西側の料理-4−
『白美娘か……』
怜蜂はアリシアの意図を的確に捉え、顓人の元から知らせを持ってやってきた鷹の名前を呟いた。
それに反応したのは、瑞蛉だった。
血相を変えて椅子から飛び降りると、怜蜂の袖に縋りつく。
『やめてやめて!大兄に知らせたら、太后のお耳に入っちゃう!……約束をやぶったら小弟は、皇后におしかりをうけちゃうよ!』
『落ち着きなさい、瑞蛉』
怜蜂は、自身の腕に縋り付いて喚く瑞蛉を抱き止めるも、暴れる瑞蛉に手を焼き膝に抱き上げてその小さな身体を抑え込んだ。
ようやく暴れる瑞蛉の動きを止めた怜蜂は、抱き抱えた格好のまま瑞蛉の耳に優しく話し掛けた。
『大丈夫、何も心配する必要は無い。天帝陛下が亡くなった今、皇后だけでなく後宮の女官達は、妊娠を隠し果せるはずが無いのだ』
『……どうして?』
大人しくなった瑞蛉が、怜蜂の腕の中で顔を上げて疑問を口にした。
瑞蛉は幼いが故に後宮の慣例に疎いのは頷ける。
『天帝が崩御すると、後宮の女官は皇后から奴婢に至るまで、妊娠していないか全員検査を受けなければならない。皇后と四妃は、子供の有無に関わらず後宮に残る事が出来るが、それ以外の女官達は子供が居る者だけが後宮に残り、後は陛下と歴代皇帝を祀る寺へと送られる』
この検査は、どんな理由があろうとも、例え皇后であったとしても例外無く行われた。
もしここで妊娠が発覚すれば、位の低い女官の子供は処置される事になる。時と場合に寄るが、高位の女官であったとしても、男児が多い場合は同じ道を辿る事もままあった。
無駄に皇位継承争いが起こる事を危惧してだ。
だが大抵の場合、皇后始め、高位の女官の妊娠が発覚すれば扱いは違ってくる。
由緒正しい血筋の天帝の御子だ。出産まで勿論大事に扱われ、生まれてきた赤ん坊が男児であれば、兄弟にもしもの時に備えることになるし、女児であれば天帝の妹として有力な州へと、または褒美として将軍などへ降嫁させる駒に出来る。
怜蜂は、この検査を早めろ、もしくは後宮に天帝の忘れ形見が居ると、皇都に居る彩蝣に伝えるだけでいいのだ。
後は、慣例に従い後宮の女性全員が検査を受ける中、皇后の妊娠が発覚する。
彼女のお腹が大きい事は隠しようも無い事実だし、後宮にいる彼女には逃げ場は無い。
何故今まで隠して来たのかは問われるだろうが、天帝の忘れ形見、しかも皇后腹の子供ともなれば太后が動くはず。
皇后の妊娠が大々的に知れ渡れば、隠れて出産など出来るはずもない。
彼女が産気付けば、太后は皇后宮にへばりついて子の誕生を待つだろう。
そうなれば、赤子をすり替える機会は皆無だ。
そして皇后の子が男児であった場合、自分の意にそぐわなければ産婆に命じて殺してしまうやもしれない。
自分に取って代ろうとした皇后もろとも殺めてしまう可能性すら十分に有り得る。
何もこんな船の中でやきもきする必要は無い。
ただ皇后陛下が妊娠している、しかももう産月に入っていると太后の耳に囁けば事は済む話だ。
『……小弟が言いつけたって言われない?』
『それは、絶対に無いから安心しなさい。それにいくら年若いとは言え、皇后なのだ。天帝陛下が崩御した今、自分の宮に引き籠っていられるはずも無いのは、ご自身が一番良く理解しているはずだ』
天帝が崩御した今、率先して皇后が大臣達と話し合って葬儀の準備を行わなければならない。
例え太后が口を挟み準備を整えたとしても、今までのように表に出ないで済む状況ではなくなっている。
反対に今まで自分の宮から姿を現さなかった方が特異であったのだ。
どうして皇后は、姿を見せないの?
お腹が目立つから?
それならば、遠目からでも誰かに声を掛けるなどするか、天帝と同じく長患いとでも発表しておけば良かったのに……。
まさか、赤子以外にも何か隠し事があるのかしら?
怜蜂の話の中に他におかしな所は無かったか……、アリシアが自分の考えに集中して意識を沈めていると、側で"ポンッ"と軽い空気音がした。
メイヤー婦人が新しいワインのコルクを抜いた音だ。
沈んでいた意識を一瞬で戻したアリシアは、誰にも悟られないよう数度瞬きをすると、横から差し出されたワインの銘柄へと視線を向けた。
夫人が差し出してきた瓶の銘柄は、白ワインの産地で有名な地を治める貴族の紋章が刻印されている。
ならば次の皿は、魚料理ということだ。
この時代は、肉料理だけで二、三種類並ぶ事は普通の事であった。
舞踏会や他国の使者の訪問を受けた場合などは夜通し料理が提供されるし、また肉料理が好きな王の時代には、七種類もの肉料理が毎晩並ぶほどであった。
大国の皇子達に振る舞うのだ、料理長は侍女達からストップが掛かるまで、腕によりをかけた料理を作り続けることだろう。
そんな膨大な料理に合わせて、出されるワインの銘柄など一々確認する事など今まで一度も無かった。
なのにメイヤー婦人は、アリシアにワインの銘柄の確認を取るなど可笑しな話である。
単純にアリシアが一人考えの海に潜ろうとしたことを暗に咎めるためだと思ったが、そうでは無かった。
ボトルを差し出したままで、夫人はアリシアに向けて微笑むと、ボトルの銘柄を説明するかの様に柔らかな声音で、とんでも無い事を口にした。
「姫様、陛下は随分前にご崩御なさっていたのではないでしょうか?」
その言葉にメイランはギョッとしたように両目を見開き固まってしまったが、双子達は何でも無い事のように、玲蜂の前の空になったグラスと、瑞蛉の皿を下げ始めた。
『次は魚料理になります』
『魚料理には、白ワインを合わせますのでグラスを交換致しますね』
アリシアとメイヤー夫人の会話が聞こえていたはずの双子達は、動揺など微塵も見せずに"にこり"と微笑むと、口々に怜蜂と瑞蛉に向け料理の説明を始めた。
会話の続きが気になるメイランは、チラチラとこちらを伺いつつぎこちなく次の料理の準備をし始めた。そんな彼女を視界の端に捉えながら、アリシアはメイヤー夫人の言葉を考え始める。
夫人の言うように天帝の崩御は、自分達が考えているよりもずっと前の事なのだろう。
事が成就するまでは、と皇后は腹の子をひた隠しにしてきたが、ここに来て何かの拍子にばれてしまったのか、隠し仰せなくるような事態が発生したのか……。
発生したわね――即ち、|同盟国の姫という新しい妃《私という不測の事態》が来てしまった事で、彼女の思惑は簡単に瓦解してしまった。
大蜃皇国では婚姻の夜に、新郎が新妻の寝所を訪ね酒を酌み交わして婚儀が成立する。
当事者である天帝が、新しい妃、しかも同盟の為に自ら指名した姫の元へ出向かなかったなどとなれば、いかに弱体化したとは言えセントパルミア公国が黙っているはずも無い。
同盟が一転、険悪な関係に縺れ込めば、背後の憂いの無くなった中央に攻め込まれる隙を与える事になってしまう。
自分が権力を手中に収める前に国が無くなるような最悪の事態は避けたいのは誰しも同じ。
ならば、両国の面目を保ったまま婚儀を中止にするには、当事者の天帝に死亡して貰うのが一番確実だと言う訳だ。
――王冠は皇后にではなく、未だ太后の掌中にあり……か――
皇后は子を産むまでは何としてでも天帝の死を隠し通す算段だったのだろう。けれども、私が入宮する事で、意図せず皇后の目論見を壊してしまった事になる……もしくは……。
「そうね……それとも、皇后自らが手を下されたのか……」
これでは例え男児が生まれたとしても、きっと目の敵にされるに違いない……アリシアはそんな事を考えながら、溜め息混じりにメイヤー夫人に返事をした。
メイランは自分の耳がおかしくなったのかと呆然と立ち尽くしかなかった。
そんな彼女に気づいたアリシアは、にこりと微笑い掛ける。
「メイラン、お料理を食べ易いように切り分けて差し上げて。お肉よりも魚の方が崩れ易いし、食べにくいと思うから」
「……畏まりました」
大した事では無いわ……、これしきの事で動揺されるのは困るのだ。
不用意な発言と態度を控えろと釘を刺したつもりだが、きちんと伝わっただろうか。
後宮の奥深く、自分の宮に籠っていると思っていた皇后ですらこれなのだ。
これから赴く先には、母とは比べ物にならないくらいの怪物ばかりが待っている。この程度の事柄で一々態度に出されては、あっさりと敵側に感づかれてしまう。
自分が気づいたくらいだから、後でマルグリットかイングリットのどちらかが、彼女に指導してくれるだろう。
「お母さまなんて可愛らしい方だったのね」
思わずといった風に零した言葉の意味を言ってから理解したアリシアは、嗤いを零した。
だが、アリシア自身にとっては悪いことばかりでも無い。
面倒事が増えてしまいはしたが、既に数多くの妃を持つ天帝の後宮に入るよりも、寵愛を競うという点に置いては、人数が少ない次代の後宮に入る方が、異国の姫というハンデのあるアリシアにとっては都合が良かった。
ただ確実に皇后を敵に回すと決まってしまった今、出来る事ならば手は組みたくは無かったが、太后を味方に付ける事が得策だ。
後宮に入る前にどうにか太后に繋ぎをつけられないものか……再びアリシアは考え事に耽り始めてしまったが、今度はメイヤー夫人も注意が出来なかった。
次の料理が運ばれてきてしまったのだ。
こちらの配膳に手を取られてしまい、アリシアが気になりはするものの、声を掛けることが出来ずにいた。
『旨い!』
だが、アリシアの意識を浮上させたのは、目の前に座る怜蜂の言葉だった。
声に顔を上げると、怜蜂が注がれた白ワインを料理を待たずに飲み干し、うっとりと瞳を細めているところであった。
『それ、おいしいの?小弟にもちょうだい!』
『お前にはまだ早い』
膝に乗せた瑞蛉が伸び上がってグラスを取ろうとするも、簡単に躱してイングリットにグラスを差し出している。
余程気に入ったらしい。グラスに注がれたワインをランプに翳し、ほんのりと蜂蜜色に染まったそれを眺め、グラスの口に鼻先を近づけて香りを楽しんでいる。
『娘々、この葡萄酒は沢山ありますかな?』
「それほど気に入られましたなら、持ってまいりましたものを宮にお届けしましょう」
『いや、太后にお贈りになられるといい』
「太后殿下……に、でございますか?」
『この味ならば、必ず気に入られる』
――天運は、私に傾いた!――
「では、持って参りましたもの全てお贈りさせていただきますわ」
憂いが無くなり晴れ晴れとした笑顔を向けるアリシアに、彩蝣は眩しいものを見るように瞳を眇め、瑞蛉はうっとりと瞳を細めるのだった。




