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かつてこれ程の恐怖を感じたことがあっただろうか。ミューは少女の手を取りながら路地を走り続けていた。なんだかよく分からないが、とにかくよく分からないことが起こっていることは分かった。自分はゲームの世界に閉じ込められ、そしてゲームの世界の住人に追いかけられている──。現実感はまるで無い。しかし、ただ漠然とした恐怖が彼女の足を動かしていた。とにかく怖い。よく分からないのが怖い。よく分からないけど怖い。
大通りの喧噪が聞こえてきた。それほど遠くはない。100メートルといったところだろう。フェスティバルの照明が煌々と空を照らしている。そうか、まだあれから一日も経っていないのだ、ということを思い出す。後ろを振り返った。手を伸ばした影が間近に迫っているのでは、という予感に反して誰もいなかった。ゆるやかにカーブした道の向こう側で、ひと際大きな閃光が瞬いた。震動と爆音が響く。
ミューはアカリの手を引いたまま大通りに飛び込んだ。大通りには相変わらず大勢のプレイヤーでごった返していた。一瞬、この人たちが全て敵だったら、という妄想に捕われて身が竦んだが、NPCであることを示す青いクリスタルは見えない。<転移の館>はミューも何度も利用しているので場所は簡単に分かった。通りの反対側にその屋根が見える。しかし往来を眺めれば簡単に近づくことができないのは一目瞭然だった。人が多すぎて一メートル進むにもどれほどの時間がかかるか分からない。
道行くプレイヤーたちの間に身体をねじ込むようにして、道を作る。
「おい、なんだあれ?」
誰かの声が聞こえた。その声に、周囲を見渡す。屋根の上に人影があった。一瞬、ジズかとも思ったが、すぐに頭上の青いクリスタルを見つけて慌てて頭を下げる。目が合っただろうか──? ここにいるのがバレただろうか──? 耐えきれずに、少しだけ顔を上げる。
「──っ!」
一人、二人、三人、──。一人しかいなかったはずのNPCが、屋根の上に今では三十人以上並んでいる。その全ての視線が、何かを探すように──きっとわたしを探しているんだ──その光景に驚いたプレイヤーたちが、ぽかんと見上げている。
「なんだなんだ? なんかのイベントかぁ?」
能天気な声が静まり返った大通りに響く。
ジズとリスはどうしたのだろう? もしかして、やられてしまったのか? 自分はどうするべきだろう──。めまぐるしい程に様々な疑問が沸き起こっては泡のように消えていく。
「おいおい、こんなイベントやるくらいならさっさと俺たちを物質世界に返せよ!」
「そうだそうだ!」
「わたし明日朝から用事あるんですけどー!?」
罵声がNPCたちに浴びせかけられる。駄目だ。叫ぼうとするが、喉が引きつって声が出ない。どうして? この身体には横隔膜も無ければ肺も、声帯も無いはずなのに。ぱくぱくと口が開くばかりで、肝心な声が出てこない。ダメだ。ダメだ。なんだか分からないけどアレに関わってはダメだ!
「おい、いい加減になんとか言ったらどうなんだよ? この人形どもがッ!」
鉄の胸当てを巻き付けた大柄な男のプレイヤーが突然NPCの背後から現れて、そのうちの一体の肩を掴んだ。
「ダメぇ!」
NPCが男の腕を無造作に掴んだ。特別な技術も無く、そのまま力任せにねじ曲げる。まるで粘土でも捏ねるかのような手軽さで、男の腕が引き千切られる。突然の痛みと、NPCがプレイヤーに手を上げるはずがないという驚きに、男が大きく目を見開いた。ぐらり、とバランスを崩した男は向こう側に倒れていく。姿の見えなくなったプレイヤーに、数体のNPCがまるで狼のように襲いかかった。野太い悲鳴が大通りにこだまする──。
突然の惨劇に、往来はあっという間にパニックに包まれた。我先にと逃げ出すプレイヤーと、NPCに反撃しようとするプレイヤー、ただ戸惑うばかりのプレイヤーたちが混ぜこぜになってまるで地獄絵図だ。
だが、ミューは最初の警告以外一切声を出すことも、動くこともできなかった。男を襲った三体のNPC以外の全てのNPCが、今やしっかりと彼女を捉えていたからだ。一斉に、NPCたちが大混乱の往来に降り立つ──。
「逃げなきゃ!」
ようやくミューはアカリの手を引いて再び人垣をかき分け始めた。進んでも進んでも人の波は途切れない。少しでも手の力を抜くとアカリを置いていってしまいそうだ。ミューは歯を食いしばって押し返そうとする圧力に抗い続けた。一歩一歩、着実に進んでいく。いつNPCたちの魔手が迫ってもおかしくない、という恐怖が彼女に普段以上の力を与えていた。間違いない。NPCたちの反応を見る限り彼らが追っているのは私たちだ。でも、どうして? わたしたちが何をしたと言うのだろう? 考えても分からない。分からないけれど、逃げなくては行けない。さすがのNPCも、これだけのプレイヤーを押しのけて進むのは困難を極めるだろう。
「アカリちゃん、大丈夫?」
「う、……うん」
アカリはひと際大柄なプレイヤーに押しつぶされそうになりながらも、なんとかミューのあとを追いかけてくる。ようやく、二人は大通りを横断することができた。さすがに端の方は中央に比べるとわずかに人が少ない。建物を壁伝いに進み、<転移の館>を目指す。<転移の館>は北に向かって二件目の建物で、二人は転がるようにその敷居を跨いだ。入り口の方は大通りから逃れてきたプレイヤーと、まだ事態を把握できていないプレイヤーが野次馬と化して集まりつつあって人口密度がかなり高めだったが、奥に進めば進む程それも緩和されていく。
<転移の館>は奥に長い構造になっており、廊下が延々と続いていた。廊下には左右に等間隔でドアが並んでおり、それが異世界セーフィ・ロートの各地に繋がっている。ギルド<ネクラ・キドリ>の拠点に一番近いワープポイントは今朝試験を受ける為に通ったので、どのドアを通れば良いのかはまだ記憶に残っていた。確か、中程にあったはずだ。
記憶を頼りにミューはアカリの手を引いて薄暗い廊下を進んでいく。入り口の方から悲鳴が聞こえた。NPCたちがそこまで辿り着いたらしい。
ジズたちはどうしたのだろう。第一、このまま拠点に戻っていいのだろうか。あいつらは不死身らしい。戻ったところで、ギルドのメンバーに迷惑をかけるだけではないのか。しかし考えたところで答えが出るはずも無い。迷っている暇もない。
行き先が書かれた金属プレートを一瞥し、ドアを間違えていないことを確認したミューは意を決してドアノブを掴んで押し開けた。二人が飛び出したのは小高い丘に建てられた、今にも朽ち果てそうな石造りの神殿だった。そうか、ここでドアを閉めてしまえばNPCたちは自分たちがどのドアを通ったのか分からないかもしれない──。そのことに思い至り、ミューは慌ててドアを閉めようとする。
が、それを一本の腕が遮った。
「ひ──」
青いクリスタルを頭に乗せた顔が今にもドアを覗いてくるのではないか。あまりの恐怖に地面にへたり込んでしまったミューの前に姿を表したのは、黒いコートを着た男と緑のレザージャケットに身を包んだ女だった。
「ジズさん! リスさんも!」
「なんとか間に合ったな」
リスがドアの向こう側で弓を射った。その矢を受けたNPCの苦悶の声が聞こえる程度には、NPCたちも近い位置にいるらしい。
「大丈夫か? よく頑張ったな」
ジズの差し出した手を握って身体を起こす。なんだかよく分からないが泣きそうだった。嬉しいのか、安心したのか、怖かったのか、とにかく、いろんな感情が自分の中で渦巻いている。ジズに抱きつきたかったが、今はそれどころじゃないと自分に言い聞かせる。
「ジズ、もう矢が無いよっ──あと三本!」
「よし、行こう」
ジズがアカリの手を握る。リスがまた一本、矢を放った。四人は一斉に駆け出した。石畳の神殿を走り抜け、階段を駆け下りる。高原の向こう側に、峡谷を渡る為の吊り橋が見えた。その向こう側の岩山に、ギルド<ネクラ・キドリ>の拠点<ネクロ・ハーデス>神殿がある。
「振り返るな! 走れ!」
草に足を取られないように走りながら、しかしミューはその指示に従えなかった──。後ろを振り返って、その光景に愕然とする。まるで巣から湧き出る蟻の群れのように、小さな神殿から無数の人影が飛び出してくる。四人を追っているNPCたちは減るどころか明らかに増えていた。百、いや二百──もっといるかも知れない。
「何あれ!? なんでこんなことになってんの!?」
意味が無いとはいえ、叫ばずにはいられなかった。リスの矢が、先頭を走っていた一体を転がした。だが、それがなんだというのだろう──。草原を埋め尽くす勢いで迫ってくるNPCたちはまるで土石流だ。そのうちの石ころをひとつ止めたところで何の気休めにもならない。もし<自由交易都市アイン・ソフ・オウル>に配置されたNPC全てが襲ってきているのだとしたら、その数は1000人に匹敵するのではないか──。
「走れ! とにかく吊り橋を渡るんだ!」
四人はロープを張って橋板を重ねただけの吊り橋を全力で駆け抜けた。物質世界であれば重量や揺れに多いに気を配るところだが、ゲーム内の橋はNPCと同じ<非破壊性物体(インモータルオブジェクト>に指定されているため絶対に壊れることがない。ところどころ板が抜けているところにさえ気をつければ、落下することもない。
だが、渡ったところで一体どうなるのだろう。 命令するジズには何か策があるのだろうか? 1000人にも達するかもしれない不死身の軍団に追いかけられて、果たして逆転する手など本当にあるのだろうか。橋を渡ったところで山には100人にも満たない仲間がいるだけだ。
ミューの体力は限界に達していた。実際に身体を動かしていないのだから、この世界にスタミナというものは存在しない。ただ、アバターを操るプレイヤーの集中力が途切れれば似たような現象に陥る。プレッシャーと恐怖が、ミューの精神力を著しく摩耗させていた。思考がマイナスに傾くと、アバターもその影響を受けることになる。息が苦しい。足が縺れる。
もう、ダメかも知れない。
所詮、この世界は物質世界の出来事ではない──。この世界で死んだとしても、本当に自分が消えてなくなるわけではないのに、自分はどうしてこんなに必死に逃げているのだろう。もういいじゃないか。そんな思考に捕われる。足が動かなくなる。
気づけば、眼前に地面が見えた。転んだのだ、と認識した時には既に遅かった。受け身もろくに取れずに顔面から岩肌に激突した衝撃と痛みが顔一面に走る。NPCたちの声がこだまのように山々に鳴り響いていた。近くにいるようにも感じるし、遠くにいるようにも感じる。しかし、遅かれ早かれ自分は捕まるだろう。そして屋根の上の男のプレイヤーのように四肢をねじ切られるに違いない。きっと痛いだろうな、とぼんやり考える。
「お疲れ──」
能天気な、ジズの声がミューの思考を中断した。
え、と顔を上げる。ミューが転がっているのは切り立った崖の上だった。そこでようやく、自分が橋を渡りきっていたことに気がついた。ミューの目の前に、ジズが彼女を守るように立っている。今やNPCの数は対岸を埋め尽くす勢いだった。間違いない。<自由交易都市アイン・ソフ・オウル>に配置されていた全てのNPCが動員されている。
「もう無理ですよ!」
ミューが叫んだ。こんなの、どうやったって勝ち目が無い。NPCの先頭は既に吊り橋の三分の二を渡ろうとしているところだった。だが、ちらりと振り向いたジズの横顔はなぜか勝利を確信した者の顔だった。
「いや、吊り橋を渡った時点で──俺たちの勝ちだよ」
一体どういうことだろう? ミューが尋ねようとした時、その答えがはっきりと分かった。
「シックスティーン・チェインド・ナパーム」
ジズの唱えた魔法による十六連鎖の爆撃が、逃げ場のない吊り橋上のNPCたちを襲った。不死の彼らに意味がないのでは──一瞬そう考えるが、しかしジズの狙いはまるで違うものだった。爆風に吹きとばされたNPCたちが、次々と谷底へ落下していく。
「あ……」
ミューは口に手を当ててその光景を眺めていた。この谷底に降りる道は無く、落ちたら即死だと陽炎から聞いていた。つまり、マップ的に閉じている。プレイヤーが落ちれば即死扱いとなってすぐに死亡後の選択画面に移動するが、死ぬことの無いNPCたちが落ちればそこは出口の無い監獄と同じだ。谷の高さがありすぎて飛行能力でもない限り上がって来ることもできない。倒すことはできなくても、半永久的に閉じ込めておくことができるのだ。
「波状攻撃されたり、迂回路を探されたりすると厄介だとは思ってたんだけど……単純な思考回路で制御されてるみたいだね。仲間がやられてるのにも構わずどんどん前進してくる」
ジズはそう言って次々と広大な広範囲魔法でNPCたちを谷底に落としていく。あっという間に、絶望的だったNPCたちの数が減っていく。
「リスはもう矢がないしさ、ミュー、悪いけど少し手伝ってもらえるかな?」
まるでちょっと机の掃除でも頼むよ、といった気軽さのジズの言葉に、ミューは不覚にも笑ってしまった。




