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アレクシス様は伯爵家の嫡男だったが、こちらも当主である伯爵がまだ現役であるのを良いことに、念願だった古代遺跡の発掘調査に打ち込んでいた。
もともとはサラ様も一緒に行く予定だったらしいが、子どもが生まれたので、彼女は王都の伯爵邸に残ることになったそうだ。
遺跡は隣国との国境にあり、往復するのに十日ほどかかる。
確かに近い距離ではないが、新婚の妻と生まれたばかりの我が子に会おうとするのに、それほど困難ではないはずだ。
だが、アレクシス様は年に一、二度しか帰ってこないらしい。
〝ブラン伯爵令息が妻子を顧みず発掘調査に打ち込んでいる〟
そんな噂が社交界に流れ、サラ様に対して同情する夫人たちも多かったが、わたしは複雑な気持ちだった。
ロイがサラ様を心配し、しばしば彼女のもとを訪れていることを知っていたからだ。
隠すつもりはないようで、外出の際に行き先を問えばサラ様を見舞うため、伯爵家に向かうと答える。
夫が不在時に夫人を訪ねるなんて醜聞の元になりかねない。遠回しに諫めてみても、
「夫妻のどちらも私の大切な友人だ。やましいことなど何もないのだから、言いたい奴には勝手に言わせておけばいい。まさか、君まで疑っているんじゃないだろうな?」
と、またしてもこちらが悪者にされてしまったので、それからは何も言えなくなったのだ。
ロイという人は自分にとって都合の悪いことを指摘されると、相手を非難して自分が被害者として振る舞うことがよくある。
サラ様が離婚されて、さすがに実家には訪ねていけないだろうと安心していたところにまさかの仕打ちだ。
裏切られたと絶望してもおかしくない。夫を信じていたなら。
悲しみのあまり胸が張り裂けそうになり、泣き崩れても当然だ。夫を愛していたなら。
でも、思ったほど涙は出なかった。
自分でも意外だったけれど、だからこそ気付いてしまった。
とっくに夫を愛することも、信じることもやめていたのだということに。
わたしだって子どもを産み育て、幸せな家庭を作りたいという願望はあった。でも、ロイはその願いを容赦なく踏みにじった。
どこまで妻であるわたしを蔑ろにするのだろう。
話し合いを拒否されてから、ロイに怒りを向けたことがなかった。ただ彼の言動を黙認してきただけだ。今まであまりにも傷つき過ぎて感覚が麻痺していたのかもしれない。
ここまでのことをしておいて、ロイはまだわたしが黙って従うと思っている。
何よりそのことが許せなくて、猛烈に怒りが湧いてきた。
(絶対に思い通りになんてさせないわ)
*
少し時間を置き、冷静になって考えてみると、おかしなことが多すぎる。
なぜ、サラ様は我が子を手放そうと思ったのか。
離婚したとはいえ、ノアはブラン伯爵家の嫡子なのだから、アレクシス様の元に残すこともできたはずだ。わざわざ実家に連れ帰っておいて、まったくの他人であるロイに預けるなんておかしすぎる。
噂好きな人たちでなくとも、話を聞いたら皆がじつはロイの子どもなのだろうと言うだろうが、わたしにはとてもそうは思えなかった。
ロイを信じているからではない。
学生時代から、サラ様にとってロイは忠実な僕のようなものだった。けっして同等ではなく、恋愛対象にはならない。自分を崇拝してくれて、何でも言うことを聞いてくれる便利な存在であるというだけの男。
プライドが高く、上昇志向の強いサラ様がそんな相手に体を許すはずがないと思うのだ。
(だめだわ、考えがまとまらない。わからないことが多すぎるのよね)
* * *
夫から事情を聞くのを諦めたわたしは、情報を集めるためにメイベルと会うことにした。
子爵家の三女だった彼女は、平民だが王都でも有名な商会の跡取りと結婚し、同級生の間では〝隠れ玉の輿〟と言われている。
メイベルはしばしばお茶に誘ってくれるが、貴族の夫人たちが集まるお茶会と違い、いつでも気兼ねなく話せる。
相談があると手紙を書いて送ると、屋敷に招いてふたりきりで話す機会を作ってくれた。
「ごめんなさい。本来ならこちらがお招きすべきなのだけれど、今、ちょっと落ち着いてお茶の飲める状況じゃなくて……」
「どうしたの? ロイ様が何かやらかした?」
わたしは思わず口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
「当たりね。どうせサラ様が絡んでいるんでしょ?」
「……なぜ、わかったの?」
「そりゃ、学生の頃からの付き合いだもの。あの男がニナを泣かせるのは決まってサラ様の事だったじゃない」
「もう涙も枯れ果てたわよ」
ロイがサラ様の子を引き取って後継者にするつもりだと話すと、さすがにメイベルも絶句した。
「……ほんとにあの男は悪い意味で想像を超えてくるわね」
お茶を飲んでほっと息を吐いてから、メイベルは苦々しげに言った。
「アレクシス様がいらっしゃらない間、ブラン家に通い詰めた挙げ句、出入り禁止になったっていうのに、そんなことをしたらますます不貞を疑われるわ」
「ちょっと待って。出入り禁止になったなんて聞いていないけど?」
「さすがに外聞が悪いから、ひそかに言い渡したみたいよ。サラ様のご実家にもお叱りがあったみたいで、エレナ様も怒っていらしたわ」
エレナ様はマイルズ家の嫡男の奥様で、サラ様の兄嫁にあたる方だ。商売上の付き合いから徐々に親しくなって、今では私的なお茶会にも呼ばれる仲だという。
もともと社交家だったメイベルは商会の仕事を手伝うようになって、さらに顔が広くなった。
「まあ、それが原因ではないでしょうけど、それからいくらも経たないうちにサラ様が離婚したじゃない? 夫不在の家にロイ様が頻繁に出入りしていたことは社交界でも噂になり始めていたし、そのうえで養子になんて言い出せば、じつはロイ様の子どもじゃないかって間違いなく言われるわよ」
「当然そうでしょうね。残念ながらノアはあまりアレクシス様に似ていないの。金髪に緑の目でサラ様と同じ色だから、余計にロイが可愛がるんじゃないかしら」
「あら? ついに呼び捨て? 今までどれだけ泣いても怒ってもちゃんと〝ロイ様〟って呼んでたのに」
「さすがにもう愛想が尽きたわ。あの人はいつもそう。都合の悪いことは黙っておいてなかったことにしようとするの。今度のことだって、何も事情を話してくれないのよ? 説明されたって多分受け入れられないけど、それでも黙って受け入れろという態度が許せないわ」
「そうよね」
「ただ、これからのことを考えるにしても、わたしの知らないことが多すぎて判断が付かないの。そもそも醜聞になることがわかっていて、なぜサラ様は我が子を手放そうとするのかしら?」
「あなたが何を言ってもサラ様の事となるとロイ様が聞く耳を持たないということはわたしも知っていたから、あえて話していなかったんだけど、サラ様は近いうちに再婚なさるというのがもっぱらの噂よ」
「再婚? 誰と?」
「チェンバレン侯爵よ」
「……それは大物ね」
ダグラス・チェンバレン侯爵。良くも悪くも社交界で注目されている人物だ。
家柄は申し分なく、豊かな領地を持つ資産家でもある彼が三十歳を越えても未だに独身でいることから、さまざまな噂が今も絶えることなく流れている。
それこそ理想が高すぎるのだとか、叶わぬ恋をしているのだというものから、果ては同性しか愛せないのだと密かに言われるまでになっていた。
「噂がどこまで真実かはわからないけれど、少なくとも理想が高いというのは事実みたいよ。本人じゃなくてお母様、先代の侯爵夫人がね」
「そう言えば、半年ほど前に亡くなられたんじゃなかった?」
「だから結婚できるのよ。生きていらしたら、一度離縁なさったサラ様との結婚なんか、けっしてお許しにならなかったと思うわ」
「チェンバレン侯爵は堅物で醜聞を嫌うと思っていたけれど、大丈夫なのかしら」
「そこまではわからないけれど、意地悪な見方をするなら、子どもがいないほうがサラ様にとっては好都合よね。チェンバレン侯爵はご自分の血筋に誇りを持っていらっしゃるから、血のつながらない妻の連れ子を可愛がるとも思えないし」
「だから、養子に出すことにしたと? あり得ない話じゃないわね。でも、もうひとつ疑問があるの。アレクシス様にとって、ノアは嫡男でしょう? 離婚したって子どもを引き取って後継者にすればいいのに、どうしてそうしなかったのかしら?」
「直接聞いてみたほうが早いんじゃない? 顔見知りなんだし」
「さすがにそんな立ち入ったこと聞けないわ」
「興味本位なら無理でしょうけど、あなたは実際に被害を受けているわけだから、事情を話せばあちらも無下にはできないでしょう」
「そうかもしれないけど、話を聞くならまずサラ様のほうが先だと思うわ」
「まさか、会いに行くつもり? 彼女が正直に答えるとは思えないし、嫌な思いをするだけじゃない?」
「本心でなくてもいいの。嘘であれ、言い訳であれ、サラ様が何を言うのか直接聞いてみたいのよ」
自分の子を育てることになるかもしれない相手に対し、あの人がどんな顔を見せるのか、そこだけは純粋に興味があった。
「また傷つくことになるわよ?」
メイベルが予言するように言ったけれど、わたしは黙って微笑んでみせた。
今はもうただ耐えているだけのわたしではない。最悪な状況を打ち破り、前に進むために動いている。だから、会いたくない人にも会うし、たとえ傷ついたとしても立ち止まったりしない。
今まで目をそらしていた事実を知り、受け入れることで、ロイの許を離れる覚悟がいっそう固まっていくような気がした。
* * *
メイベルに聞いたところ、サラ様は実家であるマイルズ家の屋敷にいるという。
断られるかと思ったが、手紙を出すとあっさりと訪問が許された。
久しぶりにお会いしたサラ様は成熟した大人の女性の色香を漂わせ、いっそう艶やかに、美しくなっていた。
「お久しぶりね。お元気そうで何よりだわ。ご挨拶に行かなくてはと思っていたのだけれど、ロイが必要ないと言うものだから」
(どうやら成熟したのは外見だけのようね)
そんな皮肉が浮かんでしまうほど、サラ様の口ぶりは学生の頃と何も変わっていなかった。
他人の夫を呼び捨てにすることを失礼とも思っていないらしい。いや、おそらくそこまで礼儀知らずではないだろうから、ひとえにロイとわたしがなめられているということなのだろう。
あの頃は我慢できたのに、今はどうしようもなく腹が立つのはなぜだろうか。
(洗脳でもされていたのかしら?)
ロイに嫌われたくなかったから、サラ様のご機嫌を損ねてはいけないと、無意識に思い込んでいたのだろう。
だとしたら、この女性が無礼だと思う今の感覚のほうが正しい。
目の覚めた思いがするが、とりあえず話を聞き出すためにこちらも態度を変えないことにして、愛想良く微笑んでみせた。
「そうでしたか。じつは夫からノア様を養子にすると言われましたが、本当にそれでよろしいのかしらと心配になりまして、サラ様にお話をうかがいたいと思い、お邪魔いたしました」
「まあ、それでわざわざ? ロイも困った人ね。奥様のことは大丈夫だと言っていたのに、不安にさせるなんて」
(何が大丈夫なのか聞きたいわ)
思わず心の内で突っ込んでしまい、苛立ちが顔に出ないよう気を引き締める。
「ノア様はブラン家の嫡男でいらっしゃいますわ。我が家の後継にしてしまってもよろしいのでしょうか?」
「構わないわ」
いきなりサラ様の口調が冷たくなった。
「あちらがいらないと言ったのよ」
「まさか、アレクシス様がそのようなことを仰ったのですか?」
信じられない思いで尋ねたが、サラ様は大きくうなずいた。
「そうよ、彼がそう言ったの」
「そんな、なぜですの?」
「さあ? どなたか新しく妻に迎えたい女がいらっしゃるんじゃないかしら? その方との子を跡継ぎにしたいのでしょう」




