3−3 『決意』
六限目は、特に目立った事態は起こらなかった。
秀一から見るに、住野千秋の精神状態も相当な荒れ模様なのだろうが、それをおくびにも出さず、彼女はじっと、授業をやり過ごしていた。
赤城朱美も静かに授業を受けてはいたが、端から見てわかるほどに、上機嫌なようだった。
クラスメートたちは気にもとめていないが、それは、彼女が普段から愛想がいいからだろう。先のような陰湿な部分もあるが、普段は明るいのだ。人間、いくらでも仮面を所持しているものである。
秀一にも、特段の変化はなかった。前方に座っている二人を観察しながら、授業を受けた、それだけだ。
もちろん、荒れた海のような胸中にも、変化はない。寄せては返す波のように、小さくなったかと思えば、急激に大きくなるといったことを繰り返している。落ち着いてきた時には、再びふと湧き出してくる。
イライラする。
〜〜〜〜
六限目が終わると、当然、クラスメートたちは教室からいなくなり始める。
その前に、興味を持ったのか、教卓にあるノートを眺めていくものもいた。おそらく、先の休憩時間に、見ることがかなわなかった者達だろう。
誰も彼も、住野千秋の持ち物だとは気付かずに、見ている。
住野千秋の物だと分かったのなら、すぐにでも、ノートは彼女の手元に戻ってくるのだろう。そして、漫画の絵を褒め称えられる。「住野って、絵もうまかったんだ」
似合わないと思う者もいるだろうが、それよりは遥かに、住野千秋の万能っぷりに対する反応の方が多くなる。
特に、男子はそうだ。
彼女は外見が良い。似合わないと思ったとして、それを口に出そうと思う者はいないだろう。
そして、それは住野千秋もわかっているはずなのだ。
…………わかっているはずなのに。
彼女が、いかに無邪気な可愛らしさを振りまいているとはいえ、そこにある程度の打算はあるはずである。『こうすれば』『こうなる』。人間、無意識にではあるが想像以上に、自分の立ち位置は気にしているものだ。
特に、住野千秋は頭が良い。集中力もあれば、視野も広く、赤城朱美の思惑にもすぐに気が付いていただろう。
今までの経験もあるのだろうが、その無邪気さとは裏腹に、人間の醜い部分を、彼女はキチンと知っている。
しかし、全部わかっているはずなのに、ノートの持ち主は自分だと言い出す気配はない。
そこまで言いたくない理由があるのか、と気になってくる。
教卓に立ち寄った赤城朱美が、まだ教室に残っているクラスメートたちに向かって、言う。
「みんな、ノート、心当たりない?」
対して、返事は首を振るようなものばかりだ。
「吉野くんは、どう?」
秀一は、どういったものかと悩んでいた。
「ある」と言ってしまおうかとも思った。「俺は持ち主を知ってるぞ」と、住野千秋の代わりに言ってやりたかった。
ちらと住野千秋を見やると、視線に気付いて、肩を硬くしたのがわかった。思わずため息をつきそうになる。首を捻るようにして、そんな表情を隠した。悩んでいるように見せかける。
無関心は糾弾する材料になる。そう言う『どうしようもないもの』は、『いつ』『誰に』降りかかるのかわからないのだ。
ここでため息をこぼして、それを誰かが覚えていたとしたら、いつかそれを引っ張り出されて「吉野くんって、ちょっと冷たいよね」ということになるかもしれない。特に、赤城朱美のような人種はそうだ。
気にしすぎだと自分でも思うが、秀一は、そういう小さな伏線のようなものに敏感でもあった。
現実は小説とは違う。しかし、小さなことが大きな奇跡や絶望を引き起こし得るのも事実である。そう考えると、良くも悪くも、一つ一つの言動が、とても価値のあるものに思えてしまう。
「いいや、残念だけど、わからないかな」
結局、無難にそう言った。
すぐさま、赤城朱美が、
「そう。じゃあ、職員室に預けてくるから、やっぱりって人は、田邊先生のところに行くように、みんなに伝えておいてね。それじゃあ」
と言って、ノートを片手に教室を出て行ってしまう。
住野千秋はそれを見送ってから、無言で、廊下に出た。
秀一は、舌打ちをしたくなるのを堪えながら、少しばかり響子を待たせてしまったことが気にかかり、急いで、『いつもの場所』へと向かうのだった。
深呼吸を何度かする。
響子に愚痴は聞かせたくなかった。
〜〜〜〜
「ごめん、遅くなった」
秀一は普段から、一言目から言い訳はしないように気をつけている。言い訳するのは仕方ないが、一言目からそれでは相手の印象も悪いからだ。
だが、今理由を告げないのは、そういう理由からではない。
理由は二つある。一つは、ただ単に、先の出来事に触れたくないから。
もう一つは、今の感情を、自分でも上手く言葉にすることができないからだ。
秀一は今、苛立っている。
それは確かだが、しかし、それが何故なのか、どういう苛立ちなのかといえば、分からない。自分でも理解できない事柄を話題にするのは、避けたかった。
分からないことを前に口ごもってしまうというのは、よくある。当然ではあるが、人間、分かっていることしか、分かるようには説明できないのだ。
「気にしないで。というより、そんなことでいちいち謝られても困るわ」
私だってたまに約束に遅れることがあるけれど、あなたは笑って許してくれるじゃない、と石像の前に立っていた響子は言った。
そんなつもりはないのだろうが、彼女は元来目つきが険しいので、謝ったことを責められているかのような錯覚に陥る。
秀一は、その錯覚に、幾分か自分の気持ちが和らぐのを感じた。
「響子は女の子で、俺は男の子だ」
「私、そういうのは嫌いなの」
「じゃあ、響子は響子で、俺は俺だ」
「そっちの方が良いわね」
言って、じゃあ帰りましょうと、独りでに歩き始めてしまう。秀一も後を追った。
昨日はまだ完治していなかったようだが、今日の響子の足取りは軽快だ。筋肉痛はすっかり良くなっているらしい。
そんな後ろ姿を追いながら、秀一は直感する。
このモヤモヤについて、知らなければならない。
知ってどうするだとか、どうなるかとかは、今は考えない。
このモヤモヤについて、知らなければならない。
いいや、知りたい、だ。
感想等お待ちしております。




