明けの明星-2-
アボットと別れ、本来の目的であったアリシアの私室にやってきたメイヤー夫人は、ノックもせずに静かに扉を潜った。
気配に気付いていただろうに、こちらに背を向けてたままの男に声を掛ける。
「……艦長の容態はいかがですか?」
メイヤー夫人が声を掛けるまで反応を見せなかったジェフリーは、チラリと視線だけを寄越してきた。
「容態も何もピクリともしない」
「本当に大丈夫なんだろうな?!」
ジェフリーは立ち上がると、夫人に詰め寄ってきた。
彼が焦るのも分かる。クリストファーの呼吸が止まって、丸一日以上が経とうとしているのだ。
メイヤー夫人に詰め寄ったところで、事態が改善する筈もないが、ずっと一人で付きっきりのジェフリーは不安であっただろうし、憔悴仕切っているのが見て取れるほどだ。
「姫様が二日と仰ったのです、二日経てば目覚められますわ」
薬が完成するまで、幾度となくハラハラさせられたのはメイヤー夫人も同じだ。
回数で言えば彼女の方が断然多く、最初の頃は手探りに近かったため今のクリストファーの状況よりも酷いものだった。
アリシアが目覚めるまで、何度心臓の止まる思いをしたことか。
それに比べれば、今のジェフリーなど可愛いものだ。
だが実のところ、これほど長い時間仮死状態の実験は行っていない。アリシアは息を吹き返す事は信じて疑ってはいないが、五体満足かと問われればクリストファーが目覚めてみないことには何とも言えないとは、口が裂けてもジェフリーには聞かせられなかった。
「…………」
決して瞳を逸らすことの無い彼女の言葉には力があったのか、興奮気味だったジェフリーは大きく息を吐くと、無言で元の椅子へと投げ遣り気味に腰掛けた。
「湯に入れて温めてはいるが、湯から出すと直ぐに冷たくなる。船は今晩にも皇都に到着するんだ、自然に硬直が解けるのを待ってる時間は無い」
瀕死であっても、死んではいないという体をとならなければならい。
それには身体が硬直していては困るというのだ。
「最初の予定と随分狂ってきましたから……」
マティアスとアボットにはクリストファーは死んだと見せかけ、息を吹き返した後、大蜃皇国の仮住まいの宮で別の死体とでも入れ替えるつもりであったから、それくらいの日数で大丈夫なはずだった――当初の予定では。
だが、船足が速まった事で元々の計画とは随分と狂いが生じ始めていた。
これくらいの事で取り乱されては困るのだけれど……と、メイヤー夫人は早々にジェフリーの話題を切り上げた。
「今イーディス艦長の事を言い争っていても、何も出来ませんわ。……それよりも、姫様が後宮へ入った後のお話をしに参りましたの」
人の話を聞いていないメイヤー夫人に、ジェフリーは椅子の背に右腕を乗せると長い足を組んだ。
「……今度はどんな無茶をご所望かな?」
クリストファーが眠ってからまだ一日だ。
なのにジェフリーは酷くやつれて見えるが、いつもの軽口が出始めたのを見て、メイヤー夫人は口元を綻ばせた。
「簡単ですわ。この船を使って貿易をして下さい」
「……なんて?」
「この船を使って中央と西側との貿易と、各州への物資の輸送をする仕事をしていただきたいのです」
ああ、希望でしたらもっと東とでも結構ですよ?と微笑めば、ジェフリーは訝しそうにヘーゼル色の瞳を眇めてみせる。
「姫と姫の荷物を下ろした後、船と船員は全てセントパルミアへ帰すんじゃないのか?」
「それならば貴方がたのような一般の船乗りを雇い入れずに、海軍だけで船団を構成するはずでしょう?」
「敵の強襲を予測しての、軍艦と高速船の編成では無かった……と?」
メイヤー夫人は、ジェフリーの問い掛けにゆっくりと瞬きをした。
「姫様の持参金の中で、一番高価なものでしょうね」
「は、ははは」
思わずといった風にジェフリーの口唇から乾いた呵いが零れた。
正気の沙汰とは思えなかったからだ。
「正気か⁉最新鋭の船をくれてやるなんて、普通なら有り得ないが……正気なんだろうな、マリア・セシリアは」
例え持参金であったとしても、最新鋭の船そのものを持たせるなど有り得ないことだった。
それは、技術そのものを相手国に渡すようなものだからだ。
セントパルミアは、アリシアだけでなく最新鋭の船まで大蜃皇国に渡さねばならぬほど落ちぶれているのか……とジェフリーが渋面を作る。
「大蜃皇国は大国ですが、元は陸戦に特化した騎馬民族です。船の開発にはそれほど力を入れておらず、その技術は我々から見れば数世代は遅れており、航海技術もしかり……」
国土が広大である事が要因の一つだ。
船で沿岸部に上陸したところで、皇都までは距離がある。
沿岸部から各郡や州を陥落させながら行軍したとして、皇都に辿り着くまでに物資や兵士が枯渇するのが目に見えていた。
途中、奇襲にでも遭えば長くなった兵站は途切れ、進退が窮まる。
援軍を待つ間に、兵站を細かく分断されれば、包囲された後に殲滅させられるだろう。
広大な国土のほぼ中央に皇都を置いたのには、何も占断や地脈に頼っただけで無く、戦術上の意味もあったのだ。
「だからって最新鋭の船をくれてやらなくとも、少し前の戦艦でも良かっただろうに」
「すべて姫様の為です」
「……分からんね。例え次代のマリア・セシリアの為とは言え、もう戻ることの無い姫だ。国家機密を簡単にくれてやる理由にはならない」
首を軽く振っているジェフリーに、メイヤー夫人は子供に教えるように優しく問いかける。
「姫様が嫁ぐ理由を覚えてはいませんか?」
「西側と東側の同盟の為」
「そうです。西側諸国と大蜃皇国の間を取り持って、中央のハサンファティマを抑え込むのが姫様の役目です」
その為には、ハサンファティマの弱点でもあり、大蜃皇国の弱点である海軍を強化する必要があるのです……メイヤー夫人はそう続けた。
「――さも中央が動き出すような口振りだな?」
ここ数十年は動きが無かった。
「ここ数年でとは言いませんが、十数年くらいで考えれば可能性は非常に高いと思います」
メイヤー夫人の回答に、ジェフリーは右眉を上げるだけで続きを促す。
「今の皇帝は、高齢です。噂では既に寝たきりで、政は母后が行っているとか」
「だから次の後継争いで、ハサンファティマは現在内戦状態に近い状況のはずだ」
はい、と頷きメイヤー夫人は続ける。
「皇帝が亡くなれば後継争いは熾烈を極めますし、母后が亡くなれば後宮内でも激しい後継争いが勃発します」
「現皇帝には、正式な皇帝妃が居ないからな。帝位に就いた息子の母、つまり次の母后となった妃が絶対的な権力を持つ事になる」
「ええ、皇帝が臥せっているのであれば、後宮で権力を握った妃の息子が次の皇帝になる可能性が高くなります」
「そして後継争いに破れた王子達は禍根を残さない為にも全員殺されるって手筈だな」
メイヤー夫人は、こくりと頷くだけで言葉は紡ことは無かった。
ハサンファティマの帝位争いは、大陸に響き渡るほど苛烈を極めている。
絶対者である皇帝が亡くなる前に、次期皇帝を決定していることは稀なことであり、皇帝亡き後、王子達の間で継承争いが起きる。
ハサンファティマでは、実の兄弟であっても熾烈な帝位争いがある。
それには理由があり、破れた者はどんな理由があろうとも、禍根を残さぬためにも殺害されるからだ。
既に水面下で後継争いが始まっているだろう。
皇子達だけでなく、その母親である妃達も命懸けなのだから、西側諸国や大蜃皇国の継承争いの比ではなかった。
ハサンファティマがここ何年も大人しいのは、国力が低下している訳ではない。
帝位争いの派閥抗争で、国内が混乱しているだけなのだ。
これが一段落付けば、若い皇帝は必ず侵攻してくる。
歴代の皇帝達が成し得なかった偉業を自分が成す為に。
「で、後継争いが終われば、侵攻てくると?」
はい、とメイヤー夫人は短く答えた。
「それまでに姫は後宮での地位を盤石なものにしなければならないのか……」
それまでにアリシアが後宮で地位を固め、軍を動かせるくらいに州侯達の信頼を勝ち取らなければならない。
「かと言って、大蜃皇国が強く成りすぎても困りますので、バランス調整という役目も有りますわね」
難しい役割だ。
だが、やり仰せなければ自分の命だけでなく、西側諸国の人間が何百万人と死ぬことになる。
「……西と中央は俺が担当する。クリスだと顔が障すかもしれないからな」
「では、国内の輸送をイーディス艦長に担当していただきましょう」
「軍費が必要なのか?」
突然のジェフリーの質問に、「え?」とメイヤー夫人が聞き返すと同じ言葉を繰り返した。
「交易をするって事は、莫大な利益を生む。後宮の妃嬪達は、その位に応じて宮廷費を受け取るはずだろ?それに手を着けられないか、それでは足りない何かを買うか……例えば大量の武器とか馬とか」
真っ直ぐに射抜くように見つめる榛色の瞳から、視線を逸らす事なく答える。
「いずれ必要になるでしょうね。ですが、今は人心の掌握が先決です」
首を傾げるジェフリーに、メイヤー夫人はアリシアの貧民救済の計画を話し出す。
「実家という後ろ盾の無い姫様には、臣民という後ろ盾は何よりの武器になるます。それに――」
「それに?」
「柳偉という宦官のたっての希望もあり、各州の貧民や孤児達を救済する事になりました」
はぁ……と気のない相槌を打つジェフリーに、夫人は言葉を重ねる。
「孤児達を宦官として後宮に引き入れ、優秀な者に教育を施し、いずれ姫様の手足として働いて貰うという計画です」
「随分と悠長な計画だな」と嗤うジェフリーに、メイヤー夫人は軽く左右に首を振った。
「いいえ……私は、既に後宮内に何人もそういう者達が存在していると思っています」
「……根拠は?そう考えるには、何か根拠があるんだろう?」
違うか?……ジェフリーは、何か引っ掛かることでもあったのか、ヘーゼル色の瞳を眇めつつメイヤー夫人を見つめる。
――……柳偉自身がそれでは無いかと……――




