自分の目的はセレニアンを増やし続けること……つまりまだセレニアンになっていない者をどう懐柔するかが大事なのだ。
「え……えぇ。よろしくお願いしますわ、ザック様」
しかし庶民たちから注目を集めている今、新たにエンカウントしたザックを無視する対応は取れない。
というか一般兵その1の名前を覚えてしまったではないか。
「俺たちは帝都の治安を守るため、巡回しつつ帝都民たちの悩み解決に~~……」
笑顔を崩さずにちらりと一般兵その2に視線を向ける。するとターゲットにしていた兵士はすでに興味を失ったのか、こちらを見てもいなかった。
これにはさすがにセレーネも許せない。承認欲求モンスター皇女殿下は、己の欲を満たす義務を果たさない者を許すという寛大な心を持ち合わせていないのだ。
こうなったら裏であのモブ兵士の飲む茶に雑巾を絞った特濃汁を混ぜるという、大変大きな罰を与えねば。
だがそこまで考えたときにセレーネ皇女に天啓が下る。
(…………ッ! こ、ここまでわたしになびかないあの男をセレニアンにできたその時……わたしはとんでもなく強い承認欲求を満たすことができるのでは……!?)
なんと恐ろしいことを思いついてしまったのだろうか。
あの男がセレニアンとして情けなくもだらしない表情を自分に向けたとき、おそらくこれまで感じたことのない強い欲求を満たせるだろう。
認めよう。あの男は「小さな承認欲求を満たす道具」ではない。むしろ「大きく満足度の強い承認欲求を満たす道具」であるということを。
いつか必ずその日はやってくる。その時を震えて待つがいい、モブ兵士……!
■
謎に背筋に寒気を覚えつつ、その日の夕方に俺は兵舎でリシェルと会っていた。
「そう……もう帝都に戻るのね」
「ああ。俺が単独で帰ったことについては、ザックにうまいこと言っておいてくれると助かる」
おそらく帝都に戻れば、俺はもうザックと同じ部署には配属されないだろう。
だが会えなくなるわけではないし、またどこかで同じ職場で働く可能性もある。
「その……レオン。ありがとう」
「ん……?」
「家族喧嘩を未遂に終わらせてくれたことよ。家に対するわだかまりはこれからも消えることはないけど……それでもわたしは今、あなたたちとこうしてこれからも話せることに安心している」
きっと彼女が負った心の傷は、そう簡単には癒えないだろう。でもリシェルはちゃんと前を向く強さを持っている。
何より軍学校で3年生に上がれた実力は本物だ。
「なんて……やっぱり都合がいいわよね……」
「さぁ……俺にはなんのことやらさっぱり」
「もう」
都合がいいと考えてしまうのは、それだけリシェルの根が真面目だからだろうな。
しかしあの場で強引に話をまとめたのは俺だ。都合がいいだなんて、そもそも思う必要はない。
「また……会える?」
「いつでも会えるさ。また帝都で飯でも食いに行こう」
「ええ……楽しみにしているわ」
こうして俺は一足先に帝都への帰路につく。ノア先輩がヴァネッサ室長にすでに報告しているだろうけど、それとは別に俺からの報告も行わなければならない。
次の任務まで休みをもらえるとありがたいんだけどなぁ……。
■
黒紋監察室の室長であるヴァネッサは、一足先に帝都に帰還したノアからハグリアでの顛末について報告を受けていた。
「ご苦労だったな、ノア」
「いい。レオンのお守りは楽」
「そうか。まぁ目的は果たせた、リシェル三等剣尉の件についてはレオンの判断を支持しよう」
「……いいの?」
レオンはリシェルを「実は黒紋監察室の特別協力員だった」ということにして、強引に彼女の罪をあやふやなものにした。
リシェルのやったことは禁制品の持ち込みと魔獣テロの画策である。魔獣テロはノワゼル領で行う予定だったとはいえ、帝国法で裁かぬ理由にはならない。
しかしヴァネッサは鷹揚にうなずくと手に持つ資料を机にバサッと落とす。
「構わんさ、今回のレオンの判断は自分をより強固な鎖で黒紋監察室につなぐ行為だからな」
「そうなの?」
「ああ。レオン本人は気づいていないだろうが……いや、いずれすぐに思い至るだろうな」
リシェルの無罪放免……これはヴァネッサにとっても歓迎すべき出来事だった。
彼女は理解しているのだ。これはレオンを黒紋監察室に縛り付けることになるということを。
「しかしレオンが黒紋監察室の紋影官見習いになって2年か……うむ。今回の件もある、見習いは今日までだな」
「独り立ちの時?」
「ああ。優秀な駒はしっかりと磨いていかねばな」
ヴァネッサの満足したような表情を見てノアは首を横にかしげた。
「でもヴァネッサ。レオンの異能【夜影疾走】は夜限定。しかもどれだけ調子がよくても、その機動力はせいぜい仙勁レベル8相当。たしかにすごいけど、そもそも仙勁レベル8の実力者からしたら取るに足らない」
レオン自身も認めているが、夜影疾走は使い勝手がわるいうえに異能としての特異性も大したことがない。
夜間はかなりの機動力を得ることができるとはいえ、体力はしっかりと消耗する。
それに数こそ少ないが、仙勁レベル8の者からすれば、常にレオン並の機動力を発揮できる。
紋影官にはさまざまな異能持ちがいるが、その中で言うとレオンの異能は低レベルだろう。
「どうして彼を紋影官にしたの?」
「ん? ……あぁ、なるほどな。正確に言うと【夜影疾走】は紋影官になってから判明した異能だ」
「…………え?」
「これ以上は本人に聞いてみるんだな。案外簡単に教えてくれるかもしれんぞ」
ヴァネッサがレオンを紋影官にスカウトしたのは、軍学校を2年で卒業する直前のことだ。
彼女は職業柄、軍学校に在籍している者の成績などの情報を得ることができる。
そしてレオンの成績を確認し、気になる点を見つけたヴァネッサは、当時2年生だった彼を秘密裏に試すことにした。
その結果、レオンは見事にヴァネッサの罠に引っ掛かり、あえて目立たない成績にしていたことを看破されることとなる。
ヴァネッサが見つけた違和感……それは全科目の試験の点数が毎回奇麗に65点前後になっていることだった。
1度ならばともかく、1年生からさかのぼって確認してみても、やはり全科目の点数は常に65点前後でキープされている。
ここまでくれば“あえてそうなるように調整している”としか判断できない。
「もともと奴には別の方向での期待を持っていた……が、【夜影疾走】が発覚した時は思わぬ人材を確保できたものだと思ったよ」
「まさか……複数の異能を持っているということ……?」
異能は原則、1人につき1つ。中には1つの異能で複数の能力を発揮できる者もいるが、本当に複数の異能を持つ者はいない……とされている。
「奴の判断能力も紋影官としてわるくない。なんにせよ使いやすい駒であることには違いない」
「……そ」
アイゼンブルク帝国は大国ではあるが、決して盤石ではない。
内には内乱の種が数多く蒔かれているし、外にも脅威はいる。時には表沙汰にできない大きな陰謀が動いていることもある。
そうした事件をいち早く察知し、そして法の支配の及ばぬ時と場で闇に処理する……それが黒紋監察室の任務だ。
2年前に将来有望な紋影官が配属され、ヴァネッサは彼を鍛え上げてもっと使える人材にしようとした。
結果、彼はこれからも数多くの大事件に巻き込まれ、強制的に解決していくこととなる。
「ふふ……1年後の成長が楽しみだな」




