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結婚して二年目の記念日、夫はいつになく早めに帰宅した。
特別な晩餐を用意していたけれど、いつものように遅いのだろうと期待していなかったので、覚えていてくれたのかと嬉しかった。
だが、出迎えようといそいそと玄関に向かうと、夫はひとりではなかった。
金色の髪に緑の目をした幼い男の子を大事そうに腕に抱いている。
わたしと目が合うと、その子はおびえたようにあわてて夫の胸に顔を埋めた。
髪と目の色をもっと濃くすれば、わたしもよく知っている女性の姿が思い浮かぶ。
(嫌な予感がするわ)
それは確信に近かった。
「お帰りなさいませ」
声を掛けても夫は頷くだけだ。
こちらは説明を待っているのに、まったく口を開こうとする気配がない。
夫であるロイはもともと無口で、仕事の場では同僚たちとも普通に会話をするようだが、自宅ではほとんどしゃべらなかった。
(見ず知らずの子どもを連れてきたんだから、さすがにそちらから説明するべきよね?)
こんな時でも自分から口を開こうとしない夫にイラッとする。
「この子を風呂に入れて、着替えさせてくれ。食事は一緒に摂るから」
(無視ですか)
こちらを見ることもなく執事に命じるロイにキレた。
「旦那様、説明してくださいませ」
自室に向かおうとする夫の前に立ち、行く手を阻む。
さすがに非常事態だ。作り笑いなど捨て、鋭い目で睨みつけてやった。
「この子はノア。サラの息子だ。今日からここで暮らす」
(やっぱり……)
サラ・マイルズ。ロイの初恋の人だ。
彼女は学院を卒業してすぐブラン伯爵家の嫡男であるアレクシス様と結婚した。
一年足らずで第一子を出産したが、その後二年も経たずに離婚したと聞いている。
その時生まれた子どもが今、目の前にいるこの子なのだろうが、そもそも父親がいるのになぜうちで引き取ることになるのかさっぱりわからない。
ロイがそのままわたしの脇をすりぬけて去ろうとするので、そうはさせまいとガシッと腕をつかむ。
「全然、説明が足りませんわ。なぜ、サラ様のお子を我が家で育てなくてはなりませんの?」
「うちには子どもがいないじゃないか。だから、ノアを養子にして家を継がせる」
(なんですって!?)
大声で叫ばなかったことを褒めてほしいところだが、淑女として耐えたわけではなく、ただあまりのことに呆れてすぐには声が出なかったのだ。
「旦那様、わたしたちは結婚してから二年しか経っておりません。養子を考えるのはまだ早いのではありませんか?」
「君は子どもが欲しくないのだろう? 心配するな、離縁はしない。だが後継者は必要だ。だから養子を取った。それだけだ」
「待ってください。わたしは子どもが欲しくないなどと言ったことはありませんわ」
「口にしなくても態度に出ている。夫婦の寝室に来ないことが何よりの証拠じゃないか」
(それを今、ここで言う?)
すでに執事や侍女は皆知っていることとはいえ、使用人たちのいる前で夫婦間のことを口に出すなんて最低だ。しかも、すべてわたしが悪いような言い方で。
「子どものことで誤解があったようですが、それにしても、なぜ養子を取る前に話してくださらなかったのですか?」
「後継者を決めるのは当主である私だ。君は黙って従えばいい」
全身から力が抜けていくような気がした。
夫は無表情のままわたしの手を振り払い、背を向けて去って行った。
「奥様……」
子どもを任された執事が当惑した顔で声を掛けてくる。
「旦那様の命に従いなさい。あなたが旦那様にお伺いを立てて、その子の部屋を用意してあげて」
ようやくそれだけ言うと、わたしは自分の部屋に戻った。
ひとりになると悔しさがこみ上げてきた。ずっと押し殺してきた悲しみがもう我慢できないとばかりに涙となってあふれてくる。
心のどこかでわかっていた。ロイは今も初恋の人を思い続けているのだと。
必死で目をそらしてきたのに、よりにもよって夫から残酷な現実を冷たく眼前に突きつけられ、わたしは否応なしに向き合うことになってしまったのだ。
* * *
わたしはカッスル子爵家の長女で、十五歳の時、ふたつ年上でクライド伯爵家の嫡男であるロイと婚約した。
ふたり姉妹の姉であるわたしが婿取りをして家を継ぐのだと、幼い頃から厳しい教育を受けてきたが、幼なじみであるワイズ侯爵家の三男がどうしても妹と結婚したいと言い出した。
順当に行けば、彼はわたしの婚約者になるはずだったが、相思相愛のふたりに周囲がほだされた。
言われるままに学んではいたが、領地に思い入れもなかったわたしは素直に当主の座を妹に譲ることにした。
勉強嫌いのふたりはおそらくこれからとても苦労することになるだろう。ちょっぴりざまあという気持ちがあったことは否定できない。
新たに婚約者を捜そうとなった時に、クライド伯爵家から縁談が申し込まれた。
嫡男が騎士団に入団する予定で、退団するまでの間、執務を手伝ってもらいたいとの希望があり、次期当主として教育を受けていたわたしが相応しいと考えたそうだ。
父は大喜びで申し出を受け、すぐに婚約が整った。
黒髪に青い瞳のロイは長身で体格が良く、やや無愛想ではあったものの、落ち着いた物腰で頼りがいのある人に思えた。
だが、翌年、王立学院に入学するとすぐ、彼には他に愛する人がいるのだと気づかされた。
学院の同級生、サラ・マイルズ伯爵令嬢。
わたしは茶褐色の髪にオリーブグリーンの瞳。小柄で、自分でも平凡な容姿だと自覚はある。
一方、サラ様は赤みを帯びた金髪に深緑のような鮮やかな緑色の目をした、すらりと背の高い華やかな美人だった。
幸いにもというべきか、彼女はロイの親友、ブラン伯爵家の嫡男アレクシス様の婚約者だった。
ロイは親友の恋人を奪うような人ではないから、いずれサラ様のことはあきらめてわたしを見てくれるだろう。
だが、そんな淡い期待が叶えられることはなかった。
わたしはいつも、三人が仲良く一緒にいるのを見ていた。
ロイが隠しきれない恋慕の情を込めてサラ様をみつめるのを、ただ見ているしかなかったのだ。
昼食の時もロイは必ずふたりを伴って食堂にあらわれ、みんなで食べたほうが楽しいだろうと言った。
自分の意見を口にすることに慣れていなかったわたしは、いつでも黙って微笑んで彼に従った。
婚約してから定期的に会うようになったが、ロイはあまり感情を表に出さないし、いつも静かでおしゃべりを好まないのだと思っていた。わたしも無口なほうだったから、ふたりでいても会話は弾まない。
なのに、サラ様と一緒にいる時、ロイは別人かと思うほどよく笑い、よくしゃべった。
そんな姿を見るたびにひどく傷ついたけれど、同時に疑問に思うことがあった。
(サラ様はアレクシス様とふたりきりでいたいと思うことはないのかしら?)
自分の婚約者が他のカップルの邪魔をしていると思われるは嫌だった。
さすがに本人たちにたずねるわけにもいかず、友人のメイベルに聞いてみた。
「うーん。サラ様もアレクシス様も嫌がっているようには見えないわね。むしろ、サラ様のほうはふたりに囲まれて喜んでるというか……」
「えっ?」
「ねえ、いつもロイ様といっしょにいることを申し訳ないとか、サラ様があなたに言ったことある?」
「……ないわ」
「おかしくない? いくら同学年だからって、あれだけいつもいっしょにいるのよ? ランチの時ぐらいは、あなたたちをふたりきりにしてあげようとか、思わないのかしら?」
「それは……」
「アレクシス様はそういうことに疎いみたいだからまだわかるけど、サラ様はそこまでニブイ人じゃないでしょ?」
「そうね」
サラ様はつねに穏やかで、誰にでもわけへだてなく優しく、とても気遣いができる人という評判で、男女問わず人気がある。だから、昼食を四人で取っていると、彼女が親友であるロイの婚約者に気を遣って、仲良くしてあげているという風に見えるようだ。
「でも、よく考えてみたら、それっておかしいわよね。だって、登下校だってあなたたちは一緒じゃないでしょ? それこそランチぐらいしか機会がないのに、それをふたりきりにしてあげないなんて、故意に邪魔してるとしか……」
ずっと感じていた違和感がはっきりした。
だが、まさかサラ様がそのようなことをするとは誰も思わないだろう。
それに、ロイが三人でいることを、いや、サラ様といっしょにいることを望んでいるのだから、わたしにはどうすることもできない。
たったひとつの救いはサラ様が婚約しているということだ。わたしがロイと別れても、彼が彼女と結ばれることはないのだ。
(サラ様が結婚なさったら、ロイ様もきっとわたしを見てくださるわ)
楽しげな三人の姿から目をそむけ、自分を慰めるしかなかった。
あれはいつのことだったか、昼食の後でロイとサラ様が席を外し、アレクシス様とふたりきりになったことがある。
彼は金髪にブルーグレイの瞳の美男子だったが、時折、心ここにあらずといった様子でどこか遠くを見るような目をすることがあった。
その日もサラ様とロイが楽しげに話す隣でふと黙り込み、窓から外を眺めていたが、ふたりが席を立った後、ふいにまっすぐな視線をわたしに向けてきた。
「ごめんね」
(えっ?)
いきなり謝られたことに驚き、とっさに言葉が出てこなかった。
「サラのせいで、なかなかロイと話せないだろう? そうかと言って、僕がニナとばかり話すとへそを曲げちゃうからね。面倒でつい放置してしまった。君には寂しい思いをさせて申し訳ないと思っている」
(ああ、この方はわかってくださるのだわ)
サラ様とロイの言動でわたしが傷ついていると気づいてもらえたことが素直に嬉しかった。
「いえ、あのっ、わたしなら大丈夫です。もともとあまりおしゃべりは得意じゃありませんし……」
「そう? 君は感性が豊かだから、本当は話したい言葉がいっぱいある人だと思うけどな」
微笑んだ彼は、ロイやサラ様より遥かにおとなびて見えた。
繊細で夢見がちな少年のような人だとばかり思っていたが、まったく別の一面があることに驚かされた。
「心配しなくても、おかしなことは起こらないよ。あまり酷いようなら僕からも注意しておくから」
わたしの不安を見透かしたような発言を残し、アレクシス様は静かに席を立った。
アレクシス様が気遣ってくださっても、ロイの態度が変わらないせいか、わたしは相変わらず会話に入ることもできず、おとなしく隣に座っているだけだった。
それでもアレクシス様がおっしゃった通り、わたしが恐れていたような波乱は起きることなく、卒業後すぐにおふたりは結婚され、一年も経たぬうちに男児をもうけられた。
彼らから二年遅れて、わたしも卒業と同時にロイと結婚式を挙げた。式には子どもを抱いたサラ様とアレクシス様が夫婦そろって出席してくださった。
不安に駆られたけれど、ロイは挨拶を交わしただけで、必要以上に彼らと話し込むようなことはなかったのでホッとした。
ロイの両親はまだ健在だったから、ロイは王宮騎士団の騎士として勤め続け、わたしは家政だけでなく領地経営についても義理の両親から学ぶことになり、多忙な日々を過ごすこととなった。
愛する女性は他の男のもとへ嫁いでしまったのだから、ロイだっていずれは妻であるわたしのほうを見てくれると思っていた。
だが、そんな期待も空しく、結婚してから夫の態度は冷たくなる一方だった。
話が下手だと自覚はあるものの、結婚当初はがんばってコミュニケーションを取ろうとしたのだが、話しかけてもたまにうなずくくらいで、ほとんど言葉を返してくれない。それならといくつか質問してみると、うるさそうに顔をしかめ、席を立ってしまう。
初夜こそ終えたものの、それ以降は同じベッドで寝ていても、夫がわたしを抱くことはない。
夫が何を考えているのか理解できず、話し合いを望むと、彼は黙って自分の執務室に籠もってしまった。
ここまでされると怒るよりも呆れてしまう。
それからわたしは一切の努力を止めた。夫婦の寝室には行かず、自分の部屋で眠るようになった。
(一緒に寝ていても何もしないのだから、ひとりで寝たほうが気が楽だもの)
そこまでしても何も文句は言われなかったので、すっかり諦めて放っておいたのがいけなかったのかもしれない。




