第37話 別れ
前書き
旅に出る前の最後の一日。
この回では、「帰る場所」をノアの中に刻みます。
強くなる前に。
戦う前に。
“待っている人”を知る回です。
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朝の村は、少しだけ騒がしかった。
だが、それは祭りの騒がしさではない。
誰かが旅に出る朝の音だった。
荷をまとめる音。
保存食を包む音。
道具を確かめる音。
そして。
何かを言おうとして、やめる音。
ノアは井戸の前に立っていた。
水面を見る。
映っているのは、自分。
黒い髪。
淡い灰色の目。
まだ人に近いとは言えない顔。
けれど以前より、“誰か”に見える。
そんな気がした。
「難しい顔してる」
後ろから声。
ピップだった。
干し肉の袋を抱えている。
「エルナさんが持ってけって」
「……多い」
「三回言ったよ、それ」
ピップは笑った。
「村の人、みんな渡してくるんだよ。干し肉とか、薬草とか、意味わかんない石とか」
「石」
「お守りらしい」
ノアは少し考えた。
「役に立つ?」
「気持ちの問題」
「気持ち」
「うん。たぶん、無事でいてほしいって意味」
ノアは袋を見る。
小さな布袋。
中には丸い白石。
価値は分からない。
でも。
リリが拾ってきそうな石だった。
「持っていく」
「うん」
ピップは少し安心した顔をした。
ノアは最近、少しずつ理解している。
人は、“役に立つ”だけで物を渡すわけじゃない。
意味。
願い。
そういうものも、一緒に入っている。
⸻
ガルドの家の前では、朝から木を叩く音がしていた。
ガン。
ガン。
一定の音。
ノアが近づくと、ガルドは斧を止めた。
「来たか」
「……うん」
地面には削られた木材。
棒状に整えられている。
「槍?」
「歩き杖だ」
ガルドは一本を投げた。
ノアは受け取る。
少し重い。
だが、手に馴染む。
「森の外は、歩くだけで疲れる」
「疲れる」
「お前はまだ分かってないがな」
ガルドは鼻を鳴らした。
「足場が悪い場所もある。崖もある。川もある。杖は武器だけじゃない」
ノアは杖を見る。
削り跡が残っていた。
急いで作ったのだろう。
「……作った?」
「見りゃ分かるだろ」
「ありがとう」
ガルドの手が止まった。
「……最近、ちゃんと言うようになったな」
「言われた」
「誰に」
「リリ」
ガルドは苦笑した。
「だろうな」
再び木を削る音。
しばらく沈黙。
だが、嫌な沈黙ではなかった。
「ガルド」
「なんだ」
「外は、怖い?」
ガルドは少し考えた。
「怖いな」
「ガルドでも?」
「だから生きてる」
ノアは聞いていた。
「怖くないと思って突っ込む奴から死ぬ。森でも、人でも、同じだ」
ガルドは斧を置いた。
「お前は強い。だが、それで全部どうにかなるほど外は甘くない」
「……うん」
「人間もいる」
その言葉で、ノアは顔を上げた。
「人間」
「ああ。魔物より面倒なのもいる」
「壊れてる?」
「壊れてなくても厄介だ」
ガルドは腕を組む。
「嘘をつく。奪う。騙す。弱いくせに、弱いふりもしない」
「……分からない」
「そのうち分かる」
ガルドはノアを見る。
「だがな」
「?」
「全部がそうじゃない」
短い言葉。
でも、重かった。
「外にも、ちゃんと生きてる奴はいる」
ノアは頷いた。
「覚える」
「おう」
⸻
昼前。
リリはずっとノアの後ろをついて回っていた。
「ノア」
「なに」
「ノア」
「……なに」
「呼んだだけ」
ピップが吹き出した。
リリは頬を膨らませる。
「だって明日いなくなるし!」
「まだいる」
「でも明日いない!」
その通りだった。
ノアは黙る。
リリは急に静かになった。
「ノア」
「うん」
「外って、広い?」
ノアは森を見る。
「……たぶん」
「リリ、行ったことない」
「僕も」
「じゃあ同じだ」
リリは少し笑った。
その笑顔を見て、ノアの中で何かが少しだけ軽くなる。
「これ」
リリが小さな袋を差し出した。
布を縫ったもの。
歪んでいる。
たぶん自分で作った。
「……なに」
「お守り」
「また」
「また」
リリは真剣な顔だった。
「今度のは特別だから」
ノアは袋を開ける。
中には、小さな鈴。
欠けていた。
「壊れてる」
「違う!」
リリが慌てた。
「それね、前に割れたやつなの。でも、お母さんが“欠けても音は鳴る”って」
リリはノアを見た。
「ノアみたい」
ノアは理解できず、少し首を傾げた。
「……壊れてる?」
「違うってば!」
リリは笑いながら泣きそうになっていた。
「ちょっと変でも、大丈夫ってこと!」
ノアは鈴を握る。
小さく鳴った。
リン。
静かな音。
でも、不思議と残る音だった。
⸻
夕方。
エルナは台所に立っていた。
鍋から湯気が上がる。
いつもの匂い。
村の匂い。
「ノア、お皿」
「うん」
木皿を並べる。
以前なら、ただ置くだけだった。
今は少し考える。
リリの位置。
エルナの取りやすさ。
鍋との距離。
そういうことを考えるようになっていた。
「……成長したわね」
エルナがぽつりと言った。
ノアは顔を上げる。
「大きくなった?」
「そっちじゃない」
エルナは笑った。
でも、その笑顔は少し寂しそうだった。
「最初の頃は、何も見えてなかった」
「……」
「でも今は、人の顔を見るようになった」
ノアは考える。
たしかに、見る。
怒ってる。
悲しい。
怖い。
嬉しい。
前より分かる。
「ノア」
「うん」
「あなた、自分のことを何だと思ってる?」
突然の質問だった。
ノアは止まる。
「……旧式」
エルナは首を振った。
「違う」
「兵器」
「違う」
「じゃあ……」
言葉が止まる。
エルナは鍋の火を弱めた。
それから、ノアの前まで来る。
「あなたは、うちの子よ」
ノアは動かなかった。
だが。
内部のどこかが、大きく揺れた。
「子」
「そう」
「でも、僕は」
「関係ない」
エルナは即答した。
「血が繋がってなくても、人じゃなくても、そんなの関係ない」
ノアは理解しようとした。
でも。
理解より先に。
胸の奥が熱かった。
「だから」
エルナはノアの頬に触れる。
「帰ってきなさい」
ノアは頷く。
言葉が少し遅れた。
「……うん」
⸻
夜。
小さな食卓。
リリ。
エルナ。
ノア。
そしてガルドとピップもいた。
いつもより料理が多い。
たぶん、エルナが頑張った。
リリはずっと喋っている。
「でね!帰ってきたら絶対お話して!」
「うん」
「山のこととか!」
「うん」
「谷のこととか!」
「うん」
「あと熊!!」
「熊」
ピップが吹き出した。
「なんで熊なんだよ」
「旅って熊いるんでしょ!?」
「いるかもしれないけど!」
ガルドが酒を飲みながら言った。
「熊より人間の方が怖い時もある」
「またそれ」
エルナが呆れる。
ガルドは肩をすくめた。
「事実だ」
ノアは食卓を見る。
笑っている。
怒っている。
呆れている。
音がある。
温かい。
これが、帰る場所。
そう理解し始めていた。
⸻
食事の後。
リリは眠ってしまった。
ノアの腕を掴んだまま。
エルナが苦笑する。
「離さないわね」
「……うん」
ガルドが外を見る。
「明日は早い。少し寝ろ」
ノアは頷いた。
だが、すぐには動かなかった。
リリの小さな手。
温かい。
「ノア」
ガルドが低く言う。
「帰ってこい」
「……うん」
「絶対とは言わん」
その言葉に、エルナが少し顔を曇らせる。
でもガルドは続けた。
「だが、生き残る努力はしろ」
「努力」
「全部守ろうとするな。無理な時は逃げろ。ピップを連れてでもな」
ピップが顔を上げる。
「ガルドさん」
「お前もだ」
ガルドは二人を見る。
「死んだら終わりだ」
ノアは頷いた。
「……覚える」
ガルドは短く息を吐いた。
「よし」
⸻
その夜。
ノアは眠れなかった。
外へ出る。
星が見えていた。
村は静か。
でも完全な静けさではない。
誰かの暮らしの音が残っている。
ノアは鈴を取り出す。
リリから貰ったもの。
軽く振る。
リン。
小さい音。
壊れていても鳴る。
ノアは空を見る。
旅が始まる。
山を越える。
谷を越える。
知らない場所へ行く。
怖い。
重い。
でも。
戻る場所がある。
それだけで、少し違った。
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翌朝。
まだ薄暗い時間。
門の前に荷物が並ぶ。
ピップは緊張で顔が硬い。
ノアは杖を持っている。
ガルドが最後の確認をする。
「水袋」
「ある」
「火打石」
「ある」
「縄」
「ある」
「頭」
ノアは止まる。
「……ある?」
ピップが笑い転げた。
ガルドも少し吹き出す。
「まあいい。行ってこい」
エルナがノアの服を直す。
「怪我したらちゃんと言うのよ」
「うん」
「隠さない」
「うん」
リリは眠そうな目を擦りながら立っていた。
「……いってらっしゃい」
ノアは頷く。
「行ってくる」
リリは少し考えて。
それから、小さく言った。
「おかえり、待ってる」
ノアは、その言葉を胸の奥に入れた。
そして。
門の外へ、一歩踏み出した。
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後書き
第37話は、「旅立ち前夜」の回でした。
ノアはまだ完全に人ではありません。
けれど、
* 帰る場所
* 待つ人
* 別れの寂しさ
を知り始めています。
次回、第38話「出発」から、
いよいよ“山を越え谷を越える旅”が始まります




