パン屋の娘クララ・ステアの独白
「まあ、とっても美味しいですわ!」
焼きたてのパンを頬張って、クリームホワイトの巻き毛をしたお嬢様が言った。
「いやぁ、お褒めにあずかり光栄ですよ、ゾフィー様!」
太っ腹にちょび髭のパン屋の店主も笑った。鼻の下が伸び切っているわ。
「美味しいと噂で聞いてはいましたけれど、噂以上ですわね!」
「そいつは嬉しい! いくらここから近いとはいえ、プディング国の女王陛下のお傍までうちのパンの評判が届くとは……!」
兎の耳をした可愛いお姫様の笑顔に、店長の鼻の下の伸び具合は、とどまるところを知らない。店長を横に見て、カウンターの私はあくびが出そうになる。
食いしん坊のゾフィーは、この店の評判をどこかで聞いてお忍びで来たそうよ。ご苦労様ね、普通は使用人に行かせるでしょうに、自分で来るなんて。
兎獣人の小さな国は、かつて隣国アマンディーヌで権勢を誇る伯爵家に近付こうとした。でも任務を負っていた末娘が、『断罪』で伯爵家一派と捕まった。間が悪いとしか言いようがないわ。でもそれ以上の問題にはならなくて、何事もなかったみたいに『お嬢様の取り巻き・その三』だったゾフィーは母国へ戻され、また呑気にパンを買いに来ている。
小国過ぎて、鼻にも引っかけられなかっただけだと思うけれど。
「このクリームパンというものは、貴女が考えたんですって? 店長さんに聞きましたわ」
大きな菫色の瞳が、私を正面に見て屈託なく微笑んだ。
「はあ……」
小さな声で答えた私を見て、店長が慌てた。
「おい、クララ、ちゃんとお返事しろ! 申し訳ありません、こいつはまだ慣れていないもんですから、こんな態度で……。でも舌は肥えているんですよ」
店員とお嬢様の間に立って、パン屋の主人は言い訳している。ゾフィーが小首を傾げた。
「クララさん、とおっしゃるの? これからもご店主と、美味しいパンを作ってね」
「ありがとうございます! ……こら、それが店員のするツラか!」
私もそれなりに会釈はしたのだけれど、店長は更に大声で私に頭を下げさせた。
「また伺いますわ。それに、私……何だか貴女とはこれから、お友達になれそうな気がするの!」
パンのぎっしり入った紙袋をぽよんぽよんの胸に抱き、ゾフィーは天真爛漫に笑った。
よく言うわ、断罪の時に全力で逃げたくせに。
「ほお、良かったなクララ!?」
「はい……どうも、アリガトウゴザイマス」
店長に喜べと促され、私も仕方なくお礼を言った。ゾフィーは愛らしい笑顔を残し、軽やかに店を出ていく。
「またどうぞお越しください!」
へらへらと見送った後、振り向いた店長の顔は気難しいパン職人に戻っていた。目は据わり、丸い頬は引きつっている。
「あのなぁ、クララ! 店に立つからには、もう少しマシな接客しろよ! 無暗にへりくだれとは言わねぇが、不愛想にしていたらイザコザの元で、来る客も来なくなっちまう。お前も何だってそんなに態度がデカいんだかな……? お嬢様じゃあるまいし!」
「すみません……」
店長に怒鳴られ、私は粉だらけの頭巾をかぶった頭で俯いた。
「せっかく新しい領主の戦巫女様も来るパン屋だってんで、じわじわ評判上がってるんだからな。まずは店番、しっかり頼むぞ?」
「……はい、店長」
命令すると店長は大急ぎで厨房へと向かい、私一人が店頭に残された。
客足が途絶えた今のうちにと、パンを並べる作業を始める。
私の名前は『クララ・ステア』。
家族は無く、一人暮らしで、辺境の街にあるパン屋で働いている、ただの平民の娘。
それが今の私。
少し前までは違った。私は伯爵令嬢『ディアベラ・パリス』として、夢のような世界で暮らしていたの。でも今となっては、全て夢だった気がする。身分も、立場も、あれだけ翻弄された『前世の記憶』も、幻となって遠ざかっていく感覚を覚える。
焼きたての丸いパンが載るトレーを持った手を止め、小さな窓から店の外を眺めた。
行き交う人々は、誰一人としてこちらを見ない。ここに『元・伯爵令嬢』がいるなんて、思ってもいない。現実を再確認したら何故か溜息が出て、私はパンを並べる作業へ戻った。
私が元パリス辺境伯の娘で、王太子殿下の婚約者だったディアベラ・パリスだと言っても、今は誰も信じない。そういう魔法をかけられている。
これが私の懲罰。
『カサンドレの首輪』という、特殊な魔法。古代魔法の応用でアレンジバージョンらしいけど、もうどうでもいいわ。その魔法の効果によって、ディアベラは『いない』ことになっている。知り合いさえ素通りする。初めて会った顔になる。
さっきのゾフィーのように。
この辺境都市ヌガーには、パリス家の使用人だった者達や、御用達だった店の人達もいる。でもお嬢様を知っていた人も、私を『ディアベラ』と気付かない。
気付かないどころじゃないわ。本当のことを言っても信じないの。
「え、ディアベラさまですって……? やめてちょうだい、冗談じゃないわ!」
「おいおい、あの金ぴかお嬢様を名乗るには、あんたじゃ無理があるよ」
「あはは、面白いこと言うんだな?」
「変わった人ですね」
そう言って、怒ったり呆れたり失笑して終了。絶大な魔法の威力によって、『ディアベラ』に関する会話をしたことも忘れて去っていく。
お城の使用人だった人たちも、顔見知りだった人たちも。学院で一緒だった犬獣人のアイザックも。私の執事だったロビンも。
誰も彼もが、道ですれ違っても『私』と気付かず通り過ぎていく。あんなにお嬢様を大切に扱って、褒めそやしていたのに。私はここにいるのに。
わざわざ身を隠したり、目立たないようにする必要さえ無い。私は平民の娘、『クララ・ステア』。その嘘しか信じてもらえない。
魔法をかける前にも、訊かれた。
『ディアベラ・パリス』のまま、採掘場で労役をするか?
『ディアベラ・パリス』を捨てて、国外追放になるか?
選択肢が与えられるだけ例外的で、恵まれていたと思うわ。
迷わず私は国外追放を選んだ。束縛だらけのお嬢様の人生を降りられるなら、好都合とさえ思ったわ。待ち望んだ、『エンディング後』の世界。
ここからは自由気ままに人生をやり直そうと思ったのよ。最初は。
魔力も凡人の平均レベルになった私。僅かなお金を渡されて放り出されたのが、およそ一年前。追放された場所は、かつての実家の領地だった。
何故ならこの『戦巫女管区』の領主だけは唯一、私がディアベラだとわかるから。名門『ダックワーズ学院』と、伝説の『戦巫女』が、国外(一応)へ追放された罪人を監視する。それで王家も妥協した。
これじゃまるで、私が極悪非道の危険人物みたい。失礼しちゃうわ。誰のおかげで邪神が顕現して、世界が平和になったと思っているのよ? ……あら? 何か違う……? 別に今さら気にしないわ、そんなこと!
とにかく『邪神に魅入られた娘』に、悠々自適を与える余地は無いんですって。
追放と言っても囚人と同じよ。他の場所へ移動も出来ない。『カサンドレの首輪』の力によって、すぐに捕捉されてしまう。ためしに一回こっそり外へ出ようとしたら、速攻で『見張り役』が来たから間違いないわ……。
見張り役の戦巫女は私がこの店で働いていることも、ちゃんと知っている。たまに客として、様子を見に来る。
「パン屋さんの調子はどう?」
と、薄笑いして聞いてくる。気味が悪いわ……。
どうして私がわかるの? と、尋ねてみたことがある。そうしたらあの白けたような、とぼけた顔をして「愛じゃないの?」とか言っていた。本気で気味が悪いわよ!!
あんなの絶対に、戦巫女の特権で不正をしたのよ。没落した元伯爵令嬢を見て楽しんでいるだけだわ。私が貧しい身なりになって、髪もお化粧もそっちのけで、粉だらけになっているのを見て喜んでいるのよ、悪趣味ね!
腹が立つけど、どうしようも無い。それにまず働かないことには、食べていけない。
追放されて、どうせ働くならとパン屋を探し歩いた。だけど私が良いと認めるだけのお店には、軒並み断られた。パン職人の素人で、家族も身元の保証人もいない『クララ』を雇ってくれる店は、ここしかなかった。やむを得ず、私は街外れのこの小さなお店で働くことになった。
店長のピーターがパン馬鹿だから、味は抜群に良いお店。
でもこだわり過ぎて全く儲からないから、常に倒産寸前のお店。お金は店長が何とかするとして、店員の重労働が予想を遥かに超えていて、そちらに仰天したわよ。
力仕事だらけ。暑いし、忙しい。賃金は安い。昼食だけはお店で食べられるとはいえ、割に合わないわ。午前零時に退勤して、午前五時に出勤……。でもパン屋では、これも意外と当たり前だって……。『当たり前』の基準がおかしいわ。
思っていたパン屋さんと全然違うじゃないの。もっと魔女がアルバイトで宅急便するようなものだと信じていたのに、全部嘘じゃないの。世の中なんてウソつきばっかりだわ。嘘をつくなら最初からそう言ってほしいわ。「これから! 嘘を! 言いますよ!」って言ってくれなきゃ信じちゃうじゃないの、信じた私がバカみたいじゃないの無責任ね!
ルカには、「ディアベラちゃん……原価率って知ってる?」とか訊かれたけど、知るわけないでしょ。値段も気にしてなかったわよ! そんなの気にしていたら良い材料が揃えられなくて、美味しいパンなんて出来ないでしょ、そこだけは店長に同意するわよ!
――……そうよ、知らなかったのよ。
別荘の一つだった辺境の城。その壁を一枚隔てたら、そこに水が無いなんて知らなかったのよ。「ここの水は美味しくない」と、他から運ばせるのが『当たり前』だったのよ。パンの材料の水と小麦を得るだけで、こんなに大変だなんて考えたこともなかったのよ。自分には関係ないと、そう思っていたのよ。
もしも今ここで魔法が解けて、私が『ディアベラ』だと知ったら、人々は何て言うかしら?
「……おい」
きっと「強欲なパリス伯爵の娘だ!」と、吊るしあげられる。素通りするどころじゃすまないわ。石を投げたり、袋叩きにされるかもしれない。「お友達になりたい」と言ったゾフィーだって、後も見ないで逃げるでしょうね。
私は『カサンドレの首輪』の魔法に囚われているのと同時に、守られてもいる。
自分の死を他者に望まれたくなければ、真実を知られない方がいいの。たとえ『クララ・ステア』という、虚構しか信じてもらえないとしてもその方が。
「おいっ!」
「ひえっ!?」
近くで大声がして、顔を上げた。
日頃の疲れと、作業に没頭していて気が付かなかった。いつの間に店へ入って来ていたのか、パンを並べていた私のすぐ左隣には、若い男性が立っていた。
その人は大柄で、黒い上衣と上質な外套を着ている。肌は褐色で、彫りの深い顔立ちをしていた。灰色の硬そうな髪の下からは、特徴的な黒い獣の耳が覗いている。
「そのパンを買いたい」
小柄な私の身長へ合わせて身を屈め、綺麗な赤紫色の瞳が、顔を覗き込んでそう言った。
「……ッ」
懐かしさに、喉が潰れる。私は目を瞠り、瞬きも呼吸も止まってしまった。
――どうしてここにいるの。何でこんなところに現れるの。
「……売り物ではないのか?」
硬直しているパン屋の娘へ、黒獅子獣人の『お客さん』は尋ねてくる。
相も変わらぬ不愛想の、生真面目な口調だった。厳ついし怖いし、ちっとも笑わないけど、店員を見下したり脅しているのとは違う。私は知っているの。この人はバカみたいに無垢で優しいのよ。
「え!? い、いいえ、申し訳ございません! は……はい、数は、如何ほどですか?」
やっと私は身体だけ、弾かれたように動いた。頭の中は真っ白のまま。
「これを二個と、そっちのも二個欲しい」
「クリームパンを二つと、クロワッサンを二つですね、少々お待ちください!」
注文された品を繰り返す自分の声は、ひどく甲高く、遠く聞こえた。
夢遊病のように動く体の中心で、心臓がガンガンと胸を打つ。商品を選び袋へ詰めるだけの動作と時間が、いつもの何倍にも引き延ばされて感じる。
――……大丈夫、大丈夫よ。
世界最強の無駄に厳重な『カサンドレの首輪』。
この魔法がかけられている限り、私はパン屋の娘のクララ・ステア。どこかの断罪された大悪人の、伯爵家の、婚約者に婚約破棄された、惨めなお嬢様だとはわからないから大丈夫。
自分にそう言い聞かせても、売り台を挟んで向こう側にいる人を見られない。手元を見ている赤紫色の視線が痛い。見ないで、お願いだから見ないで。こんながさがさに荒れた手なんか見ないで。
「このパンは、お前が考えたのか?」
「は、い……いいえ。戦巫女様、です」
じんわり泣きたいこっちの気なんか、知るはずもない。
下を向いている私へ、『お客さん』が話しかけてきた。「はい」と言ってしまえば良かったかしら? でもそれだと嘘になってしまうから、せめて私は訂正した。
常に倒産危機な店を見て、クリームパンを作ったら? と言い出したのは、戦巫女のルカだった。「私が食べたいから、作ってくれたら買いに来ます」と、こっそり耳打ちしていった。それで私は店長に言って、夢想と空想と試行錯誤で、クリームパン的なものを作ってみたら意外と売れ始めた。これを切欠にお店の評判も上がってきている。
戦巫女が常連、ということも宣伝文句になっていて。
「そうか。戦巫女のオランジェット男爵は若いが、面白い領主と評判らしいな」
獣人の『お客さん』もそう言った。言葉の端々には信頼と好意が溢れている。
「は、はい。民は皆、戦巫女様のお恵みに感謝しております……」
私はもっと下を向き、従順に同意した。街外れの貧しいパン屋の娘なら、こうしなくちゃおかしいから。
「実は戦巫女とは、俺も少し知り合いでな。同じ学び舎にいた時期があった」
「そ、そうですか……」
続く話しには形だけ答えた。手は震えてたった四個のパンを紙袋へ入れるのに、やたらと時間がかかっていた。
「何だか知らんが、些細な理由で俺に菓子をくれたりした。こちらが返礼をすれば、子どものようなはしゃぎようで喜ぶ。泣いたり笑ったり、毎日忙しそうで」
「…………」
まだ『お客さん』は一方的に、他愛ない雑談をしている。狭い店の中で、私は無反応に徹していた。
こんな話し聞きたくない……。今、絶対に顔が真っ赤になっているわ。だってこれは私が運命のいたずらで、少しの間だけ『戦巫女』の席に座っていた時期のお話しなんだもの。恥ずかしくて死にそうよ!
無邪気に『別人』を楽しんでいた、あの頃の私。
別人の、戦巫女になっている間は、何だって出来た。自分が『ディアベラではない』という理由だけで、不思議なほど自由になれた。一歩間違えれば命に危険が迫る魔法にかかっていることも、どうでも良くなるほど楽しかった。
天敵のような間柄だった黒獅子族の若殿にだって、自分で話しかけられた。元のディアベラだったら、出来なかったでしょうね。性根のひねくれきったお嬢様には、己の過去の無礼や失敗を、正面から恥じる勇気なんか無かったもの。
でも『正なる戦巫女』の仮面を被っていれば違った。
泣いている私を心配してくれた「大丈夫か?」の言葉も。手作りのお菓子を渡したときの驚いたような照れくさそうなお礼も、素直に受け取れた。
不器用な優しさの欠片に触れて、受け取ってしまった。
心配や、笑みの対象が私ではないと、わかっていたの。本当の『ディアベラ』だったら、こんなにうまくいくわけがないと知っていたの。
と、
「風変わりな娘だったな……。初めて会った日から、俺を知っているような顔をする。異世界から召喚された娘は、こういう存在なのだと考えようとしたが……無理があったな。俺も初対面の時から、初めて会った気がしなかった」
パン屋の娘の前で、黒獅子獣人のお客さんは昔話を続けている。その話しの最後尾に、思いがけない疑惑がくっついていた。つられた私は目を上げる。
「は……?」
「変な話だが、あの『戦巫女』は俺が以前から知っていた『別人』と、そっくりだったんだ。見た目の特徴だとか、そういう問題とは別だ。しかし正直、そいつは俺にとってあまり良い思い出の無い相手だった」
遥か上の方にある精悍な顔は、横を向いて喋っていた。眉を寄せた表情には、気に入らないという険しさがある。嫌われ者だった『伯爵令嬢』を指しているのは、わかったけれど……。
そう言えば学院で初めてこの人と、戦巫女として出会った日。「初めて会った気がしない」と言っていたわ。あれは決まった台詞と思っていた。でも前世にあんな台詞は無かったような気もするし。
「ど、どうして貴方様は……戦巫女様を、そのような別人と、見間違われたのですか……?」
そう言った自分の声は、からからに掠れていた。横を向いていた人が、無防備な動作で向き直る。
「見間違い? 見間違いか……そうだな。人間ならばもっと目と頭に頼って、自分で『見間違い』と信じ込むのだろう。しかし獣人は己の本能や感覚を信じる。俺にとっては、下手くそな『変装』を見せられているようなものだった。二度も会えば確信した。むしろ何故あんなことをしているのか、理解出来なかった」
目の前の人は、苦々しげに喋っていた。私はそれを聞き、唖然としている。体の芯から湧きあがるのが恐怖か期待か、判然としない。指先は冷たくなっていた。
まさか、まさか、と心臓が、ひたすら高まり鳴り続けている。
「それでも目の前にいる娘は、『自分は異世界から来た』と言い張っている。邪神との戦いも控えていた。周囲も『あれは戦巫女ルカ』だと、示し合わせたように話している。ならば……何か俺の知らない、神々や戦の理由でもあるのだろうと思った。いつか本当のことがわかると、そう考えていた」
黒獅子の獣人は、愚痴をこぼすように話し続けている。他に身の上を聞いてくれる人がいないのかしら。長々と語っていた。
――……じゃあ、知っていたの?
その言葉は、私の閉じた喉から出てこない。作業をする手は、紙袋の封を不必要なほどの慎重さで折りたたんでいた。
「だが……ある日突然全てが変わって、俺に菓子をくれた『戦巫女』は消えてしまった。消えたとしか言いようがない。それまでとは、また異なる『別人』になってしまった」
腕を組んで難しそうに、目の前の人は呟く。
「異なる……?」
「ああ、ここの領主の、今の戦巫女がそうだ。アイツは強いし頭も良い。たまに突拍子もないことを言い出すが……。曲者ぞろいの貴族や魔導師を相手に、よく立ち回っている」
灰色髪の『お客さん』は、誰かを思う顔で言った。
惜しみないと言って過言ではない称賛。それを聞き、平民の娘も無軌道な混乱から少し抜け出した。否定はしないわ、そうでしょうね。いくら王家や大貴族の援助があると言っても……っていうか、ルカはスペック高過ぎるのよ!
『クララ・ステア』の正体を知っているあの子。世界最高に難解という、鉄壁の魔法も通じない理不尽の塊り。一時間ほど前、この店へも顔を見せた戦巫女。
別人を遊んでいた幼稚な私とは、比較にもならないわ。
本来なら近付きようもない人を、目で追っていた私。気安く名前で呼びかけて、隣を占有していられる時間が嬉しくて仕方なかった。愚かで浅ましい元伯爵令嬢は、今こうして罰を受けているの。
しかも今回の仮面は、以前の『下手な変装』とは違って、とびきり上等で頑丈なのよ。
「ま、まあ、それは……ふ、不思議なお話しです、ね」
私は新しい仮面を被り、こんな風に作り笑いをして貴方と会話している。我ながら見苦しくて嫌になる。
「パン屋でもそう思うか?」
「ええ。何度も人格が変わってしまうなんて、大変ですね。心をいくつも持つ人もいると聞きますが、違うようですし……本当に不思議で、信じられないくらいです!」
意を決し顔を上げ、『クララ』は接客の微笑で言う。私を目当てに来るお客さんも実は多いから、そこは自信はあった。
でも紙袋を受け取った褐色の顔が微かに笑い返してくれると、見ていられなくて目は逸らした。
ここにいる『私』を、貴方は知らない。私が誰か、気付かない。それでも石を投げられるよりはいいわ。どこまでも欲深な娘だと、軽蔑されるよりはまだいいわ。
そう考えるほど自己嫌悪は雪のように降り積もり、冷たい下唇を噛んでいた。
「俺としてはそれよりも、以前のちょっと頭の悪い戦巫女が、どこへ消えたのか気になっていたんだがな」
「頭の悪い……」
「ああ、聞きたいことが山ほどある」
「本人は聞かれたくないのよ……っ」
「何か言ったか?」
「いっ、いいえ、何も……!」
私の独り言を拾って尋ねる背の高い人へ、不格好な笑顔と釣銭を差し出して答えた。黒い大きな手のひらへ小銭を載せ、後は『お客さん』を見送れば終わり。
そう自覚したら、緊張が緩んだ。同時に寂しさが胸を絞った。
また来てくれるかしらと、私の悪い頭は性懲りもなく考えてしまう。
「あの、戦巫女様でしたら、今日もヌガー城にいらっしゃいます。そちらで、詳しくお聞きになってみては如何ですか? 誰とでも、気さくにお話ししてくださる方ですから」
この期に及んで私の口が、余計なことを喋った。
罪人の見張り役が、真実を話すわけないとわかっているの。これは単なる無駄話の、時間稼ぎの、要するに貴方とお話しがしたかっただけ。
すると
「それが生憎……ルカは、俺に教えてくれない。役割があるとか、何とか言ってな。まぁ立場と事情はわかる」
片手で紙袋を抱えた人は、何故か不機嫌そうな顔になる。
そして怖いくらい真剣な赤紫色の瞳が光り、貧しいパン屋の娘を捉えて言った。
「手掛かりだけは聞いていた。あいつが『パン屋』にこだわっていたのは、こういう理由だったか」
言葉と気迫と研ぎ澄まされた眼差しに貫かれて、胸がぎくんと軋んだ。音と時間が止まり私は全身が強張って、もう一度頭が真っ白になる。
隠す意味の無い眼は、手の込んだあらゆる虚構を無意味化させる。魂まで見透かしている。
「……え?」
髪もエプロンも粉だらけのパン屋の娘は、何と答えれば良いのかわからない。怖くて、やるせなくて、胸が痛くて仕方ない。
いつまでも無能に突っ立っていたら、灰色の髪をした人はますます顔をしかめた。
「俺がいくら尋ねても、ルカは『王子様とはそういうものなのです!』だの、意味がわからん……。フューゼン殿下のような人物を、王子様と呼ぶんだろう? 俺はそんなガラではないと言っても、『自分で捜せ』の一点張りだ」
隣国の黒獅子が街角のパン屋で不機嫌顔になっているのは、平気で無茶ぶりをしてくる戦巫女のせいみたい。
(私は、こんな話しを聞かされて、一体どうしたらいいの……?)
(あの子は、何を言ったのよ?)
それだけじゃないわ。
最初から、わかっていたの? その人の目に『パン屋のクララ』は、どんな道化に映っていたのよ?
何よこれ。
理不尽の塊りが、もう一人いたなんて。嘘よりひどいじゃないの。
――貴方にだけは会いたくなかったのに。こんなみすぼらしい姿、見られたくなかったのに。
「……ナキル?」
なりふり構わず、貴方を呼んでしまう私は、何なのよ?
溢れそうになる涙を無理やり堪えて、声は小さく情けないほど震えていた。褐色の顔が笑い、伸ばされた大きな手が頬に触れて
「それで、いつまで俺に、その下手な嘘をつき続ける気なんだ? ディアベラ」
愛しい声が、私を呼んだ。
――こうして伝説の戦巫女は『邪なる神ソルト』を封じ、世界は平和になりました――
どこかのおとぎ話の最後は、そう結ばれている。めでたしめでたしで物語は幕を閉じる。
そのエンディングの端っこに
――ところで、とある国の黒い獅子の王様が、パン作りの上手な娘をお嫁にもらいましたとさ――
そう追記されるのは、十年も後のお話し。